第16話

文字数 4,014文字

 翌週の月曜日から出勤はしたものの、あの封筒のことばかりが頭をよぎる。行く先々の医師から心配された。自分では気付かなかったけれど、見るからに疲弊しているらしい。
 ご心配ありがとうございます、大丈夫ですと口では言えるけれど、これまで通り働いている自分に、違和感があった。どうして働いているのか、何のために、誰のために働いているのか分からない。
 もう、香穂はいないのに。
 香穂の自殺の原因と思われる証拠はあるのに、それを証明する手立てがない。
 次第に、感覚が麻痺していくのが分かった。決まった時間に起きて、身支度をして出社。仕事をこなし、帰宅し、無理矢理腹に食べ物を収め、風呂に入って就寝。そしてまた、朝を迎える。
 仕事をしている時以外は、思考が止まったような感覚だった。生きるための最低限の行動を繰り返す。そこに、何の意志も感情も存在しなかった。
 半月が過ぎた頃、輝彦から電話がかかってきた。法子の実家がある福知山市に引っ越すと言うのだ。今の家は香穂との思い出が多すぎて、法子がすっかり塞ぎ込んでしまったらしい。
 諦めるのも仕方がない。一切の証拠も手立ても思い付かない。何より、たかが一般人が相手取るには、草薙製薬は巨大すぎる。法子のことを気にかけ、早々に現状を変えようと決断できる輝彦は気丈だ。香穂も一緒に連れて行くと言うので、引越しの日が決まったら連絡して欲しいと伝えた。
 さらに半月後。
 引っ越しは平日だった。こんな時、外回りだと予定を調整しやすい。怜司は一件目の営業先を辞したあと、その足で桂木家へと向かった。
 到着した時には、自宅前に引っ越し業者のトラックが横付けされ、荷台の扉が閉められるところだった。その後ろに停めてある自家用車の側で、桐箱を抱えた法子が近所の主婦らと別れの挨拶をしている。
 気付いた法子が軽く会釈をしたので、怜司も会釈を返す。警察に救急車まで出動したのだ、噂にくらいなっているだろう。主婦らが察し、遠慮するように一歩下がった。
 怜司が目の前で足を止めると、法子は視線を逸らし、弱々しく呟いた。
「……ごめんなさい」
 一か月前よりもずいぶんと痩せ、明るさはすっかりなりを潜め、覇気がない。
「謝らないでください」
 京都市から長岡京市は、怜司の自宅から車を使えばほんの三十分。いつでも会える距離だ。北部に位置する福知山市も同じ京都府だが、ここより遥かに時間がかかる。それを心苦しく思っているのだろう。だが香穂を置いて行けば、反対に輝彦と法子が寂しい思いをする。どちらか一方の選択しかできないのなら、家族と一緒の方がいい。
 法子が「ありがとう」と力ない笑みを浮かべた時、玄関から両手にペット用のキャリーバッグを提げた輝彦が出てきた。
「こら、暴れるんじゃない」
 ハクとフクが嫌がっているらしい、キャリーバッグが大きく揺れ、二匹がしきりに鳴いている。
「あれから、やけに鳴くようになったの。やっぱり、分かるのかしらね」
 寂しいんでしょうねぇ、と主婦の一人が悲しげに呟いた。
 まったく、とぼやいた輝彦と視線が合うと、とたんに法子と同じように申し訳なさそうな顔をした。
「仕事中なのに悪かったね。ありがとう」
「いえ」
 門扉を通り抜け、輝彦が怜司の前で足を止めると、ハクとフクの鳴き声がぴたりと止んだ。側面のメッシュ部分から覗き込むように怜司を見上げ、にゃあ、と一声鳴く。そして体を反転させて自宅の方を向き、名残惜しそうに再び鳴き声を上げた。
 輝彦は諦めたように息をつき、怜司を見据えた。
「怜司くん。勝手なことを言うようだけど、良かったらいつでも遊びにおいで。待ってるから」
「はい。ありがとうございます」
 素直に受け取った怜司に、輝彦がほっと笑みを浮かべて頷いたところで、引っ越し業者から「そろそろいいですか」と声がかかった。時間だ。
 怜司はおもむろにしゃがみ込み、ハクとフクを交互に覗き込んだ。尻を向けていた二匹が首だけで振り向いた。
「ハク、フク。元気でな」
 大きな目で怜司を見つめ、答えるようににゃあと鳴く。怜司は腰を上げ、今度は桐箱に目を落とした。
 何を言えばいいのか、どう声をかけるべきなのか、分からない。ゆっくりと、慈しむように桐箱を撫でて、歯を食いしばる。口を開いたとたん涙がこぼれそうだ。堪えるように目を伏せ、名残惜しそうに手を離した。
 そんな怜司を、輝彦と法子はもちろん、後ろで眺めていた主婦らも痛々しい顔をして見守っている。
 トラックのエンジンがかかり、怜司は気を落ち着かせるように息を吐いた。輝彦と法子を見やり、精一杯の笑顔を浮かべる。
「お気を付けて。お元気で」
 法子が堪え切れずに口を覆って嗚咽を漏らし、輝彦は目を潤ませた。
「ありがとう。怜司くんも」
「はい」
 会釈を交わし合い、輝彦と法子は背を向けた。後部座席にハクとフクを乗せ、桐箱は法子が抱えたまま助手席へ。ドアが閉められると助手席の窓から法子が覗き込むように怜司たちを見上げた。エンジンがかけられ、トラックが先行する。もう一度、最後の会釈を交わし合い、車はゆっくりとその場をあとにした。
 車が小さくなった頃、主婦らが一様に寂しげな溜め息をつき、不憫そうな目を怜司に向けた。
「じゃあ、あたしたちもこれで」
「はい」
 主婦らは怜司に会釈をして背を向けた。よほど親しかったのだろう、寂しくなるわね、そうね、と話す彼女たちを見送って、怜司は改めて桂木家だった家を見上げた。
 まだ昼間だというのに、しんと静まり返り、影が落ちたように暗い。ほんのわずかでも思い入れがあるから、そう見えるのだろうか。
 この家で、もう二度と桂木家の笑い声が響くことはない。
「引っ越しか……」
 ぽつりと呟く。
 両親も香穂もいないこの場所に、とどまる理由はない。ならばいっそ、どこか別の土地へ行くのもいいかもしれない。仕事なんか、一人で暮らしていけるだけの収入があればいい。贅沢な日々も、お洒落な生活も望んでいない。
 それなら、香穂の側がいい。
 生活が落ち着いた頃を見計らって、輝彦たちに連絡を取ってみよう。怜司は目の前で佇む一軒家から目を逸らし、ゆっくりと踵を返した。

