第10話

文字数 2,993文字

 昔から、精神的に弱い人だった。泣き虫で、臆病で、いつも人の顔色を窺って、何かに依存していないと生きていけない。そんな人だった。
 父は、そんな母に嫌気が差したのだろうと、いつの頃からか理解していた。鬱陶しいと思うこともあった。けれど、女手一つで育ててくれている母を、見限ることはできなかった。
 高校に入ってすぐバイトを始め、わずかながらに貯金もできるようになった。
 ああ、またか。
 樹は表から見える自宅の台所の小さな窓を見て、嘆息した。
 夜十時過ぎ。時折、こうしてバイトから帰宅しても家の電気が点いていないことがある。小さな会社の事務員である母はほぼ定時で上がれる。確実にいる時間なのに。
「ただいま」
 樹は木製の玄関扉を開け、暗闇に向かって声をかけた。案の定、返事はない。猫の額ほどの土間で靴を脱ぎ、入ってすぐの台所の電気を点ける。その間、絶え間なく聞こえるのは母のすすり泣く声。
 居間との間を仕切っている擦りガラスの扉を開く。もう何年も使い込んで、天板がくすんだローテーブルに突っ伏した母の小さな体を、台所の電気が照らす。
「母さん、ただいま。どうしたの?」
 こんなやりとり、もう何度目だろうと考えるのもいつしかやめた。
 母はゆっくりと顔を上げ、子供のようにしゃくり上げながら体を起こした。両手でティッシュを握り締め、目元を拭う。
「あのね」
「うん」
 樹は学校の指定鞄を静かに床に置き、母の隣に胡坐を組んだ。
「今日ね、仕事で失敗して怒られたの」
 これもいつものことだ。俯いて鼻をすする母の頭をゆっくりと撫でながら、樹は優しい声色で語りかける。
「失敗なんか誰でもするよ、気にすることない。僕も今日、ミスして叱られたんだ。おそろいだね」
 笑みを浮かべると、母は窺うような視線を上げた。
「樹が? ほんとに?」
「ほんとだよ。言ったでしょ、失敗なんか誰でもするって。どんな失敗だったか聞く?」
 そう言って先輩たちの失敗談を聞かせるのはしょっちゅうだ。
「そうね、誰でも失敗はするわよね。ごめんね、心配かけて。やだわ、すぐにご飯の用意するわね」
 いつも通りの台詞、いつも通りの反応を見せ、母は腰を上げた。
「その間にお風呂入っちゃうね」
「ええ、そうして」
 小さな冷蔵庫を開けながら食材を確認する母の声を背中で聞き、樹は鞄を拾って居間の隣部屋に入った。
 ブレザーを脱いでハンガーにかけ、ネクタイを外す。
 自分の部屋が欲しいと思うけれど、今の経済力では、これ以上の家賃を払うのは無理だということも分かっていた。2DKに年頃の男子高校生と母親。プライベートの時間がないのは、少し窮屈だ。
「い、樹、樹っ!」
 突然、母の狼狽した声が響き、樹は慌てて台所へ走った。
「どうしたの」
 顔を出すと、母が人参とピーラーを手にしがみついてきた。
「ゴキよゴキ!」
「ちょ、さすがに僕も嫌いだよっ」
「そっちに行ったわ!」
「殺虫剤か洗剤は!? こっち来た――――っ!」
「いや――――っ!」
 あちこち逃げ回っていると、隣の住人から壁を叩かれ「うるせぇぞ!」と怒声が響いた。電池が切れたようにぴたりと動きを止め、奴の動きを視線で追いかける。顔を見合わせ、ふいにどちらともなく噴き出した。
「また怒られちゃったね」
「おそろいね」
 くすくすと小さな笑い声を漏らす。
 決して裕福ではなかったし、溜め息が漏れることもあった。けれど、楽しくやっていた。早く大人になって、たくさん稼いで楽をさせて、あの人の泣き顔を見なくて済むような、そんな未来を想像していた。
 それなのに――。
 あれは、二年に進級した新緑の季節。
