第11話

文字数 6,122文字

「ただいまー!」
 樹が玄関を開けたとたん複数の足音が床を鳴らし、(はな)を先頭に皆が心配顔をして物凄い勢いで駆け寄ってきた。だが、
「おかえりなさい! (はる)くん無事で、良かっ……た……」
 満身創痍の帰還組を見るなり、凍りついた。唖然とする者、顔を引き攣らせる者、怯える者と様々だったが、最後に出てきた宗一郎(そういちろう)(あきら)は揃って噴き出した。
「もうお腹空いたし眠いし限界。華さん、ご飯なに?」
 そう言いながら当然のように靴を脱ごうとする樹を止めたのは、華の悲鳴である。
 反論の余地さえ与えられず追い出された大河(たいが)たちは、ぞろぞろと庭へ回った。酷いよね、命がけで戦ってきた人に向かってさ、とは樹の言だ。
 正論ではあるが、ゾンビ役ができそうなほど汚れているのでは仕方がない。見るなり噴き出した宗一郎と明は酷いと思うが。だが全員無事に帰還できたからこその反応である。それと、すでに寝ている(あい)(れん)に見られなかったのは幸いだ。怯えるのはもちろん、大号泣間違いない。
「並べ」
 出発した時はいなかった右近(うこん)が、縁側に立って尊大に言い放った。念のために自宅で待機していたらしく、宗史(そうし)からの報告を受けたあと宗一郎が寮へ呼んだそうだ。
 皆に見守られながら、言われるがまま横一列に並ぶ。宗史と(せい)がはっと気付いて携帯(と晴は煙草もだ)を縁側に避難させると、そこからは早かった。
 まるで滝行さながらの水量と水圧で一気に汚れを落とされ、ぴたりと止んだと思ったらザッと一瞬で水を抜かれた。あれほど薄汚かった風体はすっかり綺麗になった。とはいえ服の血痕は完全に落とし切れないようで、沁みになっている。
 頭と肩にのしかかるような水圧に叫ぶ隙もなかったが、しかし疲労困憊の今この手早さは有り難い。
「もうこのまま寝たい……」
 ぼそりと呟いた大河に「同感」と柴と紫苑以外の全員から同意が返ってきて、さらに同時に深い溜め息が漏れた。
 うなだれた大河たちに笑いを噛み殺しながら、宗一郎と明が縁側に出てきた。
「全員御苦労だった。とりあえず上がりなさい」
 はーい、とこれっぽっちも覇気の籠っていない返事をしてぞろぞろと足を進める。口を利く気力すらないのか、黙って室内に入る中、右近が椿(つばき)志季(しき)を見やり言った。
神気(しんき)がほとんど残っておらんな。よほど激しい戦闘だったと見える」
「まあな。あいつら、あの辺一帯の浮遊霊を全部悪鬼に変えて襲ってきやがった。罰当たりが」
 志季が忌々しげに舌打ちをかました。
「ほう。宇治川の女神はご立腹ではなかったか?」
「ご立腹もご立腹。めっちゃ怖かったわ。やっぱ女は怒らせるもんじゃねぇよ」
 志季がしみじみと言った台詞に、大河は小さく噴き出した。晴も同じことを言っていた。式神は術者の鏡とはよく言ったものだ。瀬織律姫様(せおりつひめさま)にはお世話になりました、と椿と三人揃って和やかに中に入っていく式神らの背中を眺めながら、大河も縁側を上がる。
 ふと、柴と紫苑が縁側の手前で足を止めた。
「どうした?」
 尋ねた宗一郎に、全員が注目する。
「良いのか?」
 その言葉の意味は、考えるまでもなかった。宗一郎がふっと笑みを浮かべた。
「皆の承諾は得ている。問題ない」
 柴が宗一郎から室内へ視線を投げた。大河も、少し緊張気味に振り向く。
 先に入った陽を取り囲んだ皆が、穏やかな笑みを湛えて二人を見ていた。
 大河が思わず相好を崩して顔を戻すと、二人と目が合った。こくりと小さく頷く。すると二人はもう一度全員を見渡し、ゆっくりと頭を下げた。
「世話になる」
