第10話

文字数 5,590文字

 昨夜、携帯の目覚まし時計を七時にセットした。それなのに、何がどうなって現時刻が八時なのか。
 お前ちゃんとアラーム鳴らしたか? と寝ぼけ顔で携帯を責める大河を、すっかり身支度を整えた影正が呆れ顔で見下ろしている。先に起きたのなら起こして欲しかった。
「いいからさっさと支度してこい。宗史くんには九時頃行くと言ってあるんだろう」
 容赦なく布団をはぎ取られ、大河は鈍い体を起こした。
 昨夜、影正はおろか明すらも助ける素振りを見せなかった。むしろ面白がっていたように見えた。言葉通り生贄となった大河への樹と怜司の尋問とも言える質問攻撃は、三兄弟と家政婦の妙子が帰路に着き、入浴を済ませ、二人の哨戒時間十二時ぎりぎりまで続いた。その間、樹がトイレに立った隙に賀茂家訪問の相談を影正とし、送ってあげるよと言った茂の言葉に甘えることにした旨を宗史に連絡した。
 このまま逃げられるかもと淡い期待を抱いてリビングの向かいにある食糧庫に避難したのだが、空しくも宗史との電話中に見つかった。映画のシャイニングさながらに戸の隙間から顔を出した樹に盛大な悲鳴を上げた大河は、再び樹と怜司の生贄となった。宗史に電話口で大声を上げた謝罪をしなければ。
「あの二人、しつこすぎる……」
 まだ開き切らない目を擦りながら支度を整えダイニングに降りると、テーブルにラップがかかった一人分の朝食が用意されていた。
「あ、おはよう大河くん。少しは眠れた?」
 華がキッチンで洗い物をしながらにこやかに声をかけた。朝から美人の笑顔って贅沢だ、と風子とヒナキが聞いたら容赦ない非難を浴びせるだろうことを思いつつ、大河はへらっと笑った。
「おはようございます、華さん。すみません、寝坊しました……」
「いいのよ、樹が悪いんだから。もうあんまり時間ないでしょ。ロールサンドにしたんだけど、大丈夫だった? 和食派?」
「全然大丈夫です。うわ、うまそー」
 刀倉家は基本、朝食は和食だ。パンが出てくるのは雪子が寝坊した時くらいだ。
 大河は椅子に腰かけ、いただきますと手を合わせてロールサンドにかぶりつく。たまごにハム、ツナ、ジャム、ウインナーと種類が多く、色とりどりの切り口が食欲をそそる。
 家では滅多に食べられないロールサンドを味わいながら、大河はふと周りを見渡した。
 華以外の住人がいない。残っていた朝食が一人分ということは、皆食事を終わらせたのだろう。学生組は部屋で宿題をしているのかもしれないが、成人組はどこに行ったのだろう。
 大河はカウンター越しに野菜スープを出してきた華に尋ねた。
「あの、皆は?」
「ん? ああ、ここは共同生活の場だからね。皆何かしら持ち場があるのよ。お掃除とか買い物とかね。樹と怜司くんは、夜中の哨戒だったからまだ寝てるわ。昴くんと香苗ちゃんは、双子をお散歩に連れて行ってくれてる。後の学生組は部屋で夏休みの宿題してるはずよ。多分」
「多分?」
「弘貴がねぇ……」
 困ったようにしみじみと呟いた華が言いたいことは考えるまでもない。昨夜感じたのだが、弘貴は自分を同じタイプだ。あまり余計なことを言って突っ込まれても困る。大河は曖昧に笑ってロールサンドに手を伸ばした。
「そう言えば、昨日聞きそびれたんですけど、哨戒って何してるんですか?」
「ああ、大河くん、邪気や悪鬼の説明は聞いてる?」
「はい」
「それを見つけて調伏や浄化したりするのもそうなんだけど、ほら、呪いの術とかってネットでも色々調べられるじゃない? たまにいるのよ、神社とかでやってる人。そういうのを見つけて止めたり、悪鬼になる前の邪気を祓ったりするの」
「へぇ、陰陽師ってそんなことしてるんだ」
「そう。樹と怜司くんは寮の中でも実力者だから、悪鬼の動きが活発になる夜の哨戒中心なの」
 え、と大河は手を止めた。
「もしかして、草薙って人が言ってた、宗史さんと同じくらいの実力者って……」
「そ、樹のことよ」
「……そう、なんですか……」
 意外と言ったら失礼だが意外だ。陰陽術マニアとか筋トレマニアとかなら分かるが、あんなちょっと危ない人が実力者なんて、大丈夫なのか。
 大河は少々複雑な気分で朝食を平らげた。
 台所はあたしの仕事だから、と言ってくれた華に礼を言って片付けを任せ、大河は部屋に戻って荷物をまとめた。もう八時半を回っている。
 腹ごなしをする間もなく荷物を抱えて部屋を出ると、ちょうど弘貴と春平が同じ部屋から出てきたところに出くわした。ここは確か春平の部屋のはずだが。
