第4話

文字数 3,292文字

 捜査会議はいつも八時半からだ。早めに始めてもいいのだが、先に樹へのメッセージと廃ホテル組とのメッセージ交換を済ませておきたい。ひとまず小会議室の確保を頼んで荷物をデスクに置くと、下平は屋上の喫煙所へ向かった。紺野たちと会うまでは、ほとんど来ることがなかったのに。彼らにとっての岐路が犬神事件ならば、下平にとっての岐路は、あの日なのだろう。
 煙草をふかしながら、さっそく樹へメッセージを送る。
『冬馬から預かってる物がある。都合のいい時間を教えてくれ』
 続けて怜司、宗史、晴、大河、(はる)へ招待を送り、当主二人へは、
『おはようございます。念のために交換をよろしくお願いします』
 と添えて送信した。(あきら)へはもう一言、お守りありがとうございましたと付け加えた。こう数が多いとなかなかの手間だ。
 すぐに返事があったのは、樹と怜司以外の全員だ。立て続けに挨拶やスタンプが返ってくる中、陽からのメッセージに思わず苦笑いが漏れた。
『おはようございます。先日はご迷惑をおかけした上に、我儘を言ってすみませんでした。ありがとうございました。暑いので体調には気を付けてください』
 大人に囲まれて育ったとはいえ、しっかりしすぎではないのか。経験上、妙にしっかりした子供は内に何かしら溜め込んでいることが多いが、あんな風に主張できるのなら心配ないだろう。下平は、ありがとうと書かれた孫が好きなペンギンのスタンプを一つ送り、屋上をあとにした。
 午前八時半。
 少年課と同じ階にある小会議室の定員は十名。正面に設置されたホワイトボードと長机と椅子以外は何もなく、エアコンが大きく唸り冷風を吐き出している。まだ多少の暑さが残った部屋に、六名で構成される下平班が揃った。
 ホワイトボードの前、上座に腰を下ろした下平が口火を切った。
「まずはこれを見てくれ」
 そう言って、下平は携帯を机の上に置いた。画面には深町弥生(ふかまちやよい)の顔写真。全員が前のめりに覗き込む。
「この女は?」
 顔を上げて尋ねたのは、下平から見て左手に座る前田(まえだ)だ。えらの張った四角い顔と、くっきりした二重と濃い眉毛が特徴で、課内では有名な四十代の愛妻家かつ子煩悩だ。マイホームパパというらしい。基本的に冷静なタイプだが、妻子自慢を始めると止まらないのが玉に瑕だ。
「深町弥生。年は二十一」
「深町……?」
 反復したのは前田の隣に座る三十代の大滝(おおたき)。短髪で、涼やかな目元にすっきりとした顔立ち。学生時代に陸上をやっていたらしく、班内一の俊足を誇る。前田の相棒だ。
「あ、あれか。上京区で起こった事件。本部に出頭したっていう」
 閃いたのは、下平から見て右手に座る同じく三十代の新井(あらい)だ。甘いマスクが特徴だが、性格はなかなかきつい。そのギャップがいいと、他の課の女性署員から人気があるらしい。
 ああ、そういえば、と納得の声が上がる。
「この事件が何か関係あるんですか?」
 首を傾げたのは、新井の隣の二十代の牛島(うしじま)。学生時代にラグビーをしていたらしく、浅黒い肌に大柄な体格で、体力が自慢。実直で大雑把な性格だが、鋭い目付きに似合わず妙に涙もろく、相棒の新井からは常々「キモイ」と暴言を吐かれている。だからといって仲が悪いわけではない。榎本と共にリンとナナの保護をした。
「この事件の現場は、榎本の自宅から近いんだよ」
「あ、はい。確かにそうですけど……」
 大滝の向こう側に座る榎本が呟いた。
 一瞬の沈黙のあと、全員が弾かれたようにもう一度携帯を覗き込む。前田が言った。
「つまり、榎本が見た女はこの弥生かもしれないってことですか」
「そうだ。ただ、似顔絵が曖昧すぎて断定できねぇ。榎本、どうだ?」
 画面を食い入るように見つめる榎本を置いて、前田たちは姿勢を戻し答えを待つ。やがて、榎本は困った顔をして首を横に振った。
「似てるようにも、見えますけど……」
 語尾を小さくして首を傾げた榎本に、下平たちから唸り声が漏れる。
「黒い煙や状況はともかく、菊池(きくち)の捜索が手詰まりだし、これしか手掛かりがねぇんだよな」
