第18話

文字数 4,101文字

 さらに翌日。あんな八つ当たりみたいなことをして、もう会えないのではないかと不安にかられた。けれど、香穂はそこにいてくれた。何も話すつもりがないのに、触れさせてはくれないのに、どうしていてくれるのか。会えばまた理由を聞かれると分かっているはずなのに。会いたいと思ってくれているのだろうとは思うけれど、それ以上の香穂の真意は、もう分からなかった。
 それでも、お互いに気まずさはあったけれど、やはり会えると嬉しい。もういいかと思う自分と、真実を知りたいと思う自分の狭間で揺れた。
「昨日、悪かった」
 バツの悪い顔で言った怜司に香穂は首を横に振り、深々と頭を下げた。すっかりしゅんとした様子の香穂に、怜司はふと苦笑いを漏らす。
「そういえば、喧嘩したの初めてだな」
 ああ、と言うように瞬きをして、香穂も苦笑いを浮かべた。
 それから毎日、同じ時間に桂木家を訪れるようになった。
 ここ最近、本も読んでいないしテレビも見ていないせいで、話題は非常に乏しかった。一定の距離を保って縁側に並んで座り、思い付くままぽつぽつと子供の頃の話をする。体質に悩んだこともそうだが、ふと思い出した絵本の話しをすると、香穂はやっと笑顔になった。ジェスチャーで「あたしもそれ好きだった」と伝えてくる。知らないと首を横に振れば、携帯で検索して「これ」と見せる。興味津々に画面を見つめる香穂は、やっぱり本の話をしている時が一番楽しそうだ。
 そんなことを、十日ほど繰り返した。喧嘩をして、毎日顔を合わせる。生きている時はしなかったことをするなんて、皮肉にも程がある。
 一度、
「まだ、話す気にならないか」
 そう尋ねてみたが、香穂はとたんに顔を曇らせて口をつぐむ。現実問題、いつまでもこうして会うわけにはいかない。この頃には、近所で噂になっていた。この家には自殺した娘の幽霊が出る、と。間違っていない。むしろ正しいのだが、恐怖の対象として見られるのは、婚約者としてはいただけない。
 本格的に購入を検討するべきか。そう考えていた、十一日目。
 いつもの時間にいつも通りこっそり忍び込み、縁側に腰を下ろして話をしていた時だった。こういうのを逢瀬って言うんだろうな、などと軽口を叩いていると、門前で車のエンジン音が停止した。もしや通報されたか。
 腰を上げ、香穂を背中に庇ってぼそぼそと声が聞こえる道路の方を見やる。事情を話せば同情してくれるだろうか。やがて門扉が開いた音がして、足音が近付いてきた。おそらく二人。
 角の近くで足音が止まった。リビングには道路側にも掃き出し窓がある。室内を確認しているのだろうか。怜司はゆっくりと息を吸って吐き出した。次の瞬間。
「誰かいるのか」
 角から出てきた男の声と共に、明かりが目を刺激した。怜司は目を細め、手をかざして明かりを遮った。携帯のライトだろう、強くはなかったが薄暗い中で照らされれば多少目がくらむ。しかしそれ以前に、警察が携帯のライトを使うのはおかしい。誰だ。
 ライトを照らした男の影からもう一人、男がひょいと出てきた。怜司は思わず、後ろにいる香穂へ下がるように手で合図をし、自身も数歩下がった。
「うん、いるね。けど……」
 後ろから出てきた男が確認をして、訝しげな声で言葉を切った。
 ライトが地面を照らし、やっと二人の顔を窺えた。どちらもスーツ姿で中年男性。ライトを照らした男は眼鏡をかけ、生真面目そうな雰囲気だ。もう一人、何やら考え込んでいる男は優しげな顔立ちをしているが、こちらを見据える眼差しは強く、聡明そうだ。
 ふむ、と思案していた男が、笑みを浮かべた。
「こんばんは。ミナモトエステートの者です。ここで何をしてらっしゃるのでしょう?」
 ミナモトエステート。管理会社の関係者か。今度は怜司が訝しげに眉を寄せた。幽霊の噂を聞いたとしても、わざわざこんな時間に調査に来るものだろうか。怪しい。怜司は目を鋭くして警戒心を放った。
 男が一歩足を踏み出すと、眼鏡の男がすっと腕を横に伸ばして止めた。男が眼鏡の男を見やる。
「大丈夫だよ。何となく分かってるから」
「それでも危険です。おやめください」
 硬い声で制止され、男はおどけるように肩を竦めた。年齢と口調からして上司と部下だろうが、その辺の上司部下の関係とは雰囲気が違う。どちらかといえば、対象者とボディガードのような。
 男は「しょうがないなぁ」と呆れ口調で言って、怜司に視線を投げた。
「ちょっとお伺いしますが、そちらにおられるお嬢さん。貴方にも見えていますよね?」
 予想だにしなかった質問に、怜司は目を丸くした。後ろにいる香穂も驚いて目をしばたいている。彼にも見えているのか。先程の「いるね」は、香穂のことを言っていたらしい。
「その反応、間違いありませんね。もしかして、桂木香穂さん、でしょうか」
 売却を請け負ったのなら、事情を知っていてもおかしくない。だが、どう考えても不自然だ。
不意にいくつかの白い玉が目の前を横切り、怜司は鬱陶しそうに眉をしかめた。あえて「視ている」ため、どうしても香穂以外のものも見えてしまう。幼い子供を抱いた女性が、虚ろな顔ですうっと横を通り過ぎた。
