第8話

文字数 5,438文字

 進展なし。それが下平以下、少年襲撃事件を担当する捜査員たちの今日の成果だった。
 菊池雅臣(きくちまさおみ)が所持していると思われる本山涼(もとやまりょう)の携帯のアクセス履歴を元に、近隣の防犯カメラの確認や住民らに聞き込みを行った。夜十時前後という、中途半端な時間帯だったため目撃証言はほとんど出なかった。頭の上を変な影が通り過ぎたという証言は出たが実物を見ておらず、本人も酒が入っていたし一瞬だったため見間違いだと思うと言っていたらしい。参考にはならない。
 おそらく調べても無駄だ、などと捜査員たちに言えるはずもなく捜査を続けている時、紺野からメールが届いた。こっそり確認した内容に、ぎょっとした。
 何がどうなってそんな状況になるのか。ひとまず動くなとメールを返し、そわそわする気持ちを押さえて捜査を終え、署に戻ったのが六時頃。
 明日以降の捜査方針は見通しがつかなかったが、深町弥生のこともある。何か手掛かりがあるかもしれない。そんな期待を胸に抱えて早々に報告書を書き終え、急用があるからと言い残し署を後にした。
 冬馬のマンション前の道路で車を停車させると、下平は到着した旨を伝えながら窓を開け、煙草をくわえて火を点けた。今日は車通勤をしたため、心置きなく煙草が吸える。
 下平はゆっくりと長く紫煙を吐いた。
 白骨遺体が紺野の姉の元夫。しかも昴が疑われ、紺野は捜査から外された。単純に考えるなら、偶然元夫が恨まれていた。考えたくない可能性を考えるなら、昴は内通者であり、さらに父親が殺されることを知っていた。
「まさかなぁ……」
 寮の者たちの身元調査から昴が外されていたことは、確かに紺野の甘さを感じた。けれど、だからといって実の父親をあんな残忍な方法で殺させたと考えられるほど、自分も完全に甘さを捨て切れない。それに、昴は柴と紫苑の話を怖がっていたと言っていた。
「……有り得ねぇ……」
 そう思いたい。
 下平が深く吸い込んだ煙を神妙な呟きと共に吐き出した時、冬馬が助手席の窓から覗き込んでドアを開けた。顔色は良いが怪訝な顔付きだ。手に紙袋を三つ下げている。
「何を一人でぶつぶつ言ってるんですか?」
「いや、ちょっとな。それより、悪いな付き合わせて」
「いえ。店まで送ってもらえるなら助かります。下平さん、これを」
 ドアを閉めながら差し出された紙袋を見て、下平は首を傾げた。紙袋の種類が違うのは何故だろう。
「これ、全部樹にか?」
「いえ。樹に渡して欲しいのはこれです」
 そう言って改めて渡されたのは、シンプルなクラフト紙の袋。
「こっちは椿さんに、こっちはハンカチを貸してくれた人に。多分陽くんだと思うんですけど」
 椿の方は中央に小さく店名が印字されている淡いピンク色、もう一方は有名ブランドのロゴ入りだ。
 下平は受け取りながら、さらに首を傾げる。
「何で」
「何でって、ハンカチを駄目にしてしまったので。椿さんには傷を治してもらったお礼です。他の人には菓子折りでもと思ったんですが」
「あ――、いい、いい。そこまでしなくていい」
「そうですか?」
 当然のように言う冬馬の言葉を遮り、下平は苦笑いを浮かべた。冬馬と良親の確執もあったが、それは樹たちの方も同じだ。冬馬が気を使う必要はないのに、真面目というか律儀というか。
「分かった、渡しとく」
「お願いします」
 下平は体を捻り後部座席に置いた。
「で、住所は?」
 冬馬は携帯を引っ張り出し、メッセージを開いた。陸という内勤の男とのものだろう。読み上げられる住所をナビに打ち込み、発車させる。
 もう一度煙を吸い込んで、運転席と助手席の間の収納ボックスに置いている灰皿で吸い殻を揉み消した。
「この車、下平さんのですか?」
「ああ」
「どうりで。煙草臭いです」
 冬馬は煙たそうに顔を歪め、嫌味たらしく窓を開けた。暑い。
「悪かったな。つーか、お前も昔吸ってただろ。いつやめたんだ?」
「ずいぶん前に……加熱式に変えたんです。それから少しずつ。でも、完全にはやめてませんよ。持ち歩きが不便なので、家でしか吸わなくなっただけです」
 不自然に開いた間にピンと来た。どうせ樹がらみだろう。昔、下平もことあるごとに煙草臭いと言われていた。ふーん、とニヤつく下平を、冬馬がバツの悪そうな顔をして横目で睨んだ。
 笑いを押し殺し、話題を変える。
「冬馬、例の悪鬼対策だけどな」
「はい」
「昨日、紺野たちに――廃ホテルにいた奴ら覚えてるよな」
