第4話

文字数 5,586文字

 紺野は盛大に舌打ちをかまし、外へ視線を投げた。
 神戸市の西部に位置する須磨区は、南部は古くからの住宅街、北部はニュータウンと住宅地の要素が強い。しかし、平安時代に起きた一ノ谷の戦いの舞台であり、日本で最古の厄除八幡宮(やくよけはちまんぐう)である多井畑厄除八幡宮(たいのはたやくよけはちまんぐう)があり、一ノ谷町(いちのたにちょう)関守町(せきもりちょう)板宿町(いたやどちょう)月見山町(つきみやまちょう)と歴史にちなんだ町名も多い。
 また、1995年に起きた阪神・淡路大震災において、甚大な被害を受けた地域でもある。
 目的地一帯は、大規模団地の周囲を戸建てが囲んだ住宅街になっている。保育園から中学校までが一通り揃っており、中高一貫校も合わせると、高校まで同じ地域で済むことになる。さらに、大小の公園、銀行、郵便局、スーパー、寺院、果てはチャペルまである。バスの本数も多く、車などがあればファミレスも近く静かではありそうだ。ただ、病院が少なく、最寄駅までは徒歩で三十分、コンビニもない。
 それともう一つ、駐車場が少々面倒だった。
 ナビで検索した駐車場に着くと、案内板には「予約制。無断駐車お断り」と書かれており駐車できなかった。あと二つの駐車場も同じで、結局近くのスーパーの駐車場を失敬することにした。
 スーパーの裏手にあるようで、脇道に入ってすぐだ。
「不審者対策なんですかね? どこも予約制って」
「住宅街だからな、学校も近いし。どうせ後で飲み物か何か買うから、勘弁してもらうか」
 こうして捜査などで突然赴いた時には不便だが、地域の安全のためならば仕方ない。団地の敷地内に訪問者用の駐車スペースがあるはずなのだが、申告が必要なはずだ。美琴の母親がまだ住んでいるかどうか分からない以上、うかつに彼女の名前や警察だとは口にできない。
 とりあえず駐車場から出て右手、団地が建ち並ぶ方へと向かう。道路を挟んだ向こう側には同じ外観の建物が建ち並び、脇道を出たところで二人は足を止めた。
「つーか……どこだ?」
 同じ建物が並ぶ団地は方向感覚を狂わせる上に、どれが何号棟なのかさっぱり分からない。手帳を開いてぼやいた紺野に、北原が携帯の地図を確認する。
「えーと……三丁目は目の前ですね。何号棟でしたっけ」
「48だな」
「48……ああ、そこの敷地内です」
 北原は地図を拡大し、建物の号棟を確かめながら言った。ちょうど目の前の敷地のどこかにあるらしい。そんなことまで分かるとは、本当に便利になったものだ。
 敷地の入り口はすぐ目の前だが、横断歩道は少し先にある。子供連れの親子や年配者が待つバス停を横目に、そちらへ足を向ける。いくら交通量が少ないからと言って、子供の目の前で道路を横切るわけにはいかない。信号のない横断歩道を渡って戻り、小ぢんまりとした門をくぐって敷地へと入った。
 各棟へと続いている小道を進む。道路から見えた建物の側面には、「49」の巨大なハウスナンバーが貼り付けられている。ということは、小さな広場を間に挟んだ向こう側が48号棟のようだ。
 横から入口へ回り込む。五階建てで、入口は三つ。手前からA、B、Cとなっているようで、美琴が住んでいた部屋はBの302号室、真ん中の入り口だ。
 入口の階段脇に設置されている金属製の郵便ポストは、部屋番号が掠れ、所どころ錆びていて年季が入っている。部屋番号の下に名前が入っているが、空き部屋が多いのか、それとも入れていないだけなのか、空白の部屋が目立つ。
「あ、名前変わってますね」
 北原の声に、紺野も覗き込む。山内と名前が入っていた。
「引っ越したのか」
「みたいですね」
 紺野は顎に手を添えて息を吐いた。樋口親子を知る人物はいるのだろうか。
 ポストの空白の多さといい、夏休みにも関わらず敷地内で子供の姿を見ないことといい、正直驚いた。街から離れた公団住宅では、建物の老朽化や住民の高齢化が問題になっていると聞いたことがあるが、これほどとは。あるいは時間帯のせいなのか。
「隣近所に話を聞きたいところだけど、いるのか?」
「ええ。一応、住んでるみたいですよ」
 住んでいるからといって当時の住民と同じとは限らないが、それだったらそれで構わない。他を当たるだけだ。
「行ってみるか。もし知ってたら、今住んでない住民のことなら話してくれるかもしれん」
「そうですね」
 階段へ足を向けた時、折り畳み式のショッピングカートを抱えた初老の男性が下りてきた。いいタイミングだ。
