第31話

文字数 5,626文字

 縁側の廊下に面した部屋の明かりは煌々と灯り、広大な庭の一部を夜の闇に浮かび上がらせる。
 訓練の邪魔になるからと、洗練された日本庭園のように造り込まれてはいない。庭木と花壇があるだけで、はっきり言って殺風景だ。けれど、春は桜、夏はひまわり、秋は紅葉、冬は椿。移り変わる季節ごとに咲く花々と共にあるのは、家族との鮮やかな思い出。
 今まさに庭を彩る黄色のひまわりを眺め、明はふと息をついた。感傷的になっている。
 側には、盆に乗った酒器一式。酒が入った冷酒用のガラスの徳利と、お猪口が三個。冷酒用の徳利は、酒が薄まらないように氷入れが別に作られている。氷が、からんと涼やかな音を立てて崩れた。
 それが合図かのように、明が夜空を仰いだ。視界に、普通なら有り得ない光景が映る。
 志季の話だと、少し離れた場所に警察車両らしき車が一台停まっているらしいが、まさか空から龍と人が訪ねてくるなど考えもしないだろう。彼らの意識はあくまでも門に集中している。
 たてがみと尾を揺らす青龍が、背に横座りをした着物姿の宗一郎を乗せ、緩やかに下降して庭へ滑り込んだ。
「いらっしゃると思っていましたよ」
 笑顔でそう言って出迎えた明の前で、宗一郎はするりと青龍の体表を滑って着地した。青龍は渦巻いた水に包まれ、人の形を成してゆく。
「読まれていたか。寝ていたら、そのまま帰るつもりだったのだがな」
 おどけるように肩を竦めた宗一郎の背後で、人型に戻った右近が、何も言わずに大きく跳ねて姿を消した。先んじて指示されていたのか、それとも気遣いか。
「おや、その江戸切子」
 酒器に目を止め、宗一郎は盆を挟んだ向かい側に腰を下ろした。
「懐かしいでしょう」
 見事な細工が施された青い酒器は、昔、栄晴が仕事で東京に行った時に購入したものだ。その頃にはもう母はいなかったけれど、夏になると両家を行き来し、宗一郎と酒を酌み交わしていたことを覚えている。妙子や律子、夏美や桜たちの穏やかな話し声が聞こえ、側にはまだ赤ん坊の陽がいて、花火に興じる晴と宗史の笑い声が庭に響いていた。毎年目にしていたそんな光景は、六年前から途切れたままだ。
「晴は興味を示さなかったが、お前はこれをよく日にかざして眺めていたな」
 明は徳利を持ち上げてはにかんだ。
「中学生くらいですか。よく覚えていますね」
「まだ記憶力は衰えていないさ」
 宗一郎が手に取ったお猪口に、ゆっくりと冷えた冷酒を注ぐ。透明な酒が部屋の明かりを反射して、控え目な光を放つ。
「陽は?」
 宗一郎がお猪口を盆に置いたので、明は徳利を置いてお猪口を持ち上げた。
「もう休ませましたよ」
「そうか」
 明のお猪口に酒が注がれ、続けて三つ目のお猪口に。宗一郎が徳利を置いて自分の分を持ち上げる。
「ひとまず、ご苦労だった」
「お疲れ様でした」
 決して手がつけられることのない、もう一つのお猪口に向かってちょいと掲げ、口をつける。
 酒は嗜む程度だ。氏子らからのいただきものは上等な日本酒やワインが多く、飲まないのはもったいない。晴はビールを好むため、妙子にお裾分けをしたり、寮ができてからはそちらへ回すこともある。未成年がいるので、頻繁にというわけにはいかないが。
光明(こうみょう)か」
 銘柄を独り言のように言い当てた宗一郎が、満足そうに微笑んだ。
「やはり、美味いな」
 しみじみと、噛み締めるように呟く。
 光明は、宗一郎と栄晴の二人が好んで飲んでいた酒だ。この言い回しだと、おそらくあの日から口にしていないのだろう。何だかんだ言って、意外とセンチメンタルな一面がある。
 六年間の終止符が打たれた今日、飲むのならこの酒しかないと思っていたが、気に入っていただけて何よりだ。
 宗一郎は、もう一度口をつけてから言った。
「それで、人生初の聴取はどうだった?」
 倣うように明も口をつけ、お猪口を盆に置きながら答える。
「カツ丼は自腹でした」
「おや、そうなのか?」
 ここで乗ってくるのが宗一郎だ。陽と志季にも同じ話をしてやったのだが、陽からはぽかんとした顔で「はあそうですか」と曖昧な答えが返ってきて、志季には「聞いてねぇ」とぼやかれた。
「出前のメニューを見せられて、好きな物を選んでいいと言われたんです。奢りですかと聞いたら、自腹だと。一日拘束された上に自腹なんて、酷いと思いませんか。しかも、夕食もですよ。ますます理不尽です。妙子さんのご飯が恋しくなりました。今度呼ばれた時はお弁当を持参します」
 出前のメニューを持ってきた刑事によると、任意のため食事は自腹であれば可能なのだという。これが奢りになると利益誘導と捉えられ、供述が得られても価値がなくなるのだそうだ。また逮捕者は留置所の弁当だけしか食べられないらしい。理屈は分かるが、潔白の身としては理不尽極まりない。
