第1話

文字数 4,687文字

 朝起きてカーテンを開けると、予報より少し早めに止んだらしく、昨日の嵐が嘘のように晴れ渡っていた。雲一つない、透き通るような青い空。
 昨日、部屋に籠ってからふと気が付いた。香苗(かなえ)の時と同様、夏也(かや)の事情も事前に知っていれば防げたのだと。だが、あの話を聞いたあとだと、わざわざ聞こうとはどうしても思えない。同時に、もし手遅れになったらどうするのだ、とも思う。だからこそ(はな)のようにすぐ対策を練られるようにするべきなのだろうが、すぐにできるようになるとは思えない。ならば、心掛けるくらいはしなければ。
 広く晴れ渡る夏の空とは裏腹に、大河(たいが)は改めて自分の狭量さを実感しながら、早朝訓練をするべく部屋を出た。と、飛び込んできた光景に足が止まった。
「……何してるんですか?」
 何故か携帯を握り締めた華が、双子の部屋の扉を開け、そろそろと覗き込んでいる。大河の声に少し驚いて振り向いた華は、唇にひとさし指を立てて添えると、何も言わずに扉の隙間に体を滑り込ませた。大河は眉をひそめ、扉を閉めてから華が消えた部屋の前に行く。まだ双子は寝ているだろう。寝起きドッキリでも仕掛けるつもりか。
 薄く開いたままの扉をさらに開いて中を覗くと、華がベッドの側で佇んでいた。口を両手で覆うその表情は緩み切っている。確かに双子の寝顔は可愛い。天使かと思うくらい可愛いが、見慣れているのではないのか。
 大河は足音をさせないように歩み寄り、ベッドの上を見て漏れそうになった声を根性で飲み込んだ。華と同じく口を覆う。
 そこには、無邪気な顔で寝息を立てる(あい)(れん)。二人に挟まれて心地よさそうに眠る夏也がいた。うっわ可愛い、と口の中で呟く。どうやら双子を寝かしつけてそのまま眠ってしまったらしい。なるほど、華が顔を緩めるわけだ。
 けれど、気持ちは分かるがあまり眺めていると起こしてしまうのでは。いやそれ以前に、知らなかったとはいえ、女性の寝顔をこっそりのぞき見してしまったことを(いつき)たちに知られたら半殺しにされる。
 全身から血の気が引き、早く部屋を出ようと華を振り向いて、大河はぎょっと目を剥いた。うきうきと携帯を構えている。まさか、と思った次の瞬間、フラッシュと共にパシャリと音をさせてシャッターを切った。何やってんのこの人! 大河が青い顔で慌てふためいたとたん、ベッドの上で夏也がごそりと動き、華が素早く無言で踵を返した。
 急かされるまでもない。逃げるように駆け足で部屋を飛び出し、あとから出てきた華が慎重に音もなく扉を閉めた。
 大河は目を剥いて胸のあたりのTシャツを握った。息は荒く心臓もどくどくと脈打ち、嫌な汗がじわりと滲む。朝からどうしてこんな緊迫感を強いられねばならないのか。
「華さん何やって……っ」
「大河くん、見て見て」
 大河の振り向きざまの苦言を遮り、華がきらきらした目で携帯を差し出した。新しいおもちゃを買ってもらった子供と同じ目だ。顔を寄せ合う三人の穏やかな寝顔に思わず顔が緩みかけ、はたと気付いて引き締める。確かに可愛いけれども。
「起こしたら可哀想じゃないですかっ」
「大丈夫よ。前も起きなかったもの」
 小声の叱責に悪びれもなく自白した華に思わず脱力する。前科があったか。いや、すでに撮っているのなら撮る必要はないだろう。可愛い、とにやけ顔で写真を眺める華を横目で見て、大河は深い溜め息をついた。女性が可愛いものを好むのは分かるが、ここまでするか。華は樹のことをとやかく言う資格がないと思う。
「さて、朝からいいもの見られたし、訓練行きましょうか」
 うふふふふと実に満足げに笑い、足取りも軽く階段へ向かう華の後ろを、大河は疲れ気味の顔で追った。
 リビングに下りると、樹と怜司(れいじ)(さい)紫苑(しおん)がゴミバサミやほうき片手に掃除をしており、(しげる)は花壇の前で悲壮感を漂わせてしゃがみ込んでいた。部屋で着替えている時、人の気配と物音がしていたから、弘貴(ひろき)たちもすぐに下りてくるだろう。