 一瞬警戒したように足を止め、訝しげな目で見下ろしてきた男性に、紺野は会釈をして声をかけた。
「こんにちは。すみません、ちょっとお尋ねしてもよろしいでしょうか」
 自宅前にスーツ姿の男二人がいれば警戒するのも分かる。男性は立ち止まったまま、ますます怪訝な表情を浮かべた。
「何か」
「以前、こちらに住んでいた樋口さんという方をご存知ですか?」
「樋口? ああ、302にいた樋口さん?」
「ご存知ですか」
「知ってるけど……あんたらは?」
 今住んでいないと分かった以上、隠す必要もないだろう。紺野と北原はそれぞれ警察手帳を取り出した。
「京都府警の紺野と申します」
「同じく、北原です」
 男性は目を丸くした。
「京都の警察の人が何で……」
 男性は中途半端に言葉を切り、ああと納得したように呟いた。
「あの人、何かしたのかい」
 この口ぶりは、やはり何かある。警戒を解くように溜め息をつきながら、男性は階段を下りた。
「いえ、そういうわけではありません。参考までに、こちらに住んでいた時の様子を教えていただければと思って」
 下まで下りてきた男性は、ふーんと納得しかねるように二人を見やり、周囲に視線を投げた。
「どうせどんな事件なのか教えてくれないんだろ。まあ、もういないからいいか」
 皮肉交じりの前置きをして、男性は当時の樋口親子の様子を語った。
 沢渡の刑事の勘は当たっていた。同時に、彼女の話が何故腑に落ちなかったのか、その理由が分かった。
「可愛らしかったけど、まあ無愛想な子だったよ。挨拶をしても、会釈だけで返事もしない。まあ、しょうがないと思えなくもないけど」
 そう言って長い息を吐いた時、小道から初老の女性が顔を出した。こちらもカートを引いている。男性は彼女を見て、ああちょっと、と手招きをした。
「小島さん、あんた樋口さんのこと覚えてるかい」
「樋口さん? 覚えてるわよ。何、どうしたの?」
 女性は首を傾げながら早足で近寄った。期待顔をしているのは気のせいか。
「この人たち、京都の刑事さんなんだって。樋口さんのこと聞きにわざわざ来たみたいでね」
「京都って……やだ、もしかして美琴ちゃん、何かあったの?」
「聞いても教えてくれないよ。あれだ、守秘義務ってやつ」
「ああ、やあね。都合が悪くなったらそれよね」
 ケチだよなぁ、と言って笑い声を上げる二人に、紺野と北原は引き攣った笑みを浮かべた。ケチも何も、本当に母親は何もしていないのだから話すことはないのだが。いや、今はそんなことに引っ掛かっている場合ではない。
「あの、娘さんが京都に預けられたことをご存知なんですか?」
 そう聞くや否や、女性はそうそうと言って流暢に語ってくれた。
 彼女はCの住民だが、その日は孫に会いに灘区へと行っており、夜遅くに娘たちに車で送ってもらったのだという。そして、ちょうどBの入り口にさしかかった時、男に連れられて出てくる美琴を見かけた。
「ちらっと見ただけだったけど、覚えてるわ。スーツで眼鏡をかけてたわね。若そうに見えたけど」
 着物なら明に絞られるが、若くて眼鏡という条件なら明か怜司だ。仕事で来ていたのだろうか。
「後になって樋口さんに聞いたら、親戚に預けたんだって言われたのよ。まあ、ねぇ……」
 含んだ視線を男性に向けたその意味は、今なら分かる。
「でもね、美琴ちゃん、愛想はなかったけど優しい子だったのよ。ほら、ここエレベーターないでしょ。あたしが大荷物抱えてたら運んでくれたし、ベビーカーを運んであげてるのも見たことあるわ」
「何だ、そうなのか? 無愛想って印象しかなかったけど」
「まあ、誤解されやすいかもしれないわね。あんなに愛想がないと。不器用だったのかもねぇ」
「へぇ、ちょっと不憫に思えてきたなぁ」
「そうねぇ。けどまあ、しょうがないわよねぇ……」
 本当は優しい子なのに、と女性は俯いて悲しげに呟き、ふと顔を上げた。
「そう言えば、今は一緒に暮らしてるの? 今年の初めくらいに引っ越して行ったけど」
 一瞬、答えに詰まった。けれど、どちらにしろ一緒だ。
「いえ」
 そう、と複雑な表情を浮かべた女性の気持ちはよく分かる。一緒に暮らしていてもいなくても、美琴にとってはおそらく辛いだろう。
 紺野は気を取り直すように息を吸った。
「お時間を取らせてしまって、すみませんでした。ありがとうございました」
 しんみりした空気を払拭するように張りのある声で告げ、頭を下げた。北原も倣う。
「刑事さんも大変だねぇ。県外にまで聞き込みなんて」