 つい一瞥した怜司を見て、男が何度か瞬きをした。
「こちらの物件が売却された理由は伺っています。彼女がこちらの娘さんなら、貴方はお付き合いをされていた方でしょうか」
 怜司のことは伝えられていないらしい。だが、「視える」のなら、こうしてわざわざ会いに来る理由はそれくらいしかない。冷静に考えれば分かるが、やけに頭の回転が速いというか、手慣れている感じだ。ただの関係者とは思えない。
「……婚約者です」
 警戒心丸出しで答えた怜司に、そうですか、と男は悲痛な顔をした。一つ息をつき、男は眼鏡の男を振り向いた。
郡司(ぐんじ)、もういいよ。彼は危害を加えたりしない。ずっと彼女を守ろうとしている。大丈夫だよ」
 どうやら眼鏡の男――郡司の方は見えないらしい。男の説得に、郡司はそれでも少しの警戒を残して腕を下げた。そして男が再び怜司へ視線を投げる。
「とはいえ、貴方が不法侵入をしていることは事実です。警察に通報してもいいのですが――」
 ぐっと怜司が声を詰まらせ、香穂が背後から飛び出して勢いよく首を横に振った。すると男はにっこり笑い、では、と人差し指を立てた。
「こちらの質問にお答えください」
 明らかにこちらの分が悪い。従う方が得策だ。怜司は諦めの息を吐き出し、浅く頷いた。
「貴方のお名前は」
「……里見怜司」
「ご職業は」
「会社員です」
「どちらにお勤めですか」
「草薙製薬で営業をしています」
 答えたとたん、男と郡司がぴくりと反応した。何だ。一瞬妙な間が空き、男が続けた。
「貴方のその力――体質ですが、いつから?」
「子供の頃からです」
「どの程度見えますか。例えば、生活に支障が出るほどなのか、気にならない程度なのか」
「生活に支障が出ます」
 また間が空いた。
「何か、対策をしておられますか」
 何故そんなことを聞いてくるのだろう。同じ「視える」者同士、気になるのだろうか。
「普段は、見ないようにしています」
「それは、見えているけれど見えていないふりをしているのか。それとも、完全に見えないのか」
「全部ではありませんが、見えません」
 今度はあからさまに男と郡司が目を瞠った。
「どうやって?」
「自分に、見えないと言い聞かせています」
「誰かに相談したことは?」
「いえ、誰にも」
 郡司が男を振り向き、男は丸くした目をしばたいた。
「社長」
「ああ、驚いた。独学でコントロールしたのか」
 驚いたのはこちらだ。コントロールの意味は分からないが、男はミナモトエステートの社長なのか。
 男は唇に指をあてがって逡巡し、怜司と香穂を交互に見やった。香穂で止めた目に、わずかに憐憫めいた色が浮かんだ。
「……どのみち、避けられない」
 そう呟くと、男は気を立て直すように息を吐き出した。
「里見さんとおっしゃいましたね。脅すような真似をして、大変申し訳ありません。改めまして、私、こういう者です」
 スーツの内ポケットに手を入れてこちらへ近寄った男に、怜司は咄嗟に反応した。警戒ではなく、営業の性だ。名刺入れを取り出そうと胸に手をやり、はたと気付く。私服だ。あ、といった顔をした怜司に、男がくすりと笑った。ああ分かる、という共感の笑みだ。
「構いません」
 名刺入れから名刺を取り出し、男は目の前で足を止めた。両手で差し出されたそれを両手で受け取る。男の背後には、郡司が護衛のようにぴったりと張り付いている。
 受け取った名刺に目を落として、怜司と横から覗き込んだ香穂がぎょっとした。
「社長って、ミナモトホームの……」
 社長は社長でも、ミナモトグループのトップだ。しかも、彼の名前。
「土御門……?」
 はい、と彼――土御門栄明(つちみかどえいめい)は頷いた。土御門と聞いてすぐに思い浮かぶのは一人だが、そんなまさか。怜司と香穂は訝しい顔を見合わせた。ふと、距離が近いことに気付く。好奇心の方が勝ったか。指摘してまた逃げられるのはごめんだ。
 黙っておこうと密かに打算した時、栄明が屋根の方を仰いだ。
(すず)
 人の名前。怜司と香穂が見上げたとたん、上から人の影が振ってきた。
 またぎょっとした二人の目の前にふわりと軽い所作で着地したのは、着物姿の女性。漆黒の髪をポニーテールに結い上げ、涼やかな美しい顔立ちをしている。そして何より、薄暗い中でも分かる、深い紫色の瞳。
 呆然と彼女を見つめる怜司と香穂に、栄明は改めて自己紹介を終わらせたあと、正体を明かした。
 現代に陰陽師が存在すること、土御門家当主は栄明の甥に当たる人物が務め、鈴は彼の式神であること。確かに、どれだけ身軽であっても屋根の上から飛び下りて無事な人間はいない。しかしいまいち実感が湧かない顔をした怜司と香穂に、鈴は精巧な朱雀を顕現させて見せた。ここまでされて信じられないとは言えない。
 そして、社長自らここへ足を運んだ理由と、彼らが請け負っている「仕事」について。つまり彼らは、幽霊の噂を聞いて「浄化」とやらをしに来たのだ。
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