第4話

文字数 3,581文字

 敵味方入り乱れ、至る所から怒号が響く。
 そんな中、下平は着物姿の女――おそらく式神だろう。椿と言ったか、彼女の前に横たわる男をちらりと一瞥した。飛び込んだ時、一瞬だけだったが冬馬に見えた。壁際に智也と圭介がいるということはおそらく間違いない。何があったのか。
 下平は素手で向かってきた男に警棒を振り下ろした。警棒の先端を左手で掴んだ男の手を即座に握って固定し、手首を内側に巻き込むようにして背後に回り込む。いででで、と濁点付きの呻き声を聞きながら腕を後ろに反らせ、さらに反らせると悲鳴が上がった。押し出すようにして手を離すと、男は肩を押さえて床に伏した。少し痛めたかもしれないが、この人数を確保するには仕方ない。
「智也、圭介なにぼさっとしてんだ! あいつらがどうなってもいいのか!」
 良親の叱咤が響いた。誰のことだ。誰か人質に取られているのか。壁際に立っていた二人が、自分を奮い立たせるように声を上げて混戦の中へ飛び込んだ。
 と、男が椿に支えられてゆっくりと体を起こした。噛んでいたハンカチを椿が取り出すと、激しく咳き込んだ。
「冬馬……っ」
 口を押さえて肩で大きく息をするその横顔は、間違いなく冬馬だ。
 下平は向かってきた男の拳を避けて背後に回り、思い切り背中を蹴飛ばした。すぐにナイフを持った別の男が向かってくる。下平は舌打ちをかました。突き出されたナイフを横に避けながら警棒で素早く弾き飛ばし、続け様に男の脛を打撃する。さらに警棒の柄の先端を激痛にしゃがみ込んだ男のうなじに打ち込むと、男は尻を突き上げた情けない恰好で倒れた。
「おいとう……っ」
 冬馬、と言い終わらないうちにまた別の男が襲いかかって来た。今度は鉄パイプだ。振り下ろされた鉄パイプを、横に倒した警棒を掲げて受ける。
「殺す気かこの馬鹿たれが!」
 やはり話ができる状況ではない。男たちを一掃する方が先だ。人数的に一人当たりノルマは三、四人のはずだが、思った以上に男たちがタフだ。一人を相手にしている間に一人が復活しまた向かってくるの繰り返し。その根性もっとまともなことに使えよ、と説教してやりたい。それに長引かせるとさすがに体力がもたない。
 下平が力づくで鉄パイプを押し返すと、男はすぐに横に振った。警棒を立てて受けると、わずかに曲がった。完全にひしゃげることはないだろうが、ここで使い物にならなくなると不利だ。仕方なく腹に蹴りを入れた。
 もうすぐ定年のおっさんに何やらせんだ、と自虐的な苦言を心で呈した下平の耳に、突然飛び込んできた。
「下平さん!」
 冬馬の声。
 思わず振り向いた下平に、男が襲いかかった。
「危ない!」
 椿が叫んだ。再度振り向くと、先程倒れたはずのナイフ男が鬼の形相ですぐそこまで迫っていた。避け切れない。そう思った矢先、男がぐっと苦しげな声を上げた。男のシャツを紺野が後ろから鷲掴みにして力づくで引っ張り、引き寄せるようにして床に押し倒した。
「ここは任せてください! 北原、キリがない手加減するな!」
「了解です!」
 背中を膝で押さえつけてナイフをもぎ取りながら叫んだ紺野の指示に、北原が男を殴り飛ばしながら答えた。
「すまん!」
 余裕の笑みを浮かべた紺野に詫びを入れ、下平は冬馬の元へ駆け寄った。あっ、と言いたげに椿が口を開けた。
「やっぱりお前だっ」
 何かにぶつかって顔面を強打し、下平は情けない声を上げてよろめきながら後ろに下がった。手で顔を覆って痛みに耐えつつ、指の間から視線を上げる。目には見えないが何かある。上に紙切れが浮かんでいるところを見ると、陰陽術の結界とかいうやつだろうか。また見えないとは厄介な。
「下平さん……っ」
 冬馬の掠れた声に目を向け、愕然とした。
 立ち上がろうとするが力が入らないのだろう、すぐにがくんと崩れ落ちた。
「無理をされてはいけません。傷は完治しましたが、体力をかなり消耗しています」
 側に寄り添う椿が止めるのも聞かず、冬馬は下平を見つめたまま、這うようにして近付き結界に手を当てた。こんな彼は初めてだ。いつも澄ました顔で小綺麗な格好をしている冬馬が、今は全身血や埃にまみれ、息も荒く、追い詰められた余裕のない表情を浮かべている。
 一体、何があったんだ。
「何で、下平さんがここに……っあいつらは無事なんですか……っ」