「ていうか、この情報どこから手に入れたんですか?」
 新井が尋ねた。
「本部の一課に知り合いがいてな、ちょっと融通利かせてもらった」
 なるほど、と新井が納得したところで、下平は改めて部下たちを見渡した。
「ただ行方が分からなくて、亡くなってる可能性があるそうだ」
「は?」
 全員が揃って呆気に取られた。
「お前ら、あの事件の概要は知ってるな?」
 無言で全員が頷いた。
「あの後の捜査で、被疑者は心神喪失状態で送致されるはずだったらしい。だが、直前になって正気を取り戻し、供述を始めたそうだ。何故突然正気に戻ったのかは分からん」
 先手を打つと、困惑した顔が並んだ。
「詳細は?」
 前田に尋ねられ、下平は榎本を見て口を開いたが、出てきたのは事件の詳細だった。これから先、刑事としてやっていく気があるのなら、彼女にとってこれは一つの試練になる。
「深町夫婦は再婚同士で、弥生は妻の方の連れ子だったらしい――」
 そんな語り出しで気付いたのは、女の勘なのだろうか。榎本の表情が一変して険しくなった。
 正気に戻った仁美の証言はこうだ。
 今から十三年前、仁美は前の夫と離婚したあと職場から近いアパートへと引っ越した。バス停へ行く途中には伊佐夫(いさお)の自宅があり、ちょうど仁美が通る時間帯に出てきていたらしい。初めは、出勤時間が同じなんだな、くらいに思っていたが、何度となく顔を合わせるうちに会釈を交わすようになった。次第に、おはようございますと声を掛け合うようになり、自然と一緒にバス停へ行く仲になった。しばらくして、仕事終わりにお茶でもと誘われたが、弥生を一人にしておくことはできないので、三十分くらいならと約束して連絡先を交換した。
 結婚はもううんざりだと思っていたけれど、話しをするにつれ、照れ屋で少し不器用で、しかし優しい人柄に惹かれていった。やがて、伊佐夫からの申し出で交際が始まった。
 交際を始めてしばらくして、伊佐夫と弥生を会わせた。弥生は、初めはよそよそしかったが次第に懐き、今から十一年前、弥生が十歳の時に再婚、同時に退職した。一軒家は伊佐夫の実家で、前妻との離婚後に実家へ戻り、早くに亡くなった両親から受け継いだものらしい。これまであまり一緒にいてやれなかった弥生のことを思い、できれば仕事を辞めたいと伊佐夫に相談すると、弥生も喜ぶだろうと言って二つ返事で承諾してくれた。まさか寿退社をするなんて思ってもみなかった。会社の皆や友人から祝福され、まさに幸せの絶頂だった。
 夫婦仲も親子の仲も良好。少しずつ、時間をかけて「家族」としての絆を育んだ――つもりだった。
 弥生が高校二年生の時、仁美は週末に開かれる中学校の同窓会に出席するため、実家がある和歌山へ一泊の予定で帰省した。両親からたくさんの手土産を持たされ、中には弥生が好きな「もなか」もあった。京都で暮らす同級生と一緒に戻り、ちょっとお茶でもと誘われた。少し遅くなるとメッセージを入れると、ゆっくりしておいでと伊佐夫から返信があった。つい同級生と話が弾み、気が付いたら午後六時を回っていた。
 大急ぎで自宅へ戻り、仁美はすぐにリビングダイニングへ向かった。
 だが、扉を開けると誰もおらず、仁美は首を傾げた。待ち切れずに二人で買い物に行っているのだろうか。しかし、二人の靴は玄関にあった。二階へ上がると、弥生の部屋から何かおかしな声が聞こえた。恐る恐る扉に耳を当ててみると、聞こえたのはベッドが軋む音。それと伊佐夫の荒い息使いと苦しそうな喘ぎ声。首を絞められているとか、病気で息苦しいとか、そんな声ではない。夫婦だから分かる。それが、何をしている時の声なのか。
 その後の記憶は曖昧で、どうやって二人と接したのかはっきり覚えていない。ただ、普段の二人の態度に変わった様子は見られなかったし、おかしな音を聞いたのもそれきりだ。それに、ちゃんと見たわけではない。確認したわけではない。聞き間違えだ。そう自分に言い聞かせた。
 けれど、どうしてもあの時の音と声が耳から離れない。

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