第5話

文字数 2,668文字

 病室の扉の横には、制服を着た警察官が一人、椅子に腰を下ろして周囲に視線を巡らせていた。
 紺野と沢村の姿に気付き、即座に腰を上げて扉を塞ぐ。警察手帳を提示すると、敬礼と共にお疲れ様ですと言って扉の前から避けた。
 扉を叩くと、中から北原の母親の声が届き、ゆっくりと扉が開いた。
「紺野さん……」
「おはようございます。すみません、お疲れのところ」
「いえ……」
 目の下にクマを作り、憔悴した顔。北原はまだ目覚めず、彼女は一睡もしていないのだろう。虚ろな目で紺野を見上げた視線が、背後に立つ沢村を捉えた。
「あ、あの……?」
 少し怯えた様子で紺野に視線を戻した母親の言わんとすることは分かる。沢村自身もそれを分かっているのか、浅く会釈をした。
「府警本部の沢村と申します」
「え、あ、ああ、刑事さん……」
 そうよね、と母親は自分に言い聞かせるように呟くと、我に返ったように慌てて扉を大きく開いた。
「どうぞ」
「失礼します」
 正面は窓、入って左手奥にテレビや小物をしまっておける棚、手前にベッド、サイドチェスト、細長いクローゼットや小さいながらも洗面台も完備だ。ベッドの向こう側に椅子が二脚置いてあり、手前側は点滴台、心拍数や脈拍、呼吸数の確認をするモニターが設置され、一定間隔でピッ、ピッと音を刻んでいる。
 母親はベッドの向こう側へ回り、紺野と沢村は手前側で足を止めた。
 青白い顔は、まつ毛一本すら動かない。布団の上に出された腕や、患者衣の合わせから伸びる管、口には酸素吸入器。刺された以外の外傷がないため一見してそうは見えないが、閉じられたままの瞼が現実を物語る。
 北原は、殺されかけたのだ。
 霊刀で刺した上に、自在に消せるにも関わらず引き抜いた。意図的、かつ平良がどれほど残忍な人間かよく分かる。
 紺野は両拳を握り締め、唇を噛み締めた。
「……だから、反対したのに……」
 おもむろに母親が口を開き、息をつきながら椅子に腰を下ろした。眠ったままの息子の顔を眺めて、彼女は悲しげに顔を歪める。
「この子が警察官になりたいと言った時、家族全員で反対したんです。マイペースで優しい性格だからというのもそうですが、何より、危険な仕事です。いつ何があるか分からない。でも匠は、小さい頃からの夢だったと、どうしても諦め切れないと言って譲らなくて……」
 北原が配属された時、開かれた歓迎会でそんな話をしていたことを思い出した。友達と言っていたが、家族にも反対されていたのか。
「きっかけがドラマとはいえ、誰かの役に立ちたいという志は、立派だと思います。親として子供の夢は応援したいです。ですが、危険だと分かっている職業に就いて欲しくないと思うのが親心です。いっそ、早く辞めて欲しいとすら思っていました。でも、時々来る連絡は、いつも楽しそうで。同僚の方のことや、近所の幼稚園の子供たちからの励ましの手紙、被害者の方から頂いたお礼の電話。本当に嬉しそうに話してくれるんです。だから、これで良かったんだと、思っていました。それなのに……」
 母親は、声を震わせて俯いた。
 かける言葉が見つからなかった。北原は自分で道を選び、夢を叶えた。けれどそれは、家族を心配させる要因になってしまった。
 あの頃の自分たちと重なる。あんなことになって、やっと自分たちの行動の遅さを後悔した。朱音が何と言おうと、早く離婚させておくべきだったと。
 沈黙する紺野と沢村に、母親は我に返ったように顔を上げ、慌てて涙をぬぐった。
「す、すみません、こんな話……お気を悪くされましたよね……」
「いえ、気になさらないでください。……お気持ちは、分かります」
 小さく付け加えた紺野を、沢村が横目でちらりと一瞥した。
 母親は、ゆっくりサイドチェストへと視線を投げた。大量に置かれたゼリーや水、お茶のペットボトル。あとは雑誌が数冊。クロスワードパズルも見える。見舞いの品だろうが、妙に多い。
「怪我が治ったら、辞めるように言うつもりでした。……でも」
 母親は眉尻を下げて、困った顔で言った。
「そのお見舞いの品は、一課の刑事さんたちからなんですよ」
「え、これ全部ですか?」
 はい、と母親は苦笑いをした。皆、職務に就く前に立ち寄ったらしい。
「表にいる警察の方に預けて行かれる方もいらっしゃったので、お会いしていない人もいますが、中にはこの事件を担当する刑事さんもいて……。絶対に捕まえますと、言ってくれました」
 母親は複雑な顔をして、視線を北原に戻した。
「確かに、危険な仕事ですが……とても良い方たちに囲まれて仕事をしているのだと思うと……」
 仕事内容と職場環境。天秤にかけて、迷っているように見えた。
 母親が疲れた息を吐いて、紺野は堪らず声をかける。
「あの、心配なのは分かりますが、少し休まれた方がいいかと。他のご家族は……」
「あ、夫と娘は、警察の方が匠の部屋を調べたいというので、立ち合いに。息子たちはうちの方です。でも、そろそろ奈保(なほ)さんが……あ、長男のお嫁さんです。実家で子供を預かってもらっているらしいので、様子を見に行ってるんです。そろそろ来てくれると思いますから」
「そうでしたか。ご協力ありがとうございます。でも、あまり無理をされないでください。北原が目を覚ました時、心配すると思うので」
 紺野の言葉に、母親は虚をつかれた顔をした。
「確かにそうですね。ありがとうございます」
 肩を竦めて笑った母親を見て、紺野はほっと息をついた。
「北原が起きたら伝えてください。こっちのことは心配しなくていいと」
「はい、分かりました」
「よろしくお願いします。お疲れのところすみませんでした。では失礼します」
 紺野と沢村が一礼して踵を返すと母親が腰を浮かせたので、そのままで構わないと止め、二人は戸口で頭を下げてから病室をあとにした。
 監視の警察官にも会釈をし、エレベーターへ向かう。
 北原の母親の姿は、まさにあの頃の母そっくりだった。いつも笑顔で騒がしい母が元気をなくしていく様は痛々しくて、見ているのも辛かった。
「紺野」
 一階まで下りた時、不意に声を掛けられて我に返った。
「ちょっと、行ってくる」
 沢村が足を止めたのは、トイレの前だ。
「ああはい、どうぞ。先に車に戻ってます」
 ああ、と沢村は頷いてトイレの中へ消えた。ついでに加賀谷へ報告をするのだろうが都合がいい。今のうちに、念のために沢村のことを明たちに伝えておこう。
 湿った風が吹く中、紺野は携帯を片手に駐車場へと向かいながら、はたと気付いた。
「洗濯機、回しっぱなしだ……」
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