「ええ。店に来た二人組ですよね」
「そう。紺野と、若い方が北原っつーんだけど、あいつらに相談したんだよ。そしたら、陽の兄貴に相談した方がいいって言われて、説明したんだ」
「陽くんのお兄さんって、廃ホテルにいた背の高い人ですか?」
「いや、もう一人いる。土御門明っつって、三兄弟の長男だ」
「ああ……そういえば、そんなようなこと言ってましたね」
 陽がごねた時に、宗史が晴に保護者がどうのと言っていたことを思い出したようだ。
「で、彼が護符を作るからお前ら全員に渡しておいてくれって言われてな。必ず肌身離さず持ち歩くように、だと」
「え……?」
 目を丸くして振り向いた冬馬を、下平は横目で一瞥して続けた。
「もう一つ、お前に礼を言っといてくれってさ」
 冬馬は顔を曇らせて前を向き直り、視線を落とした。
「……俺に、受け取る資格は」
「冬馬」
 何を言おうとしたのか、聞かなくても分かる。下平が言葉を遮ると、冬馬は素直に口をつぐんだ。
「彼の立場上、事件の詳細は知ってる。分かった上でお前に礼を言って、こうして協力してくれてるんだ。素直に受け取れ」
 不本意だったにせよ、後ろめたく思う気持ちは分かる。けれど、だからこそ明たちの気持ちを無碍にしてはいけないのだ。
「……はい」
 俯いたまま頷いた冬馬に、下平はよしと満足気な笑みを浮かべた。
「で、その護符だ。今朝晴が、廃ホテルにいた陽の兄貴な、そいつが届けてくれたんだけど、うちからリンの職場が近いだろ。先にリンに渡したから、お前は智也と圭介から店で受け取ってくれるか。迎えに行ってるんだろ?」
「ああ、すみません。連絡のタイミングを逃してしまって。聞きましたか」
「聞いた。どうなってんだ?」
「実は昨日、あの後すぐに智也と圭介に電話したら、今日から行くと言うのでとりあえず迎えに行かせたんです。リンとナナには、俺からあとで説明するから二人が迎えに行くまで外に出るなと言っておきました。智也と圭介の報告では、どうやらリンの職場、遅番専属の人が辞めてシフトが持ち回りになっているらしくて。智也が毎日迎えに行きたいと言い出したので、だったらナナもということになったんです。ナナは外来診療担当でほぼ定時で上がれるので、リンが遅番の時は別々に迎えに行くことになりますね」
 つまり、リンが早番ならば二人一緒に、遅番ならば別々に、智也と圭介が迎えに行くということだ。
 先日ショートメールが送られてきた時間を考えると、七時には仕事が終わっている。この時期は七時を過ぎてもまだ十分明るい。明るければ人目につきやすい。陽の時と状況が異なるため、普通は襲うにしろ自宅に忍び込むにしろ、完全に陽が落ちてからだろうと踏んだからこそ、夜に外出する日だけと冬馬も考えたのだろうが、シフトの変更は想定外だったようだ。
「なるほど。タイミングが悪いな。遅番は何時に上がれるんだ?」
「九時半だそうです」
「あー、それはまずいな」
 下平は苦い顔をした。遅くなればなるほど危険度は上がる。
「確かに、毎日迎えに行く方が俺たちとしても安心っちゃ安心だな。けど、店の方は大丈夫なのか。しょっちゅう遅刻してたら他のスタッフに詮索されないか?」
「それも考えました。スタッフは龍之介の事を知ってるので、いっそのこと話してしまおうかと思ってるんです。リンとナナのことも全員知ってますし」
 冬馬とスタッフの間に絆があるからこそできる対応策だ。
「分かった、そっちは任せる。あ、でも悪鬼のことは言うなよ?」
「さすがに言いません」
 冬馬は苦笑し、それと、と続けた。
「二人とも使命感に燃えてました」
「……まあ、そうだろうな」
 はい、と冬馬は大きく頷いた。何せ慕う冬馬から好いている女のボディガード役を仰せつかったのだ、気合が入って当然だ。
「リンとナナの方は?」
「それが、リンは多少ごねると思ってたんですが意外とあっさり聞いてくれました。しばらく夜の外出はやめるそうです」
 身の危険を理解したのだろうが、もしかして迷惑をかけているとでも思っているのかもしれない。昼間見た浮かない顔が脳裏に蘇る。
「そうか。つーか、それだけの話を一人一人電話でしたのか。貧血もあったのに、疲れただろ」
「え?」
「あ?」
 どこに聞き返される要素があったのか分からない。下平は首を傾げた。
「智也と圭介、リンとナナで別々にはなりましたけど。下平さん、同時通話機能を知らないんですか?」
「同時通話? そんなことできるのか?」
「ええ。メッセージアプリは使ってますよね」
「ああ」
