第10話

文字数 3,763文字

 陽は、ぴくりと体を小さく揺らした。ふいと顔を上げる。
「……どうした」
 陽を拘束した男が気付いて尋ねた。陽は首を横に振り、また俯いた。と、拘束男の携帯が震えた。
「おい」
「仕事のメールだ」
 拘束男が食い気味に答えると、携帯男はあからさまに舌打ちをかました。
 どこか険悪な空気が流れる中、陽は意識を集中させた。
 気のせいではない。どこからか、大量の霊気を感じる。それも禍々しい悪鬼の。この数はまずい。もしこれから向かう場所ならば、このままでは確実に食われる。
 嫌な汗が額に滲む。
 目隠しをされているせいで、正確な時間は分からなかった。けれど、帰宅ラッシュで渋滞にはまっていることは、車の動きと車内に充満する苛立ちで分かった。途中からほぼ停まることなく順調に走り出したのは、おそらく市内を抜けて高速に乗ったからだ。一旦速度が落ち、それからまた停まることなく走り出した。料金所。やけにカーブが多い。山の中か。それと水が流れる音がする。川が近い。ここまで、おそらく一時間以上かかっている。
 しばらく走り、やがて速度が落ちて左に曲がると、アスファルトを擦っていたタイヤの音が変わった。砂地だ。砂を擦る音。かなり奥の方まで進み、停車した。
 ここが目的地。さっきの霊気はまだ感じるが、ここではない。
「降りろ」
 携帯男の声が告げた。ドアの開閉音を聞きながら、携帯の電源を切った男によって目隠しが外される。ずっと視界が暗かったせいで、光が網膜を刺激した。陽はきつく目をつぶり、何度も瞬きをした。葉音がする。ひんやりとした空気と共に流れ込んでくる土と緑の香り。森の中だ。
「早くしろ」
 苛立った声で携帯男が急かし、陽を拘束した男が軽く背中を押した。まだ視界が戻らないまま、陽は目を細めて手探りでゆっくりと車を降りる。おぼつかない足元を見て気を使ったのか、邪魔になる鞄を男が引っ張って後ろに回した。続けて降り、ドアを閉めた。
「行くぞ」
 さっさと先行する携帯男の後ろをガムテープ男と運転手が続き、その後ろに陽、最後尾に拘束男が続く。まだ完全に視界が戻らず、陽は慎重にゆっくりと足を進めた。
 白んでいた視界が徐々に戻る中、視線を上げる。
 目の前に、廃れたコンクリートの建物がそびえていた。八階建てのそれは、五階より上が森から顔を出している。道路からかなり奥へ進んでいたから、外からは見えないだろう。
 しっかり形は保っているが外壁には土がこびりつき、罅割れも酷い。ストリート系グラフィティーと言ったか、カラフルな落書きも多く、好き放題に蔦が這い、まるで触手に囚われているようだ。一階の正面玄関入り口の扉は開きっ放しで、ガラスが中途半端に割れている。客室の等間隔に並んだ窓もほとんどが罅割れており、ガラスすらない場所もある。室内から手を伸ばせば届きそうなほど、間近に枝が迫っている。
 十台以上集まった車は、陽が乗せられた車を最後尾に、道を塞ぐようにずらりと列を成している。車二台分より少し広く、雑草がはびこり、轍が残っている。脇にはタイヤや冷蔵庫、自転車、バイク、何故か公衆電話などが雑草に紛れて不法投棄され、いかにこの場所が長い年月放置されていたのかを物語っていた。
 やっぱり森の中。薄暗いが、木々の隙間から光が差し込んでいる。拉致されてから一時間以上と仮定すると、七時台。この手の宿泊施設はもう一か所心当たりがあるが、渋滞を考慮するともっと時間がかかる。おそらく違う。だとしたら、市内から高速を使って一時間以上で、通常ならもっと早く到着する場所。山道、川の側、森の中、そして廃墟。
 宇治市の廃ホテル!
 陽はきつく唇を噛んだ。心霊スポットとして有名なホテルだ。晴と宗史が一度調査に来たと聞いている。しかし、その時の報告では、姿は確認できなかったが気配はあったと言っていた。あの二人が間違えるはずがない。それなのに今、一つとして感じないのは何故だ。
 鬼代事件なら千代が関わっている。彼女が何かしたのか。そうだとしても、浮遊霊らを一掃する理由は何だ。ずっと感じる大量の悪鬼の気配と何か関係があるのか。
 不意に後ろから控え目に腕を引っ張られ、陽は我に返った。
「視界、戻ったか」
 男が小声で囁いた。雑草と砂を踏む足音で掻き消されそうだ。陽はこくりと小さく頷いた。
「走れるな」
 もう一度頷く。とたん、
「行け」
 男が掴んでいた腕を引っ張り、陽は踵を返して駆け出した。
 ざっと砂を蹴る音に気付いた携帯男たちが弾かれたように振り向き、
「てめぇッ!!」
 怒号を響かせた。