 帰宅し、着替えを終えて倒れるようにソファに腰を下ろしたのは、七時半頃。
 何か食べなければと思うけれど、食欲もないし面倒臭い。このまま風呂に入って寝てしまおうか。
 あの日から、現実を拒絶するように眠っている時間が長くなった。あんなに好きだった本を読まなくなり、映画もテレビも見なくなり、ぼんやりとするか寝ているかのどちらかだ。
 もう風呂に入るのも面倒臭い。でも明日も仕事だ。さすがに汚れたまま営業回りをするわけにはいかない。
 怜司は背もたれに体を預け、天井を仰いだ。
「……面倒臭い」
 ぼそりと呟いて、目を閉じる。
 静かな部屋に、外の喧騒が微かに届く。車やバイクの走行音、誰かの話し声、どこかの部屋で物を落とした音、犬の鳴き声。
 本を読んでいる時やテレビをつけていると聞こえない、世の中に溢れるたくさんの音が、今は無情に思う。香穂がいなくなっても世の中は何も変わらないと、そう、言われているようで。
 ならば、自分がこのまま死んでも構わないだろう。誰も困りはしないのだから。
 走り去っていく車の走行音のように、ゆっくりと意識が途切れた。
 いつの間にか横になって寝てしまったらしい。外から響く男の怒鳴り声で目が覚めた。喧嘩、ではなく酔っ払っているのか。静かにしろって、と別の男の苛立った声が聞こえてくる。
 怜司は気だるい体を起こし、しばらくぼんやりしたあとローテーブルに置いていた携帯を確認する。九時過ぎ。二時間近く眠っていたらしい。疲れた息を吐いて、ゆらりと重い腰を上げる。キッチンに入り、水切りかごに入れたままのグラスを取って水を注ぐ。一気に飲み干して、またぼんやりと部屋を見渡した。
 この部屋も香穂のアパートも単身者用で、二人で暮らすには手狭だった。だから引っ越しを考えた。そう広くなくてもいいから、LDKと寝室は別がいい。あとは広い収納。後々、絶対に本が増えるからそれは譲れない条件だった。
 ふと思い出した。香穂と物件を探している時に書いたメモ。
 怜司はグラスをシンクに置いて、デスクワゴンの一番上の引き出しからクリアファイルを引っ張り出した。
 参考までにとプリントアウトした物件の間取り図が数枚。そして、コピー用紙に箇条書きしたメモは、怜司と香穂の字が混ざっている。余白には、買い替える家具のデザイン、色の候補やサイズが書き足してあり、中には落書きのような図もある。壊滅的に絵心のない香穂をからかい、そこから落書き大会になった記憶が蘇った。
 このメモには、二人分の未来への夢と期待がいっぱいに詰まっていて、胸が苦しくなった。
 ゆっくりと箇条書きに目を滑らせ、自分の字で書かれた条件に目が止まった。『ペットOK』。
 香穂の実家に挨拶に行った日、帰ってから書き足したものだ。今まで一度もペットを飼ったことがなく、ハクとフクを見てそれも有りかなと思ったのだ。香穂に提案すると、飼うならやっぱり猫がいいと喜んでくれた。
「……猫……」
 不意に、何かが引っ掛かった。
 そういえばあの日、ハクは香穂の部屋の扉を引っ掻き、フクはしきりに鳴いていた。まるで、扉の向こう側の状況を察知したように。それと、葬儀の日と今日。
 怜司の目がじわじわと見開いた。弾かれたようにクリアファイルとメモを机に放り出し、携帯や財布、鍵を引っ掴んで部屋を飛び出した。
 大通りでタクシーを捕まえて住所を告げる。
 葬儀の日、庭の方から視線を感じた。ハクとフクも何か察したように反応し、そして今日も家に向かってしきりに鳴いていた。
 どうして気付かなかったのか。法子も言っていたのに。香穂が死んだ日から、ハクとフクはやけに鳴くようになったと。
 まさか――。
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