 はっと我に返り、すぐ思考を巡らせる。智也と圭介のことだろうか。あいつらなら、と答えようとした下平より先に、冬馬が掠れた声を絞り出した。
「リンとナナはどうしたんですか……ッ!」
 虚をつかれた。リンとナナ。何故、あの二人の名前が――下平は瞠目した。
 ここへ来る途中、ナナからショートメールが入った。男につけられ、撒いてリンの職場に向かっていると。昨日のこともあったし、てっきり草薙の仲間だと思っていた。それに良親のあの言葉。まさか。
「下平さんッ!」
 ドンッ! と冬馬が苛立たしげに両拳で結界を強く叩いた。不安の色を滲ませ、懇願するような目で見据える冬馬から、初めて人間らしさを感じた。
 下平は一呼吸置いて、膝を折った。
「冬馬、落ち着け。あいつらなら榎本(えのもと)が署で保護してる、無事だ」
 ショートメールを確認したあと、すぐに榎本に連絡を入れた。人の目が多い場所でさすがに手出しはしないだろうし、彼女なら互いに面識がある。まだ署にいると言うので事情を説明し、もう一人の部下と共に連絡が来るまで待機させた。一方ナナには榎本の番号を伝え、リンと合流したら動かずに榎本に連絡を入れろと伝えた。ここに到着する前に、二人を無事保護したと、連絡が入っていた。
 まさか、彼女たちの件も繋がっていたとは。
 下平の答えを聞き、しかし冬馬は安心する様子を見せず今度は周囲に視線を走らせた。男たちはもう半分ほど床に横たわっている。今、大河も一人打ち負かした。
「智也、圭介ッ!」
 それでもまだ挑む男たちの隙間から、二人の姿が覗いた。ちょうど二人同時に志季に襲いかかったところだった。しかし容易に拳を掴まれて、そのまま床に叩きつけられた。それを見た冬馬が結界にすがるように張り付き、叫んだ。
「リンとナナは無事だ! もう従う必要はない!」
 打撃音や金属音、床を滑る音や呻き声。
「従うなッ!!」
 混ざる音を切り裂くように、冬馬の悲痛な叫び声が響き渡った。
 もういいから、と冬馬は最後に力なく呟き、俯いた。肩が、小刻みに震えている。
 一方智也と圭介はゆっくりと体を起こし、俯いて肩を竦めたまま、動かなくなった。
 泣いているのか。
 下平は奥歯を噛み締めた。リンとナナは智也と圭介のお気に入りだ。良親という男が何者か知らないが、二人を人質に脅し、協力せざるを得ない状況に追い込んだのだろう。そして、状況から察するに冬馬は巻き込まれたのか。菊池雅臣(きくちまさおみ)のことが脳裏を掠る。本山(もとやま)たちも、同じ手段を使って雅臣を苦しめた。
「腐ってやがる……っ」
 下平は口の中で吐き捨てた。
 不意に冬馬が咳き込んだ。すかさず椿が両手でお椀の形を作ると、どこからともなく水が溢れだした。下平と冬馬は目を丸くした。差し出されたそれに冬馬は一瞬躊躇したが、真っ直ぐに見据える紫暗色の瞳を見つめ返して、ねだるように薄く唇を開いた。椿が唇に指先を添えゆっくり口へ注ぐ。無くなった分だけ少しずつ増えていく。
 冬馬は美味そうに喉を鳴らして飲み、やがて口を離した。手の中に残っていた水が水蒸気となって消えていく。冬馬は長く息を吐いて、手の甲で口元を拭ってから椿を見やった。
「あんた、一体……」
 不思議そうに尋ねる冬馬に、椿は身惚れるほど穏やかな笑みを浮かべた。
「椿と申します。水神の眷属神であり、宗史様の式神でございます」
「眷、属神……式神……?」
 冬馬は意味を理解しようと、椿の言葉を反復する。
 残った出血の跡から見ても、冬馬の怪我は酷かったはずだ。それが今は見当たらない。しかも先程の水。あんなもの、人間が起こせる現象ではない。信じてはいたが、土壁といい結界といい、こうして実際に目の当たりにすると改めて驚かされる。
 樹たちは本当に陰陽師で、椿と志季は神なのだ。
 と、大河の怒号が響き渡った。同時に、智也と圭介の首根っこを鷲掴みにした志季が、綺麗な弧を描いてこちらに跳んできた。少々乱暴に手を離され、二人は床に転がった。冬馬の言葉の意味を察したのだろうか。志季は何も言わないまますぐに跳び上がり、大河の元へ向かった。
 宗史と怜司と陽の周囲にいた男たちは全員床に伏し、痛みに悶えている。紺野と北原は大河の元へ加勢に行っており、残りは、樹と晴だ。
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