 二人の行動に、宗一郎含め、しかし大河以外の全員が目を丸くした。まさか鬼が人に頭を下げるとは、と言いたげだ。あの夜に謝られた大河からしてみれば、この行動は何ら違和感もなければ不思議でもない。
「柴、紫苑」
 大河は、穏やかな笑みを浮かべて両手を差し出した。頭を上げた二人が目を丸くして、大河はさらに頬を緩めた。柴がこんなにも分かりやすく表情を変えたのは初めてだ。
 柴が、ゆっくりと手を持ち上げた。
 と、蛙でも飼っているのかと思うほどの大合唱が大河の腹から響いた。ぎょっとして咄嗟に腹を押さえる。まさかこのタイミングで鳴るとは。
 一瞬静まり返った寮内が、どっと笑い声に包まれた。
「すげぇ音したなぁ」
 弘貴(ひろき)のからかい口調に大河が顔を真っ赤にしてそろそろ視線を上げると、柴は憂いを帯びた目をし、紫苑は呆気に取られた顔をしていた。恥ずかしすぎる。堪らなくなって素早く視線を逸らした。
「締まらねぇなぁ、お前」
 げらげらと笑いながら、晴が煙草を手に、縁側に腰を下ろした。藍と蓮がいないため遠慮がない。
「しょうがないじゃん、おやつ食べてから何も食べてないんだから。って、宗一郎さんと明さん笑いすぎ!」
 膨れ面をし、口を押さえて肩を震わせる明と、明の肩に手をかけて声も出ないほどウケる宗一郎に苦言を呈す。
「これが大河くんクオリティだよねぇ」
「大河らしいな」
「仕方ないですよ、あんなに動き回ったんですから」
「腹くらい誰でも鳴る、気にするな」
「めっちゃ馬鹿にしてるし! 笑いながらフォローされても嬉しくない!」
 ダイニングの自席に座る樹と怜司と、笑いを堪えながらソファの定位置に向かう陽と宗史へ噛み付く。さすが大河だよな、大河くんらしいよね、先にご飯にしましょうか、と皆笑い声と共に好き勝手に言いながらキッチンやダイニングテーブルへ向かう。
 大河は、唇を尖らせて柴と紫苑を振り向き、まだ同情めいた面持ちで見ている二人に肩を落とした。腹を減らしていることへか、それとも笑われていることへか分からないが、可哀相だと思われていることだけは分かる。
「もういいから、二人とも入って……」
 溜め息交じりに促すと、二人は素直に従った。
 あんたらいつまで笑ってんの、と呆れ声で突っ込む晴と、笑いが収まる気配のない宗一郎と明を縁側に残し、柴と紫苑を連れてソファの方へ移動する。
「柴、紫苑」
 キッチンから華に声をかけられ、二人は足を止めた。申し訳なさそうな顔で二人を見ている。
「さっきはごめんなさい。驚いて、つい」
「仕方のないことだ。気にするな」
 小さく首を横に振った柴に、華が嬉しそうにふわりと笑った。
「ありがとう。そうだわ、二人とも、人間の食べ物って大丈夫かしら」
 さらりと聞かれ、柴が答える。
「問題ない」
「じゃあ何か嫌いな物とかある? 食べられない物とか」
「特にない」
「助かるわ。でも食材とか初めてのものもあるだろうから、口に合わなかったら言ってね」
「承知した」
 端的な返答に華は笑みを返し、夏也(かや)香苗(かなえ)と一緒に食事の支度に入る。早々に追い出したことといい、さすが華だ。恐怖や警戒心の欠片も見えない、普通の態度。肝の据わり方を見習わねば。というか、あの極上の笑顔を見て一切表情を変えない二人の神経を疑う。少しは照れるとか見惚れるとかしないのか。
 鬼の好みと違うのかな、などと考えつつ、とりあえずU字型の短い場所を柴と紫苑に勧めると、二人はゆっくり腰を下ろした。革製の座面の感触が珍しいのか、揃って手の平で興味深そうに撫でている。
 華、夏也、香苗を残して全員が定位置に落ち着き、一服を終えた晴と、やっと平常に戻った当主二人が腰を下ろした。式神も各々の主の背後に控えている。
