第5話

文字数 2,329文字

 一の鳥居をくぐると、すぐ右手に五十鈴川へ下りられる石階段がある。御手洗場(みたらしば)と呼ばれ、かつては五十鈴川でお清めをしていたらしい。今でも可能だが、昔とは水質が変わっているため飲まないように注意喚起されている。そして、参道から見て左手に延びる脇道には、瀧祭神(たきまつりのかみ)が祀られている場所がある。社殿はなく、御垣と門のみで石畳に祀られているが、五十鈴川の守り神として大切にされているらしい。また、内宮に参拝する前にお参りすると、天照大御神に取り次ぎを行ってくれると信じられている。
 御手洗場を横目に、参道は左へ大きく曲がる。その先はしばらく何もない。鬱蒼と茂った木立が頭上を覆い、赤みを帯びた夕陽が葉の隙間から降り注ぐ。木立の影と夕日の赤が、地面に幾何学模様を描いている。
 自然と誰もが口をつぐみ、足だけを動かす。
 こんな空間を、静謐と言うのだろう。蝉の鳴き声すらせず、足音を響かせることさえも躊躇うほど、静寂に包まれた森の中。完全に浄化された、ひんやりとした空気。濃い土の香りと木々の囁き。おそらく、ここを訪れた誰もが感じるだろう。優しく包み込むような、満ち満ちた神気を。
 今どんな状況で、自分がどんなことに悩み、これから何が起ころうとしているのか。全てを忘れてしまいそうになるほど、気持ちが落ち着いてくる。
 春平は、神気を体に取り込むように、深く息を吸った。
 しばらく行ったところに建つ二の鳥居をくぐると、授与所と神楽殿が並び、授与所のほぼ正面に小道が延びている。奥には、皇大神宮別宮・風日祈宮(かぜひのみのみや)が建立されている。ご祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子神であり、雨風を司る神、級長津彦命(しなつひこのみこと)級長戸辺命(しなとべのみこと)の二柱だ。鎌倉時代の蒙古襲来の際、猛風を起こして敵兵十万を全滅させたという伝説がある。
 授与所と神楽殿を過ぎると、五丈殿や御酒殿、四至神(みやのめぐりのかみ)忌火屋殿(いみびやでん)・祓所と、見学はできないが近くまで行ける場所も含め、たくさんの見どころを通り過ぎる。そして次は、別宮・荒祭宮(あらまつりのみや)への脇道が見えてくる。
 正宮では、個人的な願い事をしてはならないと言われている。国の平和や安寧を願い祈るための場所だから、というのが理由らしい。
 しかし、神社で一度たりとも個人的な願い事をしたことがない者がどれだけいるだろう。だからなのかどうかは定かではないが、内宮では天照大御神の神霊である荒魂(あらみたま)が祀られた荒祭宮、外宮では豊受大御神の荒魂が祭られた多賀宮(たかのみや)で、個人的な願い事を聞き届けてくれると信じられている。荒魂とは、神が持つ荒ぶる霊魂のことをいい、反対に平和的、温厚な霊魂を和魂(にぎみたま)と呼ぶ。荒魂は、荒々しいという解釈と共に、活動的や力強いという捉えられ方もしている。
 大宮司は言った。
「絶対に駄目という決まりはないんです。ただ、せっかくこの国を護ってくださっている神を訪ねたのなら、願い事だけでなく、感謝や国の平和も一緒に祈っていただければと」
 まったくだ、と鈴が大きく頷いた。誰が言い始め、いつから決まり事になったのかは分からないが、当事者の思惑が極端な解釈をされ、俗信となることはままあることだ。
「そういえば以前、内向的な性格を治したいと参拝にこられた方がいらっしゃいましたよ」
微笑ましそうに言った大宮司とは反対に、弘貴が白い歯を見せて、いひひと意地の悪い笑みを浮かべた。
「香苗にちょうどいいんじゃね? もう少し積極的になるかも」
「それを言うなら、弘貴には和魂の方が必要なんじゃない?」
「確かにそうね」
「言えてます」
「その通りだな」
 華、夏也、鈴から一斉に追随され、弘貴はぐっと声に詰まって拗ねたように口を尖らせた。大宮司が笑いを噛み殺している。
 確かに香苗は内向的ではあるけれど、寮に来た頃よりはずいぶんとマシだし、ここ最近は特に顕著だ。それはそれで喜ばしいが。
 ――大丈夫かな。無茶をしないといいけど。
 小さな心配が胸に去来し、しかしすぐに卑屈な自分が顔を出した。大丈夫。茂たちがいる。それに、自分なんかが心配しなくても、彼女は強くなっている。陰陽師としても、人としても。
 春平は自己嫌悪を吐き出すように息をつき、顔を上げた。今は卑屈になっている場合ではない。
 正宮は、正殿を中心に周囲を四重の垣根で囲まれ、隣には古殿地(こでんち)または新御敷地(しんみしきち)と呼ばれるまったく同じ形、面積の敷地がある。神宮の式年遷宮は、現在の社殿を取り壊してから新たに建てるのではなく、現在の建物を残したまま、古殿地に新築する。つまり、二十年ごとに正宮の位置が左右変わるのだ。現在は左の敷地に建てられており、右の敷地への参道は木製の柵で封鎖されている。
 春平たちは、正宮へ続く石階段の前で足を止めた。両脇を木立と低い石垣に挟まれた幅広の石階段の先には、鳥居と桧皮葺の屋根が見える。
 ただの石でできた階段。そう分かっているはずなのに一歩が異常なほど緊張するのは、鳥居の向こうから感じる神気のせいだろうか。鈴と大宮司を覗いた全員が示し合わせたように深呼吸をし、姿勢を正す。
 無言で恭しく階段へ手を差し出され、春平たちは踏みしめるように一歩一歩、石階段を上った。
 陰陽師といっても、受験の合格祈願や初詣など。神社や寺へ行く機会はそう多くない。霊力がある分神気を感じやすいとか、いつも世話になっているからきちんと感謝を込めてとか、人より少しだけ違う感覚で参拝するのは確かだ。だが、おそらく大半の一般人とそう変わらないだろう。
 しかし、この場所はやはり特別だった。
 気圧されそうなほどの強い神気。恐れ多いとは、まさにこのことだと思った。当然のように片膝をついた鈴につられて、平伏しそうになったほどだ。だが同時に感じたのは、慈悲にも似た温もり。
 畏怖と慈悲。それこそが、まさに神だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み