「おー、おはよー大河。起きれたか」
「おはよう、大河くん。今日、僕も一緒に行くね。本屋にも行きたいし、二人一組厳守」
「おはよう二人とも。ああ、宗一郎さんが言ってたっけ。ありがとう。で、弘貴は何で春の部屋から出てきたんだよ。宿題してたんじゃないの?」
 階段を降りながら突っ込んでやると、弘貴は堂々と言い放った。
「休みと称しておいて宿題を出すとはこれいかに! 満喫してこそ夏休みだ!」
「そう言って毎年最終日に泣き入れてくるだろ。今年は絶対手伝わないからね、絶対」
「つれないこと言うなよ、春。俺たち友達だろ」
「宿題ごときで友達に迷惑かけるなって話だよ」
 呆れ気味の春平の言葉は耳が痛い。ごめんなさい、と大河は心の中で謝った。誰にと言われれば一人しかいない。
「お前も今年は早く宿題終わらせろよ、大河」
 階段の上から影正が余計な攻撃をしてきた。分かってるよ、と大河がふてくされた返事をしたところで、正面の玄関が開いた。茂だ。
「おや、おはよう大河くん。昨日はすまなかったね。眠れたかい?」
「おはようございます、しげさん。一応眠れました……すみません、寝坊して」
「いいよいいよ。宗史くんのことだ、樹くんの奇行は知ってるから、大河くんの災難を織り込み済みだと思うよ」
 さらりと毒舌を吐きながら茂はにこやかに笑った。奇行て、この人結構言うなぁ、と大河は苦笑いを浮かべた。
「おはようございます」
 風呂場がある廊下の先から声をかけてきたのは夏也だ。
「あ、おはようございます、夏也さん」
「……お帰りですか」
「ええ、はい……えっと、お世話になりました」
「いえ。大したお構いもしませんで」
「いえそんな」
 何だこのテンション。会話の内容は決して間違っていないが、こういう最後の挨拶はもっと和やかににぎやかにやるものではないのか。夏也の無表情も相まって、葬式のようだ。
 ああ、と夏也が何かを思いついたように視線を上げた。
「樹さんと怜司さんを起こして」
「いや! いいっす大丈夫っす寝かせてあげてくださいッ! ぜひ!」
 階段へと足を向けた夏也の腕を反射的に掴んで引き止め必死に訴える。
 もうアレ以上のネタはない。ここで捕まったら今日中どころか夏休み中に家に帰れないかもしれない。最悪、牙を召喚するまで監禁されるかも。というのはさすがに言い過ぎかもしれないが、そう思わせるほど二人の尋問は凄まじかった。
「トラウマってんな」
「トラウマだね」
「トラウマだねぇ」
 楽し気に声をそろえる弘貴と春平と茂に交じり、影正が呆れた息をついた。
「ちょっと待って待って。美琴呼んでくるわ」
 言いながらキッチンから出てきた華を、影正が引き止めた。
「いいですよ、華さん」
「でも……」
「宿題に集中しているところを邪魔したくないですから」
 年上の影正には押し通せないのだろう。はっきりと断られ、華はすみませんと眉尻を下げた。うちの娘が、と続きそうなくらい、華は寮の「お母さん」だ。
 皆で雑談を交わしながら、昨日宗史たちを見送った門の外へ出る。さすがに賀茂家のようなセレブ御用達高級車とまではいかないが、そこそこ値の張った乗用車が待機していた。寮といい車といい、陰陽師の収入源は一体どうなっているのか。昨日昴が会合で「霊現象の相談に乗ってくれる陰陽師がいる」と言っていたが、そういう相談料などだろうか。
 運転席に茂、助手席に春平が乗り込んだ。大河が後部座席の窓を開けると、弘貴が覗き込んできた。
「大河、宗史さんと晴さんの携帯は知ってんだよな」
「うん」
「んじゃ、また来る時絶対連絡しろよ。今度はもっと遊ぼうぜ」
「分かった。また来る」
「おう」
 にっと笑って弘貴が突き出してきた拳に、大河も拳を合わせた。ごつ、と骨がぶつかる鈍い音がした。
「じゃあ、行ってきますね」
「はい。気を付けて。また遊びに来てくださいね、二人とも」
 ありがとうございます、と影正と大河が声を揃えて言うと、ゆっくりと車が発車した。見えなくなるまでずっと見送ってくれている三人に、大河は頬が緩んだ。
 窓を閉めて、座席に深く座り直す。窓の外を流れる京都の街並みを眺めながら、大河は少し浮かれた気持ちになった。
 夏休み初日からとんでもないことに巻き込まれたと思っていたが、まさか京都にこんなにも知り合いができるとは思わなかった。無表情やら無愛想やら奇行種やら、皆個性が強いが悪い人たちではない。
 またいつか会えるかな。