 宗一郎が口火を切った。
「陽、無事で何よりだ。宗史、晴、樹、怜司、大河、椿、志季。御苦労だった。それと柴、紫苑。二人にも礼を言う」
 明と晴と陽が頭を下げると、帰還組全員が無言のまま頭を下げた。
「今日はもう遅い。報告は明日、午後一時より始める。それまでに全員集合しておくように」
 はい、と控えめな返事が上がる。
「今回の件は、鬼代事件と関連があることはすでに判明している。これから先、敵側の動きは活発になるだろう。全員、気を引き締めて行動しなさい」
 はい、と今度は緊張感を含んだ返事だ。
「それと、怪我をしている者はせめて見える部分だけでも治癒しなさい。傍から見ると物騒だ。右近、左近、閃、治癒を」
 う、と帰還組が声を詰まらせた。物騒に見えるほど酷いのか。式神三人が揃って返事をし、それぞれに散る。閃は陽、右近は大河、左近は樹と怜司の元へ。キッチンから出汁の香りが漂ってきた。
「そんなに酷い?」
 閃に腕を出しながら、樹が誰にともなく尋ねる。答えたのは(しげる)だ。
「それ、触手の傷だよね。どう見ても刃物傷にしか見えないからねぇ。でも一番痛々しいのは大河くんかな」
 苦笑いと共に向けられた皆からの視線に、大河は苦笑いを返した。ですよね、と立ったまま頬に手をかざした右近を見上げる。
「酷くやられたな」
「うん。体術、もっと頑張る」
「そうだな」
 冬馬ほどとは言わないが、何度も殴られた上に触手が何本も掠った。体中至る所に走る鈍い痛みが未熟さを如実に表しているようで、少し情けない気持ちになる。黄金色の光がまぶしくて、大河は目を閉じた。相変わらず痛みは伴うが、仄かな温もりがますます眠気を誘う。だが出汁のいい香りに食欲がそそられ、睡眠欲とせめぎ合っているのが分かる。
 香苗が麦茶の入ったグラスをお盆に乗せて運んできた。帰還組へそれぞれ配って歩く。
「私からは以上だ。明」
「はい」
 柴と紫苑の前にグラスが置かれると、二人は物珍しそうにまじまじと覗き込んでから明へ視線を戻した。
「まずは私からも礼を言う。皆、本当にありがとう」
 再度頭を下げた明に、帰還組全員が頭を下げる。そして明は一度頭を上げ、おもむろに足元に置いていた大きな風呂敷を二つ重ねて抱え上げて、立ち上がった。
 グラスを配り終えキッチンへ戻った香苗と入れ替わりに、夏也が大きなお盆を抱えて来た。間を置かず、お盆を持ち替えた香苗も戻ってくる。
「柴、紫苑。着替えだ。着物と浴衣をいくつか見繕った。上の風呂敷が柴で、下が紫苑に合うと思う。寸法が合わなければ言ってくれ、仕立て直すから」
 紫苑が腰を上げ、差し出された風呂敷を受け取った。
「気遣い、痛み入る」
「気にしないでくれ。古い物で悪いけど、状態は良いから。晴、お前の着物と浴衣もいくつか借りてるよ」
 言いながら腰を下ろした明に、晴が首を傾げた。どうやら今日の夕飯は親子丼らしい。柴と紫苑、宗史と晴の前に、どんぶりと漬物が入った小鉢、味噌汁が並ぶ。
「それはいいけど、いつの間に持ってきたんだ?」
 配膳をした香苗に礼を言い、宗史と晴はソファを下りて床に正座した。
「宗史くんから連絡が入ってすぐだ。妙子(たえこ)さんは今日うちに泊まってもらっているから、連絡して閃に受け取りに行かせた」
「あ、なるほどね」
 納得し、二人揃っていただきますと手を合わせる。その様子を、柴と紫苑が一瞥した。
 右近も自宅待機していたらしいし、家政婦である妙子も狙われないとは限らない。敷地全体に結界を張れば、自宅にいるより土御門家にいる方が安全だ。(すず)がいればどちらかが自宅待機していたのだろうが。鈴大丈夫かな、と大河は少し眉を寄せた。