 珍しく膨れ面の明に、宗一郎がくつくつと笑った。
「それは残念だったな」
「まったくです」
「加賀谷俊之には会ったか?」
「ええ。僕があまりにも白状しないので、ラスボス感たっぷりでいらっしゃいました」
 ははっと宗一郎が弾かれたように笑った。
「ラスボスか。なるほど」
 全身で警戒心を放つ加賀谷を見て、ああこの人かと思った。また加賀谷も明を見て、わずかに目を細めた。ただ、刑事ドラマなどでよく見るマジックミラーは、あんなに大きくなくもっと小さいが実際にあり、他の刑事に見られているため余計な話はできなかった。そもそも、記録係がいるので話そうにも話せない。
「印象としては、堅実、堅物といった感じでした。自ら不正に手を貸すような方には見えません」
「実際、脅されていたらしいからな。聞いたか?」
「ええ。陽と志季からあらましは。また明日、改めて詳しく聞きます」
 そうか、と答えて宗一郎はお猪口を持ち上げた。
「ところで、宗史くんはまた無茶をしましたねぇ」
 しらっとした顔で話題を変えると、宗一郎が口元で手を止めて渋い顔をした。
「私に相談もなく、あんな真似をするとはな」
 拗ねたようにぼそりと呟き、眉間に皺を寄せたまま酒を口に含む。父親であり師匠でもある宗一郎からしてみれば、心配や憤り、寂しさなど様々な感情が混ざり合って複雑だろう。明は口に手を添え、小さく肩を震わせた。
「でも、相談されていたら止めたでしょう?」
「それはどうだろうな」
「おや」
 明は驚いて宗一郎を振り向き、盆に置かれた空のお猪口に目を止めた。
「意外な答えですね」
 徳利に手を伸ばして注ぎ足す。宗一郎はゆったりと腕を組み、庭へと視線を投げた。
「潜入させるのなら、椿は適任だ。優しく従順、絶対に裏切らないタイプだからこそ、敵側からは信用を得やすいとも言える。ただ、やるのならもっと徹底的にやるべきだったな」
 徳利を置いて、明は自分のお猪口を持ち上げる。
「と言うと?」
「私なら、あの場にいた全員を狙わせる」
 思わず手が止まり、呆れた息を漏らす。
「また物騒なことを」
「裏切ったと印象付けるのなら、そちらのほうがより効果的だ。志季はともかく、右近たちや紫苑はさすがに手に余る。だが、二、三人負傷させれば十分だ。適当なところで立ち去ればいい。昴の援護も入っただろうしな」
「ああ、まあ……それはそうでしょうが……」
 式神は術者の鏡だ。そのため、主である宗史と晴の影響で椿と志季の実力は拮抗しており、対峙すれば決着は着かない。だが、変化可能な右近らと、一度敗北している紫苑を一人では相手にできない。昴が状況を察し、手を貸すだろう。何せ一年間も騙し抜いた人物だ。おそらく、実力はこちらが把握している以上、頭も切れる。
 確かに、宗史一人より効果的だし、式神がいれば治癒の心配もない。だが、こうも何でもないことのように言われると複雑だ。自分だったらどうしただろう。などと思うのは、まだまだ甘さを捨てきれない証拠だろうか。
 煮え切らない返事を漏らしてお猪口に口をつける明とは逆に、宗一郎はしたり顔を浮かべた。
「甘さは、あいつの弱点だ」
 まだまだだな、と付け加えて不遜な笑みを浮かべる宗一郎を、明は白けた目で一瞥した。ついさっきまで拗ねていたのに、嬉しそうな顔をして。
「椿は宗史の命令には絶対だ。ヘマはしないさ。これが志季なら意地でも連れ戻したがな」
「堪え性がないですからね、主と同じで」
「まったくだ。で、その堪え性のない式神だが、早く晴の霊力を引き出せ。結界が破られた」
「志季の?」
 驚いて振り向くと、宗一郎はああと言ってお猪口に手を伸ばした。
「そうですか……」
 先の報告ではなかった話だ。どのみち分かるのに、あれでも神だ。何か言いあぐねていたが、自ら報告するのは業腹だったか。
「それと、その主の方だが」
「……はい」
 明は、手の中のお猪口で踊る酒に目を落とした。漏れる部屋の明かりを乗せて、透明な酒が揺れる。
 明の心の内を知ってか知らずか、宗一郎は酒を一口飲んで続けた。
「初めは良かったのだがな。最後の最後で素が出た。あれだけ堪えろと言い聞かせたのに、あいつは」
 溜め息まじりの苦言に、明はそうですかと苦笑した。
 本当は、当主代理など立てなくても進行はできた。宗一郎はもちろん、それこそ宗史を補助に付ければ滞りなく話は進むだろう。それなのに彼は、晴を代理に立てた。土御門家当主が不在など、恰好がつかないと言って。そこにある真意が何なのか。