 いつもと同じだった。学校とバイトに行って、いつもの時間に帰宅。ただ、テーブルの上に見慣れない物があった。
「……これ、何?」
 テーブルの上に積まれた数冊の文芸書と二冊の薄い冊子、長方形の小箱、文芸書よりひと回り大きな仏壇のような物。
 樹は鞄を肩にかけたまま、怪訝な顔で肉じゃがを温め直す母の背中に尋ねた。
「今日ね、同じ会社の井畑(いばた)さんがお友達を連れて遊びに来てくれたの。その人とっても良い人でね、色々と相談に乗ってくれたのよ。お母さん、ちょっと自信がついちゃった」
 そう言って母は笑った。浮かれた様子の説明を聞いて、すぐに分かった。宗教の勧誘だ。ふーん、と相槌を打ちながら、樹は鞄を置いて冊子を手に取った。「天光教(てんこうきょう)」と印字された冊子には、儀式の内容や年間行事スケジュール、会員規約や組織について書かれていた。もう一冊は教典らしい。
『人にした善は己に返り、人にした悪は己に返る。幸を口にすれば幸になり、不幸を口にすれば不幸になる』
 宗教団体ではありがちな理念。人を恨まず羨まずとか、心穏やかにとか、感謝を忘れずにとか。どっかで聞いたな、と樹は嘆息して冊子を閉じた。
「これ、いくらしたの? タダ?」
 小箱を開けながら聞くと、母は手を止めてバツが悪そうに振り向いた。箱には白い数珠が収まっている。水晶のように見えるが光り方が安っぽい。今どき安物の水晶で作られた数珠など、ネットでいくらでも出回っている。
「……五万円」
 蓋を閉め、溜め息をついた。予想していた半分だが、どう見ても五万もする代物ではない。仏壇のようなものは祭壇だろう。一応木製だが、おもちゃのように小さな物が万単位するとは思えない。何か希少な木材でも使っているのか。それに、五万あれば一カ月の光熱費を払って食費も賄える。
「母さん」
「聞いて! あのね、初めだけなの!」
 呆れたような声色から叱られると察したのだろう。母が樹に駆け寄った。
「初めは五万円かかったけど、あ、あと月に会費が五百円かかっちゃうけど、でもそれだけなの! 後はお祈りの会に参加して、おうちでお祈りすればいいからって、それだけだからって!」
 懇願の眼差しで見上げてくる母を見下ろし、樹は忌憚なく指摘した。
「あのね、母さん。そういうの、宗教ではよくある手なんだよ。後からお布施とか得とか言ってお金を要求するの。布教活動でこういう本買わされたりノルマ課せられたりとかして、最悪脅されたりも」
「そんなことないわ! 井畑さんはいつも親切にしてくれるの、嘘なんてつかないもの! それにとっても勉強になったの、とっても良いお話だったの!」
 母がヒステリックに叫び、隣から壁を三度ほど叩かれた。母は俯き、興奮した様子で呼吸を繰り返す。温め直していた鍋の蓋がコトコトと音を立てはじめ、羽丸出しの換気扇が虫の羽音のような音を立てて回る。
 ここで放置すれば、後々面倒なことになるのは火を見るより明らかだ。
「母さん」
 落ち着いた声色に、母がびくりと大仰に体を震わせた。
「明日、ネットでその宗教のこと調べてくる。もし会費以外にお金を要求されたって記事が出たら、すぐに辞めるって約束して。今回の五万だって僕たちには大金なんだから。分かるよね?」
 諭すように告げた条件に母はしばらく黙って考え込んで、やがて小さく頷いた。
「……出ないといいね、そんな記事」
 そう付け加えると、母はまた小さく頷いて背を向けた。気落ちした様子で鍋の火を消す姿を見やり、樹は鞄を手に部屋へ向かった。
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