「おはよう」
「おはようございます」
 華と大河が声をかけると、挨拶が飛び交った。
「やっぱりすごいことになってるわねぇ」
 縁側にはゴミ袋や掃除道具が準備され、玄関に避難させていた靴も戻っている。
 ぼやきながら庭に下りた華に続き、大河はぐるりと庭を見渡す。水捌けはいいようだが、さすがにあの嵐だ、ところどころ小さな水たまりができていた。ゴミは、ほとんどが葉っぱや小枝だが、コンビニや菓子などの袋類、新聞、ビニールシートもある。
 大河は縁側の前でほうきを動かしていた柴に尋ねた。
「しげさん、大丈夫なの?」
 柴は手を止め、ゴミ袋を横に置いてのろのろと作業する茂を見やった。
「ほとんどがなぎ倒され、不要なものが入った袋に、一部押し潰されていた」
「不要なもの……あー、マジかぁ」
 おそらく、コンビニか何かの袋にゴミが入れられていたのだろう。ずぶ濡れになったビニール袋は、それだけでも重さを増す。さらにゴミが入っていれば、花の一輪や二輪押し潰せるだろう。うわぁ、と大河は不憫な眼差しを投げた。樹に石を掘り起こされた上に、なぎ倒されていたものは仕方ないが、せっかく育てた花を潰されるなんて。
 二人揃って茂へ同情の眼差しを向けていると、玄関側の方を掃除していた樹から指示が飛んだ。
「大河くんと柴、あと紫苑も。こっちはいいから離れの方お願い。裏もちゃんと見てね」
「あ、はーい」
 そうか、離れもあるのか。大河は元気よく返事をし、片手にゴミ袋とゴミバサミ、片手にちりとりを持った。
「柴、紫苑、中からは通り抜けられないから外をぐるっと……回ったらまずいね」
 早朝とはいえ、もう人が動いている時間だ。二人に表を歩かせるわけにはいかない。中から行くかと考えていると、ゴミバサミを持った紫苑が近寄ってきた。
「大河、それを貸せ」
「え? うん」
 ちりとりを指差され、言われるがままに渡すと、紫苑は道具を持っていない方の肩にひょいと大河を担ぎ上げた。
「うわっ」
「大人しくしていろ」
 そう言うや否や、紫苑は寮と離れを仕切る間仕切りの方へ向かって軽く飛び跳ねた。ふわりと浮いて地面が遠ざかり、眼下で眩しそうにこちらを見上げた樹たちの姿が後方へ流れた。柴も後を追ってくる。
 早朝にも関わらず、すでに夏の日差しは強く降り注ぐ。嵐が去ったことを喜ぶように鳴く蝉と雀の声。耐え忍んだ庭木は濡れた葉をきらきらと輝かせ、不純物を洗い流された澄んだ空気が肺を満たす。
一瞬のうちに間仕切りを飛び越え、皆の姿が見えなくなって再び地面が近付いた。
 砂を擦る音と共に離れの庭でふわりと着地し、尻を支えられてゆっくりと下ろされた。続いて目の前に、ほうきを持った柴も着地する。
 あっという間の出来事に大河は呆然と二人を見上げ、不意にははっと笑った。
「なんか気持ち良かった。二人とも、いつもあんな景色見てるんだ。ありがと、紫苑」
 もっと高い所からなら、さらに眺めは良さそうだ。
「よし、さっさと掃除終わらせよう。訓練しなきゃ」
 大河は二人に背を向けて改めて庭を見渡し、こっちもなかなかだね、と苦笑した。そんな大河の背中を見つめた柴の瞳が、わずかに揺れた。
 寮の庭と同じく、ところどころに小さな水たまりができ、ゴミが散乱している。葉っぱや小枝、袋類はもちろん、自転車か何かのカバーだろうか。押さえが甘かったらしい、破れたシルバーのシートらしきものが転がっている。
 大河と紫苑がゴミバサミでゴミを集め、柴がほうきで葉っぱや小枝をまとめていると、縁側のガラス戸が開いた。(すばる)美琴(みこと)と香苗だ。手にはそれぞれ掃除道具とスニーカーを持っている。
「あ、おはようございます」
「おはよう」
 挨拶を交わしながら、三人は縁側から庭へ下りた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いえ全然。……昴さん、眠れませんでした?」