 背中で男の怒号を聞きながら、陽は轍を頼りに来た道を戻る。思っていた以上に森の奥だ。口が塞がれたままのため、息苦しい。
 あの時、携帯の電源を切った男は言った。
『隙を見て逃がす。そのつもりでいろ』
 と。
 誘拐犯たちの仲間ではないのか。金で雇われていると思っていたが違うのか。何故自分を逃がすのだろう、逃がして大丈夫なのだろうか。
 一体、誰なのだろう。
「やっぱりな」
 半分ほど戻った辺りで、そんな声と共に森の中からぞろぞろと男たちが姿を現し、行く手を塞いだ。陽は足を止め、鼻で息をする。男五人。息もしづらく、手を拘束された状態では少々厳しいかもしれない。
「絶対裏切ると思ったんだよなぁ、あいつ」
 薄ら笑いを浮かべてそんなことを言った金髪男に、陽は眉を寄せた。彼が裏切ると予想していたのか。何故そう思ったのだろう、何故自分を拉致する役目を任せたのだろう。彼は試されていたのだろうか。
 いや、今は誘拐犯たちの内情を詮索している暇はない。陽は半身ですっと腰を落とし、男たちを見据えた。
「お? 俺らとやるつもりだぜ、お坊ちゃんがよぉ」
「可愛い顔して勇ましいねぇ」
「あれだろ、護身術とかじゃね?」
「何が護身術だ、踏んできた場数が違うっつーんだよ」
 四人がにやにやと気味の悪い笑みを浮かべてにじり寄り、陽を取り囲んだ。金髪男は腕を組んで遠巻きに見ている。
「大人しく戻った方がいいと思うぜ?」
「痛い目に遭いたくねぇだろ」
 ほら、と正面にいた男が陽の腕を掴もうと手を伸ばした。と、陽の体が浮いた。
「ガ……ッ」
 軽く飛び上がって思い切り振り上げた陽の足が、男の手を弾き飛ばし顎に命中した。籠った唸り声を上げ、男が後ろに昏倒した。間髪置かずに上体を捻りながら飛び跳ねて、左足を回し蹴る。真後ろにいた男の横面を捉え、隣にいた仲間を下敷きにして倒れ込んだ。
 一瞬で三人。金髪男は唖然として地面に伏した仲間を見やり、顔を怒らせた。
「このガキ……ッ! 何してる捕まえろ!」
 残った一人が我に返り、左側から腕に勢いよく手を伸ばした。陽はくるりと左回転してかわし、つんのめった男の膝裏を足裏で蹴った。うわっ、と驚いた声を上げて崩れ落ちた男の肩甲骨目がけて踵を落とす。ゴッとくぐもった打撃音が響き、男はべしゃりと地面に倒れ込んだ。
 その様子を見ていた金髪男が呆然と呟いた。
「聞いてねぇぞ、こんなの……」
 後ろ手に縛られた子供に大の男が四人、一瞬でやられるなんて。そう言いたげだ。あと一人、陽が腰を落とし戦闘態勢に入った時、
「いってぇな……っこのクソガキッ!」
 仲間に下敷きにされた男が起き上がり、後ろから這いずりながら、陽の足首を掴んで力任せに引っ張った。後ろ手に縛られていてバランスが取れない。声もなく前のめりに倒れ込んだ陽を引き摺り寄せ、肩を掴んで仰向けに転がす。よじ登るように腹の上に馬乗りになり、拳を振り上げた。この手の輩は呻き声を上げるとエスカレートする。
 躊躇なく頬に振り下ろされた拳の衝撃に、歯をくいしばって耐える。もう一度男が拳を振り上げた。
「やめろ!」
 後方から声がかかった。顎を蹴り上げられた男と横面を蹴られた男が、呻きながら起き上がった。全員の視線が制した声の方へと注がれる。携帯男だ。残りの二人と、あの男がいない。
「無傷で連れて来いって言われてんだろ。何やってんだ」
「ざけんな! こっちは四人やられてんだぞ!」
「ガキだからって油断するからだろうが」
「こんな強ぇなんて聞いてねぇ、どうなってんだ!」
「知るか! いいからさっさと連れて来い!」
 男を一蹴し、携帯男は舌打ちをかまして踵を返した。
 腹の上に跨った男は忌々しげに陽を見下ろし、舌打ちしながら下りた。
「お前ら逃がすなよ」
「分かってるよ。ほら立て」
 金髪男は素通りしながら念を押し、携帯男を追いかけた。
「いってぇな、マジかこのガキ。何でこんな強ぇんだよ」
「あとで覚えてろよ、一発じゃ済まさねぇ」
「ぼこぼこにしてやるからな、覚悟しとけ」
 悪態をつきながら、男たちは陽の腕を掴んで無理矢理引っ張り上げる。殴られた頬が痛み、陽は顔を歪めた。両側から腕を掴まれ、前に一人、後ろに一人、まるでどこかの要人か凶悪犯の警護並みだ。
 先程車から降ろされた場所には、誰もいなかった。あの、逃がそうとしてくれた人はどうなったのだろう。
 陽は男四人に囲まれたまま、かつて正面玄関だったであろう場所から中へと連れ込まれた。

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