「そうよねぇ。暑いから、体には気を付けてね」
「ありがとうございます。お二人も気を付けて下さい。失礼します」
 ああ、じゃあね、と言って最後は笑顔を見せてくれた二人に会釈を返し、紺野と北原はその場を後にした。
 小道を戻りながら、紺野は少々うんざりした溜め息をついた。
「なんつーか、あれだな」
「ええ、分かります」
 資料からすでに分かっている怜司を含め、全員、過去に何かしらの傷がある。この調子では、残りの者たちも何かあると思わざるを得ない。
「そうだ。沢渡さんの話が腑に落ちないって言ってたろ」
 敷地を出て、横断歩道へと向かう。
「ええ。理由、分かりました?」
「美琴の表情だ」
「表情?」
 ああ、と頷くと北原はこちらを向いたまま首を傾げた。
「会合で見た時、すげぇ無表情だったろ。母子家庭だからって、特に問題がない家庭で育った子供がする顔じゃねぇよ。もちろん、絶対にいないとは言い切れねぇけど」
「確かにそうですね……同じクラスに母子家庭の奴がいましたけど、家族仲は良かったみたいだですし、普通に笑ってましたからね」
「だろ。それに、いくら羽目を外したかったって言っても、補導された時に妙に落ち着いてたってのもおかしいし、繁華街の待ち合わせスポットにいるなんて、補導してくださいって言ってるようなもんだ」
「あ、もしかして、自暴自棄とか」
「かもな」
 横断歩道を渡り駐車場へと向かいながら、北原は溜め息をついた。人のことは言えないが、彼らのことを調べだしてから溜め息が増えた気がする。
「美琴ちゃん、母親が引っ越したこと知ってるんでしょうか」
「どうだろうな……」
 親類かどうかは分からないにしろ、承諾して京都へ行かせたのなら連絡先くらいは知っているだろう。けれど、住民らのあの証言がある以上は断言できない。だがもし知っていたとして、それでも引っ越したことを知らせていなかったとしたら――。
「動機として、どうなんでしょう……」
 ぽつりと呟いた北原の声に、紺野は我に返った。そうだ、今考えるべき問題はそこだ。どんな過去があったとしても、人を殺していい理由にはならない。
「十分だろうな」
 はっきり告げると、北原が振り向いた。
「ただまあ、この場合、美琴が母親のことをどう思っていたかにもよる。客観的に状況だけを見るなら、恨んでも当然だろうけどな」
 それにもし、京都へ行って美琴が救われたのなら、あんな無表情でいるだろうか。まだ一年だ。たった一年で癒されるような傷ではない。けれど。
 紺野は乱暴に頭を掻いた。
 自分もかつては子供だったのに、大人になると子供の気持ちが分からない時がある。確かに経験していないことではあるが、もし自分だったらと想像してみても答えが出ない。子供時代に同じ経験をしていたら、どう思っただろう。
 バス停のベンチに座り、楽しげに笑い声を上げる母子を横目で窺いながら通り過ぎる。
「繊細な問題ですよね、こういうのって」
「ああ……そうだな」
 溜め息交じりに答え、さてと頭を切り替える。
「中学の方はどうする? 同じような証言しか出てこねぇ気がするんだよな」
「同感です。あの様子じゃ、知らなかったかもしれませんね。もし知ってたら沢渡さんの話に出てくるでしょうし」
「義務があるからデータに残るしな。てことは、やっぱ知らない可能性が高いか」
 逡巡し、腕時計を確認する。二時過ぎ。今から戻れば早くて四時頃には京都に着く。そこから科捜研に行ってカメラの映像を確認し、下京署に鑑定書を届けて捜査本部に戻る。何も起こらなければすんなり上がれるだろう。
「とりあえず戻るか。また何かあったら来られる距離だし」
「そうですね」
 駐車場に入り、車へ足を向けながらふと思い出して踵を返す。
「おっと、何か飲み物でも買わなきゃな」
「ああ、そうでした。神戸って、お洒落で映えるカフェ多いんですよねぇ。どうせならそっちで何か買いたいところですけど」
「観光じゃねぇし、そんな時間ねぇよ。それにしても、最近は映え映えやかましいよな。俺にはよく分からん」
 溜め息と共に、呆れたようなうんざりしたような声でぼやく。「映える」という言葉が流行りだしてからずいぶん経つが、未だに何が「映え」ているのか理解ができない。
「……それ、年なんじゃ……いたっ!」
 ぽつりと呟いた北原の頭に、紺野が無言で拳を振り下ろした。
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