第1話

文字数 3,680文字

 京都には、いたるところに路地や小路があり、名前がつけられている。例えば、昭和路地、八朔路地、北向地蔵路地、笑い路地なんてものもある。かつて紺野が詰めていた松原交番の近くにある何の変哲のない細い路地でさえも、「松原交番前路地」と名付けられているほどだ。
 そして大黒通りには、南天路地の向かい側にバイクや自転車なら通れる程度の広さの、北薬路地と呼ばれる路地がある。松原交番勤務時代に、さすがにすべてではないが大方の路地は把握していた。
 紺野は、記憶とGPSを頼りに大黒通りを進んだ。
 携帯をいじっている女性やスーツ姿のサラリーマン、カートを引いたカップルが歩いているくらいで、静かなものだ。
「やっぱいねぇな」
 眉をひそめて一人ごちる。可能性は、細かく分けるなら四つ。
 一つは、鬼代事件。
 二つ目は、樹を挑発するための平良による襲撃。この場合、断言はできないがその場で殺害する可能性が高い。
 三つ目は、冬馬からもたらされた拉致計画。
 四つ目は、まったくの別件。
 しかし、一と二はともかく、それ以外は動機がまったくの不明だ。四に至っては仮説すら立たない。まさか身代金狙いではなかろう。母親が店を経営しているといっても、高額な金を取るには不適当な人選だ。どれにせよ、その場で負傷、殺害されているのなら、必ず騒ぎになっている。ということは、やはり拉致されたらしい。
 紺野は後続車がいないことを確認して車を停めた。北薬路地のちょうど目の前。慌ただしくシートベルトを外しながら路地の奥へと視線を投げる。
「あった……!」
 暗がりの中で点滅する小さなランプを発見し、勢いよくドアを開けて運転席から飛び出した。
拉致された時に落としたのか、それとも故意に置いて行ったのかは分からない。前者なら手掛かりはないかもしれないが、後者なら、近藤のことだ。必ず何か残している。今どき、真っ先に携帯を回収し電源を切るのは犯罪者の常套手段だ。それを見越したのだろう。歩きながらだとすると、写真や動画の類。
 携帯は排水溝の上に転がっており、住宅の雨どいから延びたパイプが、わずかな隙間を残して設置されていた。故意であってくれと祈りながら携帯を拾い上げる。画面をオンにすると、カメラのアプリが起動したままになっていた。さすが、期待を裏切らない奴だ。
「動画か」
 転がった際、パイプにぶつかって画面がオフになり、録画が止まったのだろう。紺野は三角形の再生ボタンをタップし、踵を返した。
 画面に映ったのは、今まさに通った大黒通りの光景だ。すぐにインカメラに切り替わり、近藤の肩越しに長めの髪の男が一人映し出された。同じ速度でずっとついてくる。近藤も警戒したのだろうが、見る限り、鬼代事件の犯人でも例の拉致計画の被疑者でもない。しばらくして一台の軽自動車が何事もなく通り過ぎた。そのすぐあともう一台車が近付いてきて、男が顔を上げた。
「これか……!」
 紺野はずいっと画面を顔に寄せた。それは一瞬だった。逃げようとしたのだろう、映像が大きく揺れた。キュキュキュとタイヤの擦れた音がした直後、車のドアの開閉音が聞こえ、ブシュッと空気が吹き出る音がした。近藤の苦悶する声が聞こえ、アスファルトと金属が擦れる音と共に画面がくるくると回り、カシャンと音がしたところで録画は終わっていた。
「催涙スプレーか?」
 肝心の場面は映っていないが、近藤は痛いと呟いたように聞こえた。だとしたら、犯人は近藤が空手を嗜んでいることを知っていて、わざわざ用意したと考えるべきか。そこまでして近藤を狙った理由――いや、今は推理より行方を追うことを考えろ。
 一人ごちながらもう一度再生し、シークバーで再生場所を指定する。再生されてすぐに一時停止し、車のナンバープレートを拡大した。対向車がいればヘッドライトで白飛びして確認できなかったかもしれないが、ばっちり確認できる。「わ」ナンバー。レンタカーだ。
 最近の携帯のカメラの精度は素晴らしい。開発者に心の底から感謝しながら車に乗り込み、自分の携帯を鷲掴みにして操作する。
 鬼代事件関連であった場合、警察を動かすのは都合が悪い。しかし、関連性が分からない上に切羽詰まったこの状況で四の五の言っている場合ではない。それに別府たちが関わっている以上、どのみち通報するだろう。何よりも優先すべきは人命だ。科捜研には、深町伊佐夫のパソコンを解析している所員が必ず残っている。
「はい、かそうけ」
「俺だ、紺野だ!」
 コール二回で出た相手へ噛みつくように名乗ると、うわっと悲鳴が返ってきた。件のパソコン解析中の所員、野道(のみち)だ。
