第16話

文字数 4,155文字

「ヒナ、どこか分からないか?」
 省吾はペンが止まったままのヒナキに声をかけた。はっと我に返り、ううんと苦笑いで首を横に振る。
「大丈夫」
 そう言って手元の問題集に目を落としたものの、さらさらと走らせたペンは次第に遅くなり、電池が切れたようにぴたりと止まった。省吾と風子が、心配顔を見合わせた。
 ヒナキは、ビデオ通話の内容を珍しく興奮気味に話してくれた。優しそうな人だったよ、ちょっと安心だね、と。電話越しとはいえ、顔を合わせて言葉を交わした相手が実は敵だった。しかもこちらの情報を流し、下手をすれば自分が狙われるかもしれない。などと知れば、複雑な気分にもなるだろう。
「ねー、省ちゃん。そろそろ休憩しようよ」
 親の敵かと思うほど憎々しい目で問題集を睨みながら、風子が言った。
「まだ一時間しか経ってないだろ」
「授業より長いもん」
 駄目、分かんない、とシャーペンを放り出した風子に嘆息が漏れる。風子は集中力が切れ、ヒナキはいまいち集中しきれない。このまま続けても意味がないか。
「分かった、休憩」
「やった。ヒナ、お菓子お菓子」
 ぱっと顔を明るくしてねだる風子に、ヒナキが苦笑いで床にあったかごをテーブルに置いた。個包装のチョコやミニドーナツが綺麗に並んでいる。
 さっそく手を伸ばす二人を横目に、省吾は麦茶が入ったグラスを口に付けた。
 今は集中しきれていないが、ヒナキはもともと成績が良い。心配いらないだろう。問題は風子だ。勉強が苦手で、特に数学は壊滅的。四十点以上のテストを見たことがない。だから夏期講習に通っているわけだが、大河でももう少しマシだったのに。こんな調子で大丈夫だろうか。
 自分たちの受験の時は、兄の大悟が家庭教師をしてくれていた。丸めたノート片手に、こんな問題も解けないでどうする、高校浪人したいのか、と脅して容赦なく大河を追い込んでいたが、見習うべきか。いやしかし、相手は幼馴染みとはいえ女の子だし。
 これが大河なら遠慮しないんだけど。と本人が聞いたら確実に拗ねることを考えながら、省吾はドーナツに手を伸ばした。
「あたしも髪伸ばそうかなぁ」
 ふと、そんな言葉で我に返った。テーブルの上は問題集が追いやられてファッション誌に代わっており、風子が顎までの黒髪をつんと引っ張って悩ましげな顔をしている。
「ずっとこの髪型だし、長かったら色々アレンジできるし」
「うんうん。アレンジ楽しいよ。あたし、教えてあげるよ」
「……ちょっとは、大人っぽく見えるかな?」
 照れ臭そうに視線を泳がせてぽつりと呟いた風子に、省吾は笑いを噛み殺した。おそらく、寮の写真を見て不安になったのだろう。分かりやすい風子の気持ちに気付いていないのは、あの鈍感な男くらいだ。
「見えるよ、絶対。あたし、風子ちゃんとおそろいの髪型とかしてみたいな」
「あ、それ楽しそう!」
 雑誌を手にきゃっきゃと盛り上がる二人を見て、省吾は呆れ半分、安堵半分で溜め息をついた。ヒナキの気が逸れたのはいいが、こっちの気も知らないでとも思う。
 髪といえば、写真を見た時は短くなってるなくらいにしか思わなかったが、実際に見るとずいぶんと垢抜けていた。夏休みに入る頃には伸び切っていたし、あれだけ動くのなら邪魔になるだろう。宗史たちに店を紹介してもらって、アドバイスを受けたのかもしれない。
 俺もそろそろ切らないとな、と思っていると、風子が腰を上げた。
「お手洗い行ってくる」
「風子」
 目で「抜け出すなよ」と訴えると、風子はうんざりした顔で溜め息をついて部屋の扉を開けた。
「分かってるよ。たーちゃんも省ちゃんも、しつこい男はモテないよ?」
「あのな」
 お前のために言ってるんだろ、と言い終わる前に、風子はべっと舌を出して素早く扉を閉めた。さすがにトイレの前で見張るわけにはいかない。もれなく変態の称号をいただくことになる。
「ったく、自分の普段の行いが悪いんだろうが」
 しかめ面でぼやく省吾にヒナキがくすくすと笑う。雑誌を閉じて何ともなしに表紙を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「あたしね、大河お兄ちゃんが羨ましかったんだ」
「羨ましい?」
 グラスを持ち上げた手を止めて問い返すと、うん、とヒナキは頷いた。
「あたし、おじいちゃんのこと全然覚えてないから。もし大河お兄ちゃんみたいに見えたら、おじいちゃんに会えるのかなって」
 ヒナキの祖父は、ヒナキと風子が二歳、省吾と大河が四歳の時に病気で亡くなっており、写真は残っているが、記憶にはほとんど残っていない。祖父といってもまだ五十を過ぎた頃の、早い死だった。のんびり屋でお人好しな、けれど芯の強い人だったと聞いている。
「だから、大河お兄ちゃんの力が羨ましかったの。でも……」
 ヒナキは顔を曇らせて言葉を切った。
 ヒナキと風子が大河の力を知ったのは、十年ほど前。大河の祖母の葬儀からしばらくした頃だ。海岸の波打ち際で遊んでいると、大河がふと、砂浜の方をじっと見てひらりと手を振った。遊び慣れた場所で親たちはおらず、他には年上の友人数名だけ。彼らは少し離れた場所で遊んでいた。つまり、砂浜には誰もいなかったのだ。