 その時は省吾たちも一緒だったら最高だ。きっと皆と仲良くなれる。今年の夏は、風子とヒナキが受験生だから無理だ。なら、来年の春休みはどうだろう。卒業祝いと入学祝いを兼ねて京都旅行なんて、絶対喜んでくれる。来年の春以降は、大河と省吾が忙しい。
 ふ、と大河は嫌なことを思い出して顔を曇らせた。
 二年に進級してすぐ、進路希望調査があった。省吾は迷いもせず大学進学を希望した。しかもすでに希望大学を第三希望まで決めていた。対する大河と言えば、提出期間ギリギリまで悩んで結局「未定」と書いた。案の定、担任に呼び出された。
「まあまだ一年あるし、急ぐことないけど。でも、もし大学進学するならお前の成績じゃ今から少しずつ対策しとかないと難しいぞ」
 と容赦ない判定を食らった。
 急ぐことないなら急かすなよ、という大河の意見は正論だが、将来を考えるきっかけになるのは確かだ。定期テストや夏休みの宿題のように一夜漬けというわけにはいかない。今までのように省吾に相談して出せる答えでもない。こればかりは自分で決めるしかないことは理解している。けれど、いまいち決め手がない。進学か就職か。
 進路なんて、皆いつから考えてるんだろう。
 気付かないうちに、皆それぞれ自分の将来を見据えていた。まるで自分だけが置いていかれたようで、少し心細くなる。
 沈みかけたテンションを拭うように、大河は前のめりで前の二人に尋ねた。
「そう言えばさ、二人は宗史さんち行ったことある?」
「うん、あるよ」
「どんなだった? 陰陽師の家って想像つかない」
 さっきまでテンションが下がりかけていたとは思えないほど目を煌めかせる大河に、春平はそうだなぁと前置きをして答えた。
「とにかく大きいかな。寮とは比べ物にならないくらいの規模。日本家屋の豪邸を想像してよ」
「豪邸……」
 大河は腕を組んで唸りながら想像してみた。寮も十分立派だが、それ以上の豪邸となると見たことがないためはっきりとしたイメージが浮かばない。
 しばらく神妙な表情で目をつぶって想像力をフル稼働させるが、いかんせん知識が乏しい。ゆえにどうしても出てくるのは、
「駄目だ。漫画で見た馬鹿みたいな規模しか想像できない」
 このレベルである。息を吐いて降参した大河に、春平は笑った。
「行ってみれば分かるよ。そうだ、宗史さんに妹さんがいるって聞いてる?」
「えっ、宗史さんって妹いるの?」
「いるよ。僕たちと同じ年なんだけど、めっちゃくちゃ可愛い」
「うっわマジか!」
 一気にテンションが上がり、大河は満面の笑みを浮かべた。
 宗史の妹となれば可愛いだろう。それでなくとも「あの」宗一郎と祖母の血を受け継いでいるのだ。可愛いに決まっている。
「ただ」
「……え」
 春平が発した思い詰めた声に、一瞬にして大河の笑顔が凍りついた。
「妹さん、桜ちゃんって言うんだけど、生まれつき体が弱いらしくてさ。宗史さんが、溺愛してるんだよね……」
 俯いて怪談でも語るような口調に、ごくりと喉を鳴らした。その先は聞きたくないような、身の安全のために聞いておいた方がいいような、どちらとも言えない気分だ。
「無闇に手ぇ出した日には、ね……」
 出したな、誰か手ぇ出したなこれ! 誰だ弘貴か、と勝手に容疑者扱いしたが、当らずとも遠からずだろう。どんな仕置きを食らったのか気になるところだが、世の中には知らない方がいいこともある。それにこれから会おうとする相手だ。怯えながら京都観光はしたくない。
「わ、分かった。肝に銘じとく」
 はしゃいだ気持ちを落ち着かせるように居住まいを正した大河に、春平がそうした方がいいよとこれまた神妙に返答した。
 と、胸に抱えた春平のボディバッグから携帯の着信音が微かに聞こえた。携帯を取り出して液晶を確認した春平が「華さんだ」と呟いた。
 そして通話ボタンを押した途端、
「春くん!? 今どこ!?」
 華の慌てた声が響いた。後部座席にいた大河たちにも届くほどの声量だ。驚いた春平が思わず携帯を耳から遠ざける。
「春くん聞こえてる!?」
 もしもし、もしもし、と何度も春平の反応を確かめる声が聞こえた。かなり焦っているようだが、何かあったのだろうか。大河と影正が顔を見合わせ、茂は気にするようにちらりと顔を向けた。
「聞こえてます、華さん。どうしたんですか? そんなに慌てて」
 携帯を耳に当て、落ち着いた声色で華を促す。数秒後、
「えっ!?」
 今度は春平が驚きの声を上げた。
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