 紫苑が風呂敷を解くと、ほう、と二人から感嘆の息が漏れた。柴が明へ視線を投げる。香苗が大河と陽の分を乗せて戻ってくる。
「上等な物のようだが、本当に構わないのか」
「私たちでは寸法が合わないんだ。晴もほとんど着ることがないし、着てもらった方が着物も喜ぶだろう」
「そうか。では、遠慮なく使わせてもらおう。感謝する」
「ああ。ただ、一つ聞きたいことがある。二人とも――」
 いいぞ、と右近の声に目を開けると、明が神妙な面持ちで柴と紫苑を見据えていた。帰還組が首を傾げる一方で、待機組はどこか緊張感を含んだ視線を一斉に向け、宗一郎が唇を一文字に結んでいる。何だこの緊迫感。大河は膝をついた右近に腕を出しながら思わず息を飲んだ。
「着物の下は、ふんどしか?」
 食器がぶつかる音に混じって、明の声が妙に大きく響いた。晴の箸から鶏肉がぽろりとこぼれ落ちる。
 は? という声も出ないほど呆気に取られる帰還組の中で、平常心を保っていたのは柴と樹と怜司だ。その問題があったか、と治癒を終えた樹が感心した様子でぽんと手を打ち、怜司はなるほど重要な問題だ、と納得した。
「そうだが。それがどうかしたか」
 真顔で返ってきた答えに、待機組がざわりとざわついた。何事かと帰還組が怪訝な表情を浮かべる。
「そうだろうなとは思ってたけど、やっぱ違和感あるよな」
「絶対的にパンツだよね」
「ふんどしって、今ほとんど見ませんもんね」
「お祭りで見るくらいかな。鬼もふんどしなんだねぇ」
 弘貴、春平(しゅんぺい)(すばる)、茂の男性陣と、
「やだわ、あの顔とふんどしが結びつかないわ」
「少女漫画だと絶対に描かれない部分ですね」
「もはやタブーよ、禁忌レベルよ。乙女の夢を壊しちゃ駄目なの」
 華、夏也の大人女性の会話に、樹と怜司に配膳中の美琴と、キッチンへ戻る香苗が恥ずかしそうに顔を背けて沈黙を守っている。向かい側から届いた陽のいただきますの声は少し震え、回ってきた閃に腕を出した晴がぶはっと噴き出し、宗史がどんぶりを片手に、何を真剣に話してるんだと溜め息をついた。確かに、そんな真顔で深刻になる話題ではない。ないが、そういえば式神はどうなんだろうと大河は右近を見やる。口調からして、やはりふんどしなのだろうか。
 じっと見据える視線に気付いた右近が、無表情で一寸のズレもなく大河を見上げた。聞くんじゃねぇぞこの野郎、という無言の圧を感じ、大河は何事もなかったようにそろりと視線を逸らした。怖い。聞くなら志季だ。そう思ってちらりと後ろを振り向くと、すでに目をひん剥いて見下ろしており、椿が視線を逸らしていた。思考が読まれている。
 肩を跳ね上げ、前を向き直って思う。華いわく、禁忌レベルの部分を晒されている柴と紫苑が不憫だ。
「と、とりあえずだ」
 また笑い上戸が発動したらしい。明が震える声で軌道修正した。
「さっき、茂さんと昴に買い出しに行ってもらった。脱衣場に置いてある。柴、紫苑、一通り揃っているから、後で試してみてくれ」
「……ああ」
 パンツがどんな物か分からないのだろう。首を傾げながら柴が了承した。いただきまーす、と樹の浮かれた合掌の声が届く。怜司の治癒も終えた左近が宗一郎の背後に控えた。
「どうしても合わないようだったら、怜司、手配を頼む」
「分かりました」
 配膳が終わっている柴と紫苑に、明がどうぞと勧めた。二人は宗史と晴を見やり、床に座って手を合わせた。いただきますという言葉は出なかったけれど、目を伏せ、まるで祈りを捧げているような合掌は、少し長かった。

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