「びっくりしたぁ。紺野さん? どうしたんですか?」
「近藤が拉致された。今から言うナンバーの車を大急ぎで追ってくれ」
「え、は? まっ、ちょっと待ってください。拉致!?」
「そうだ。悪いが時間がねぇんだ。いいか、言うぞ」
「ははははい!」
 動揺しまくった返事と、紙をガサガサと漁る音を聞きながら紺野は早口でナンバーを告げる。
確認のため野道が復唱していると、野道くんいる!? と電話の向こうから別府の慌てた声が届いた。最悪の事態を想定して、科捜研に戻ったようだ。Nシステムはもちろん、警察や自治体が主体となって設置した街頭防犯カメラの映像は、警察で閲覧できるものもある。それを追いかけるつもりなのだろう。どうやって近藤の携帯の場所を知ったのか不思議に思うだろうが、説明はできる。ひとまず後回しだ。詳しいいきさつの説明も彼らに任せよう。
「場所は東山区の大黒通りだ。すぐに車の画像送る、頼んだぞ!」
「えっ、ちょ……っ」
 野道の声を遮るように通話を切り、近藤の携帯でメッセージアプリを開いて動画を野道へ送る。だが。
「クソ……っ」
 一つ悪態を吐き出し、紺野は携帯を握ったままハンドルを叩き付けた。先程すれ違ったサラリーマンが追いつき、怪訝な顔で通り過ぎる。
 どこへ連れ去られたのか分からない以上、むやみにここを離れられない。Nシステムや防犯カメラで追うにしても時間がかかるし、果たしてどこまで追えるか。今頃、下平から連絡を受けた明たちが動いてくれているだろうが、おそらく発見は難しい。近藤の気配を知っている左近でも、車に乗せられているのなら察知するのはさすがに――。
 そうだ車のナンバーを明たちにと我に返った時、携帯が着信を知らせた。表示された名は宗一郎だ。明ではないのかと一瞬疑問が頭をよぎったが、ちょうどいい。
「はい」
「私です。近藤さんの行方が判明しました」
「えっ」
 何の前置きもない報告に、紺野は目を丸くした。
「おそらく、この住所へ向かっていると思われます。左京区――」
 説明も何もない。続けて住所が告げられ、慌てて近藤の携帯を助手席に放り投げてナビに打ち込んだ。
「左近を先行させました。すぐに茂さんたちも向かわせますが、鬼代事件との関係はまだ不明なので」
「了解。俺も向かいます」
 ドアを閉めてシートベルトを締めながら言葉を遮ると、一瞬沈黙が返ってきた。犯人が誰か分からないのだ。宗一郎からしてみれば、大人しくしておけと言いたいだろう。だが、その指示だけは聞けない。この状況で大人しく待機などできるわけがない。
「では、無茶はなさらないでください」
「はい。ああそれと、警察が動きます」
「承知しています。お気を付けて」
「はい」
 短く答えて通話を切り、ホルダーに突っ込んで発車する。
 さすがと言うべきか。下平からの報告で、警察が動くとすでに読んでいたらしい。別件ならともかく、もし鬼代事件関係だとしたら、さてどう対処しよう。
 規制速度を守って松原通りを右折し、懐かしさを覚える余裕もなく松原交番の前を通り過ぎる。すっかり陽が沈んだ住宅街に灯る赤色灯に横顔を照らされながら、紺野は訝しげに眉根を寄せた。ちらりとデジタル時計を一瞥する。
 それにしても、行方が分かったのは助かるが、いくらなんでも早すぎやしないか。
 自宅を出てから十五分ほどしか経っていないのに、どうやって発見したのだろう。式神の誰かに見張らせていたのなら、明たちからもっと早く連絡が入っていたはずだ。だが、鬼代事件と拉致計画、双方の標的が近藤だと推理できたとはさすがに思えない。まったく無関係の事件ならなおさらだ。
 では、どうやって行方を追ったのか。
「まさか占いなんてこと……ねぇよなぁ」
 紺野は自分の言葉に失笑した。ここまできて陰陽師の占術を信じないわけではないが、占いは占いだ。絶対とは言い切れないだろうし、どうしても先入観は拭えない。
 それに、宗一郎はおそらくと言っていたが、確信した声だった。多少ふざけた性格だとしても、人一人の命がかかっているのだ。曖昧な情報を伝えはしないだろう。
 先日の、草薙たちへ告げた言葉を思い出した。彼は、決して人の命を軽率に扱うような人物ではない。だとしたら、確実な方法で居場所を探り当てたのだ。非常に気になるが、また明日にでも聞けばいい。
 松原通りを抜けて東大路通りへ出ると、紺野はアクセルを踏み込んだ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み