 誰に振ってるの? と風子から聞かれ、大河は当然のように「ばあちゃん」と答えた。すると、風子とヒナキは馬鹿にするでもなく驚くでもなく、そっか、と笑って、同じようにひらひらと手を振った。
 この話は、家族ぐるみで付き合いのある省吾たちの家族も知っていて、けれど不気味がるでもなく、当たり前のように受け入れられている。それはおそらく「島の神様」のおかげだろう。風子の家出騒動をはじめ、山で迷子になった子供が奇跡的に見つかった、倒れてきた木材の下敷きになりかけたが誰かに背中を押されて助かったなどという不思議な話は、昔からいくつか言い伝えられている。島の神様が会わせてくれたんだよと言ったのは、今でも現役で畑に出ている省吾の祖父だ。
 島外では通用しなかったものの、それまでは当たり前のように受け入れられていた大河と、父親にさえ受け入れてもらえなかった昴。それに加えて、この事件。
 安易に、羨ましいと思えなくなったのだろう。
 省吾はグラスに口を付けて言った。
「まあ、人と違う力って色々と苦労もあるだろうから、軽い気持ちで羨ましいって思うのはよくない時もあるだろうな。でも、お前みたいな理由なら、構わないんじゃないのか」
 真摯な気持ちで羨ましいと思われるのは、受け入れられた証拠でもある。特に大河たちのような力は、二度と会えない大切な人との間を取り持つことができる。もちろん、それが正しく使われれば、の話ではあるが。
「そうかな」
「そうだろ」
 即答すると、ヒナキはほっとしたように相好を崩した。と、部屋の扉が鳴り、ヒナキの母親が顔を出した。手には麦茶が入ったポットを持っている。
「お勉強どう? 進んでる?」
「まずまず」
 気の知れた相手だ。省吾が正直に答えると母親は苦笑し、テーブルを見てあらと小首を傾げた。
「風子ちゃん、携帯忘れたから取りに行くって言って出て行ったけど、これ違うの?」
「えっ!」
 ポットを受け取りながらヒナキが目を剥き、省吾は弾かれたように携帯を鷲掴みにして立ち上がった。母親がきょとんとした顔で見上げる。
「おばさん、風子勘違いしてると思うから、ちょっと追いかけてくる」
「ええ……」
「ヒナ、一応おじさんたちに連絡。お前はここにいろよ」
「う、うん」
 言い置いて部屋を飛び出した省吾を見送り、母親が苦笑いした。
「もしかして、お勉強が嫌で逃げ出したのかしら」
「えっ、あ、うん。そ、そうかも」
 風子ちゃんごめんと心の中で謝りながらしどろもどろに頷くと、母親は閃いた顔をして、うふふと含み笑いを漏らした。
「それとも、大河くんに会いに行ったのかしら。帰ってきてるのよね。お客さんが来てるみたいだし、今日は会ってないんでしょ?」
「う、うん……」
 色んなことが筒抜けだ。改めて田舎の情報網は恐ろしい。いや、そんなことより早く電話をしなければ。
「勉強会を抜け出すなんて、よっぽど会いたかったのね。いいわねぇ、青春だわ」
 母親の乙女チックな妄想は当たらずとも遠からずだが、そんな甘い状況ではないのだ。ヒナキがそわそわして口を開きかけた時、階下から「お母さんちょっと」と呼ぶ父親の声が響いた。ここぞとばかりに便乗する。
「あ、ほら、お父さんが呼んでるよ。ポットはあとで下ろすから、早く行ってあげて?」
「あらいけない。忘れてたわ」
 何か頼まれごとをされていたのだろう。小走りに部屋を出た。
 ヒナキは扉が閉められたことを確認し、携帯を操作する。おじさんというのは、風子のお父さんではなく影唯のことだ。鈴が島へ来たことをきっかけに、念のためにと携帯の番号を交換した。それがこんな形で役に立つとは。
 独鈷杵は神社で見つかったと聞いている。まさか直接行くとは思いたくないけれど。
 耳元で鳴り続けるコールに、不安を覚えた。まだ出ない。何か起こっているのだ。いっそ大河に、と思っていると、繋がった。
「もしもし、ヒナちゃん? どうしたんだい?」
 いつもとは少し違う、強張った声。ますます不安が増して、目にじわりと涙が滲む。
「おじさん……っ、風子ちゃんがそっちに行っちゃった……!」
 涙ながらに訴えると、一瞬沈黙が落ちた。
「分かった。ヒナちゃん、落ち着いて。ヒナちゃんは、今おうちにいるんだね?」
 強張っていた声がいつもの穏やかな声色に変わり、ヒナキは鼻をすすってこぼれ落ちた涙を拭った。
「うん」
「省吾くんは?」
「ふ、風子ちゃんを追いかけてくれてる」
「そうか、分かった。大丈夫だよ。またすぐに連絡するから、ヒナちゃんは絶対におうちから出ないこと。約束できるね?」
「うん」
「よし、いい子だ。じゃあ切るね」
「うん」
 通話が切れたとたん、顔がくしゃりと歪む。再び大量の涙がこぼれ落ちて、携帯の画面を濡らした。影唯は、解決策を言わなかった。もしかして動けないのかもしれない。
 本当は、今すぐにでも追いかけたい。でも自分までそんなことをすれば、皆に心配と迷惑をかける。間違いなく、足手まといになる。
「大河お兄ちゃん……っ」
 携帯を胸にぎゅっと抱きしめて、ヒナキは祈るように呟いた。
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