 靴を履く昴の顔は、また少し眠そうだ。
「音がねぇ」
 昴は苦笑いで肩を竦めた。雷を綺麗だと思っても、雨風の音は耳触りだったらしい。
「昴さん、あたしたち裏の方やります」
「あ、うん。分かった」
 葉っぱとかすごいね、そうね、と辺りを見渡しながら門の方へ向かう美琴と香苗の背中を見送り、大河は頬を緩めた。昨日もそうだが、香苗の事件の時、美琴は彼女の言葉をどう思い、そして弘貴のことをどう思っているのだろう。
 あの日以来、弘貴と美琴の距離感は変わらない。美琴はこれまで、独鈷杵の自主練のために部屋に籠っていた。その時間が減り、弘貴ともっと交流する時間ができれば、多少態度は軟化するだろうか。おそらく、美琴も弘貴が悪い奴でないことは分かっている。ただ素直になれないだけで、何かきっかけがあれば打ち解けると思うのだが。
 あれがきっかけになればよかったんだけどな。そんなことを考えながら手を動かしていると、ガラスが小刻みに揺れる音がして、大河は縁側を振り向いた。昴がガラス戸を全開にしている。
 離れは主に会合用だ。一日に一度、窓を開けて空気を入れ替えたり、予定が入った時に掃除をするくらいで、先日の隔離目的で使用されるのは稀だ。
 大河は懐かしい気持ちで座敷を眺めた。あの時閉められていた障子は開け放たれ、漆塗りの長机はそのままだが、座布団は端に積み上げられている。思えば、同じ敷地に住んでいるのに、離れに来るのはこれが二度目だ。
「大河くん、どうしたの?」
 ガラス戸を開け切って振り向いた昴が尋ねた。
「ああ、いえ。俺、こっちに来るの会合の時以来だから。なんか懐かしいなーって思って」
「そういえばそうか。隣なのにね」
「ね」
 顔を見合わせて笑ったあと、昴が座敷へ視線を投げた。
「大河くん。あの時、ありがとう。助けてくれて」
 不意に告げられた礼に一瞬何のことだろうと考え、すぐに思い当たった。紺野(こんの)に組み敷かれた時のことだ。
「まさか叔父さんがいるとは思わなくて、びっくりしたよ」
 そう言って振り向いた昴が浮かべた苦笑いは、自嘲気味だった。
「いえ。俺もびっくりしました」
 素直に言うと昴は短く笑い、手を動かした。
「大河くん、今日の訓練は火天かな」
「そうだと思います。あっ、今日の指導、一日樹さんかぁ……」
「……なんて顔してるの」
 だって絶対飛び蹴りされますもん、と膨れ面で手を動かす大河に、昴の朗らかな笑い声が響く。
 他愛のない話をしながらゴミを拾い集める中、ふと思い出した。紺野は皆の名前を聞きに来た時、昴にメモを渡していた。連絡くらいしろ、と言って。あれからしたのだろうか。もししていれば迎えに来そうなものだが、こんな事件の最中だ。連絡先だけ教えて、事件が終わってから会いに行くつもりかもしれない。それとも、まだ迷っているのか。あるいは――。
 あの時、紺野は「まだ諦めずに探している」と言っていた。昴の義両親は、ずっと待っているのだ。帰ってくることを望んでいる。
 三宅のことが脳裏を掠った。
 私情を除けば、昴をはじめ、夏也や茂、香苗におそらく美琴にも動機はある。今のところ華の過去は分からないし、弘貴と春平(しゅんぺい)も施設に預けられた理由が分からないから何とも言えない。しかし過去のことだけなら怜司(れいじ)もそうだ。紺野と北原(きたはら)は皆のことを調べたと言っていた。捜査のプロである彼らが調べても、決定打にはならなかったのだ。
 彼らの過去と現在(いま)。両方の観点から見ても、判然としない。内通者がいるのは確かなのに、廃ホテルでの推理は間違っていたのではと思うほど、姿が見えない。注意深く、徹底して演じているのか。それとも、心変わりをしているからこそ自然なのか。
 どうか、後者であって欲しい。
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