「そのアプリにそういう機能があるんです。最大で二百、あれ、五百人に増えたんだったかな」
「おい、それどうやるんだ」
 紺野が自宅待機を食らっている今、三人で合流できない。だからといって報告を一人一人するのは面倒だ。いいことを聞いた。下平が興奮した様子で尋ねると、冬馬はきょとんとした顔をして、しかしすぐに何か察したように言った。
「無料通話ができるのは?」
「それはさすがに知ってるぞ」
「グループを作って、通話するだけです」
「へぇ、あれにそんな機能があるのか。作るのは……グループ作成ってやつから? だったか?」
 ん? と首を傾げた下平に不安を覚えたのか、冬馬が珍しく遠慮がちに申し出た。
「……よかったら、やりましょうか?」
「ほんとか、助かる。紺野と北原だ」
「はい」
 下平は内ポケットから携帯を取り出して冬馬に手渡した。特別機械に弱いわけではないが、部下や娘の方が詳しいので、色々と任せっ放しにしている。そういえば、樹から聞いたらしい、昼間に廃ホテル組から立て続けにショートメールが入ってきた。彼らともメッセージの交換をしておいた方がいいだろうか。
「何かメッセージ入れますか?」
「二人とも大人しくしてろって入れてくれるか」
 即答した下平に、冬馬は苦笑いを浮かべて素早く打ち込んだ。ここまで言っても何があったのか聞いてこないのは、らしいと言えばらしい。
「できましたよ」
「悪いな、助かる」
 いいえ、と小さく笑いながら返された携帯を、内ポケットにしまった。
「ところでお前、どうやって住所聞き出したんだ?」
「特にこれといって変わったことはしてません。どのみち良親がいなくなったことは分かるので――」
 昨日、冬馬がミュゲの陸に連絡を入れたのは、出勤時間の六時を少し回った頃だったらしい。良親の住所を聞き出すための理由として使ったのが「あとで連絡すると言われたのだが一向に連絡が来ない。電話をしても出ない」という当たり障りのないものだった。
 陸からは、出勤してきたら連絡させると言われたらしいが、当然来るはずがない。しばらくして連絡が入り、電話が繋がらないと言われたそうだ。体調が万全でないこともそうだが、あまり急ぐと逆に怪しまれる。冬馬は、ひとまず下平に相談してみると言って先に住所を聞き出し、下平にメッセージを送り、そのあとで、明日も出勤しなかったら様子を見に行くことになったと陸に報告した。
 そして今日の午後六時過ぎ、やはり何度電話をかけても繋がらず店にも来ない、と陸から電話が入り、ならば確認しに行くと告げて、今に至る。
「まずかったですか?」
「いや全然。問題ねぇよ。後々のことを考えると、小細工するより正攻法が一番安全だ。場合によっちゃ通用しねぇしな」
「俺もそう思います。今、陸さんが本社に連絡を入れてるはずなので、ご家族に連絡がいくと思います」
「てことは、親がすっ飛んでくるかもな。携帯戻すのバレないようにしねぇと。てか、あいつの実家どこだ?」
「知りません」
「だよな」
 愚問だ。と、冬馬の携帯が着信を知らせた。陸さんです、と言って電話に出ると、冬馬は初めのうちは普通に相槌を打っていたが、途中で怪訝な表情を浮かべた。そして、分かりましたと言って怪訝な顔のまま電話を切った。
「どうした」
「それが、ご家族と連絡は取れたらしいんですが、合鍵を持っていないらしくて、対応は全て任せるから結果だけ教えて欲しいと言われたそうです」
「は?」
 下平は眉を寄せた。
「なんだそりゃ。息子がいなくなった、かもしれないのに?」
「ええ。連絡を入れた社員は、反応が薄いというか、興味がなさそうな感じだったと言っていたらしいです。それでは困ると食い下がったようですが……」
「応じなかったのか」
 ええ、と冬馬は神妙に頷いた。又聞きのため確証はないが、それでも対応を全て会社に任せると言ったのは本当だ。
「ああそれと、かかった費用は経費で落として構わないそうです」
 家族が応じなかったとはいえ、会社としては放置できないだろう。
 携帯を戻す気遣いは無くなり、事件の証拠集めはしやすくなったが、この様子では捜索願を出して終わりか、あるいはしばらく様子を見て荷物だけ引き上げて何もしないということも有り得る。ホストクラブで働いていたことを知っているのかすら怪しくなってきた。
 そうか、と下平は短く息を吐き、隣で思案顔を浮かべる冬馬を一瞥した。
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