 ぐいっと一気に煽った明を盗み見て、宗一郎はお猪口を盆に戻しながら密かに息をついた。
「一度しか言わないからな。よく聞いておけよ」
 唐突にそんなことを言った宗一郎を、明はお猪口片手に振り向いた。
 目に入ったのは、腕を組んで背筋を伸ばした、凛とした姿。そして、わずかな迷いもない、真摯なまでの真っ直ぐな眼差し。悔しいくらいに、目を奪われる。
 少し薄い唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「進む道を明るく照らし、清らかに晴らす、陽の光となれ。――それが、お前たちの名前に込められた、栄晴の願いだ」
 願い――。
 明は目を丸くして口の中で呟き、空になったお猪口に目を落とした。
「お前たち三人が揃って初めて、栄晴の願いを意味する。陰陽師としても、一人の人間としてもな。誰一人欠けても、意味を成さん」
 自然と、お猪口を持つ手に力が入った。
 父であり、師匠であったあの人を、敬愛していた。大きな背中を、いつも見ていた。当主の座に興味はなかったけれど、人として、いつか自分もあんなふうに、あんな人にと憧れた。だから、父に似ていると言われるのが嬉しくてたまらなかった。
 その父が、願いを込めて付けた名前。
 ――期待されていなかったかもしれないなんて、なんて馬鹿なことを。
 栄晴は、本当に知っていたのかもしれない。三人の子を授かることや、長男より次男の方が陰陽師としての才覚があること、また母の死も、全て。
 いつか、弟の方に才覚があることは知れてしまう。勘違いさせてしまうことを承知の上だったのかもしれない。それでも習わしに囚われることなく、逆の名をつけた。そこには、間違いなく平等に、期待と愛情、そして願いが込められていた。
 陰陽師として、肉体を失ってなお彷徨う人の魂を天上へ導き、負の感情に囚われる悲しき魂を救えと。一人の人間として、例え同じ道を行かずとも互いの進む道を照らせ、と。
 兄弟三人で、誰一人欠けることなく。
 堪え切れない嗚咽が漏れそうになって、明はきつく唇を噛んだ。この年になって人前で泣くなんて。しかも、宗一郎の前で。
 そう思っても涙は勝手に滲み出て、とうとうこぼれ落ちた。
 ああ、また弱みを握られたなぁ、と頭の隅で口惜しく思っていると、おもむろに横から腕が伸びた。そして手が頭に乗せられ、子供をあやすようにぽんぽんと叩いた。
 同じ当主という立場にありながら、この扱いよう。親子ほどの歳の差があるのだし、幼なじみであり好敵手であった親友の忘れ形見だ。仕方ないとは思うけれど、甘んじるほどプライドは捨てていない。生半可な覚悟で、土御門家の当主の座に就いたのではない。
 やめてください、と苦言を呈する前に、手が離れた。さすがに察してくれたかとほっとしたのも束の間。
「明」
 酷く優しい声で名を呼ばれ、明は眼鏡の下から涙を拭ってからバツの悪い顔を上げた。
「おいで」
 見やった先では、満面の笑みを浮かべた宗一郎が上半身を捻ってこちらを向き、両腕を大きく広げていた。一瞬思考が停止し、涙がこんなに早く引っ込むものかと思うほど早く引っ込んだ。
「……何の真似ですか」
 至極冷ややかに尋ねると、宗一郎はとても浮かれた声で言った。
「私の胸を貸してやろう」
「結構です」
「遠慮するな」
「していません」
「そう照れるな。良いではないか」
「しつこいですよ。悪代官ですか貴方は」
 ふいと顔を逸らし、握っていたお猪口に手酌する。そこでやっと諦めた宗一郎が、不満げな顔で腕を引っ込めた。
「なんだ、つまらん」
 一つぼやき、お猪口を持ち上げる。気を使ったのか、それとも本気なのかいまいち分からない。本当にこの人は。
 呆れ顔で息をつき、酒を口に含む。
 最後に酒を酌み交わしたのは、栄晴が亡くなる年の夏。その時はここで、この酒器を囲んだ。今と同じ三人で。
 まだ、事件は続いている。問題も謎も、心配ごともある。土御門家当主として、その責任を果たさなければならない。
 でもあと少し、せめて徳利の中の酒が尽きるまで、臆病で我儘な息子でいたい。
「こんな時くらい甘えてもよさそうなものを」
「相手が貴方でなければ、そうしましたよ。宗史くんに言ってはいかがですか?」
「冗談だろう。あいつの冷たい視線は凶器だ」
 そう言って、宗一郎はぶるっと身を震わせた。誰に似たんだか、と苦い顔でぼやく宗一郎に、明の屈託のない笑い声が重なる。
 この名にどんな意味が込められていても、できることなら貴方の名を継ぎたかった。そう言ったら、あの人は子供のようだと笑うだろうか。
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