第19話

文字数 2,093文字

      *・・・*・・・*

 突如感覚に触れた気配は、こちらへ向かっている。昴は、携帯を持ち上げて画面をタップした。ミュージックアプリを閉じ、イヤホンを外す。
 人工的に作られ、計算され尽くされた音の代わりに耳に入ってきたのは、自然界の優しい音。何の意図もない、風になびかれるがままにざわめく木々――それだけだ。本来ならそこここで鳴いているはずの虫の音は、一切聞こえてこない。何せ、ここには鬼二匹と悪鬼の総大将とも言える千代がいる。虫も逃げ出すだろう。
 怖がらせて悪いなぁ、と密かに苦笑したところで、頭上からざっと葉を掻き分ける音がした。茂った枝葉の中から降ってきたのは、満流と犬の姿をした杏だ。目の前で、わずかに砂を舞い上がらせながらふわりと着地する。
「おかえり」
「おや、昴さん。まだ起きてらしたんですか?」
「うん。こんな時間までお疲れ様って言おうと思って」
 ははっと満流が短く笑った。
「ありがとうございます」
 頬を緩めて杏から飛び降り、ご苦労様と背中を撫でる。
「どうだった?」
 短く問うと、満流は振り向いて苦笑した。
「駄目ですね」
 おどけるように肩を竦め、ゆっくりとこちらへ足を向ける。後ろから、杏がくっついてくる。
「言ったはずだよ。簡単には引っかかってくれないって」
 今回の総力戦に乗じて、紺野らが草薙から聞き出した楠井家を探ることは計算尽くだ。しかし、下調べもせずに彼らに調査させることはないだろう。となれば、土御門尚が関わっていれば彼が動く――と読んだのだが、宗一郎と明がその程度の思惑に気付かないはずがない。対策を講じた上で紺野たちが承諾すれば、下調べなしでも調査する。だから監視しても無駄だ。そう、先立って満流には進言しておいた。案の定、あの日からこっち、尚とおぼしき人物が楠井家周辺に現れた形跡はない。
「そうなんですけどねぇ。でもほら、このままだと面倒じゃないですか。向小島の結界もそうでしょう。完全に上書きされていて、彼が仕込んだものかどうか分からなかったんですよね」
「彼がもし関わっているなら、宗一郎さんと明さんの護衛に付くだろうから、確かに面倒だね」
「顔くらい確認しておきたかったんですけど。やっぱり、人員不足は否めませんねぇ」
 溜め息をついた満流が、おや、とイヤホンが繋がれたままの携帯に目を止めた。
「珍しいですね。何を聞いていたんですか?」
 尋ねながら昴の隣に腰を下ろし、杏が側でお座りをした。昴は笑みを浮かべたまま携帯に目を落とし、イヤホンを外す。
「つまらないものだよ」
 適当にまとめて軽く結び、ところで話題を変えた。
「柴と紫苑の刀はどうする?」
「ああ、そのことですが、一つ当てがあります」
 当て。昴は逡巡し、あれかと思い当たった。
「玖賀家?」
「ええ。ついでと言ってはなんですが、橘家の件であちらに割れているのは間違いありません。まだ玖賀家で何も起きていないということは、調査してると思うんですよね。間違いなく、玖賀家を訪ねるはずなんです」
「警戒はしてるだろうけど、犬神を放ってはおけないだろうからね。じゃあ、ぶつけてみる?」
「その予定です。明日――もう今日ですか。あちらが敗北しなければの話ですが」
「どうなると思う?」
「さあ、どうなりますかねぇ。こればかりは、配置と牙によりますから。さすがにそこまで読めません」
「牙に関してはともかく、平良さんが放棄しなきゃいいけど」
「それです」
 何気なく言った一言に、満流が勢いよく振り向いた。
「成田樹さん以外の寮の方々と当たった場合、その可能性は無きにしも非ずです。せめて彼らだと助かるんですけどねぇ」
「宗史さんと晴さん?」
「ええ。彼らだと、実力だけなら平良さんも満足していただけるでしょう? ていうか、彼は僕より年上ですよ。もう、ほんと我儘なんですから」
 膨れ面をして向き直る満流に小さく笑い、昴も前を向く。
 樹への執着からか、平良は樹に関係しない事柄には無関心だ。そのため、人員配置には頭を悩ませる。それに加えて、先日の弥生の件。今のところ大人しくしているけれど、戦闘時に無理をしないとも限らない。彼女が捕虜、あるいは死亡すれば、今度は真緒と里緒が暴走するだろう。ただ、先日の賀茂家での一戦の報告は、弥生の言うように少々不可解だ。待機していた満流の気配を察知していたとも考えられるが――果たしてどうだろう。一方、健人はいつも通り冷静で、雅臣も落ち着きを取り戻している。
 それぞれが過去を抱え、ゆえに機微や扱い方には気を使う。
「大変だね」
「大変です」
 やれやれと言いたげに、満流は渋い顔で大きく溜め息をついた。
「でも、楽しそうだよ」
 特別な意味はなかった。彼を見て純粋にそう思ったからこそ口に出た、素直な感想だ。満流が逡巡し、ゆっくりと視線を遠くへ投げた。
「ええ。楽しいですよ」
 言葉通り、他の意味などない、とても素直で、無邪気な微笑み。昴は目を伏せ、頬を緩ませた。
「そう、良かった」
 倣うように視線を遠くへ投げる。
 沈黙の中、街中よりは幾分涼しい風が控え目に吹き抜け、葉の隙間からこぼれ落ちていた月の光を揺らした。
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