第5話

文字数 15,664文字

 幼い頃の夢を見た。
 あれはまだ、小学生の頃。省吾と二人、探検家気分で島を探索していた時、島の裏側で見つけた狭い海岸。猫の額ほどの海岸の近くには洞窟があった。奥行きはかなりあるが、広さは大人二人分ほどだろうか。潮が満ちたら飲み込まれてしまう、二人だけの秘密基地だった。
 おやつや漫画や宿題を持ち込んで、日が暮れるまで一緒に遊んだ。
 大河は浜辺で漫画を読んでいた。ああそろそろ帰らなきゃ、そう思って省吾を探した。
「大河、こっち」
 洞窟の奥から名前を呼ぶ省吾を見つけ、帰ろうと叫んだ。もうすぐ潮が満ちるよ、と。
「早く、早く」
 それでも手招きをする省吾に、駄目だよ危ないよともう一度叫んだ。けれど、珍しく頑なな省吾を連れ戻そうと近付くと、比例するように洞窟は遠くなる。
 不安になって、自然と駆け足になった。何度も省吾の名前を呼びながら追いかける。距離が縮まらない。
 待って、と叫んでも待ってはくれず、砂に足を取られて転んだ。省吾、と叫びながら必死に手を伸ばすのに、省吾は変わらず笑いながら手を振っている。足に違和感を覚えて見てみると、砂に足が沈んでいた。どんどん足が飲み込まれ、身動きが取れない。
 嫌だ怖い、そう思った瞬間、洞窟は省吾を飲み込んだまま、一気に口を閉じた。

「省吾ッ!!」
 ベッドの上で飛び起きた大河は、夢の中で走っていた感覚そのままでベッドの上をはいずり、どすんと大きな音を響かせて床に落ちた。
「い……った……」
 肩やら膝やらをしこたまぶつけ、落ちた体勢のまま唸った。
「……」
 しばらく無言のまま床を見つめ、ゆっくりと頭を上げて周囲を見渡す。
 見慣れた壁に本棚。机にリュックにノートパソコン。低く唸るエアコンと窓にかかったカーテンは、確かに自室の物だ。
「え……俺んち?」
 やっと少し頭が稼働を始めて、記憶が蘇った。ぞくりと全身に鳥肌が立つ。
 省吾が洞窟に飲み込まれた夢。あれと同じ光景を現実で見ている。終業式の後、クラスメートたちと遊んで、その帰り道に黒い煙に襲われて、省吾はあれに食われた。助けようとしたのに助けられなかった。何も、できなかった。
 記憶と共に心に蘇った強烈な恐怖と後悔に、息ができなくなる。
 もう会えない。ずっと一緒に、隣にいた省吾と、もう二度と会えない。
「……っ」
 つんと鼻の奥が痛んで、次々に涙が零れ落ちた。
 床についた両手を握り締め、額を強く押しつけた。体を丸めて、漏れそうになる声を押し殺した――と、部屋の扉が開いた。
「お、お目覚めか。でかい音がしたと思ったら、やっぱ落ちてたな。大丈夫か?」
 ノックもなしに無遠慮に部屋に入ってきたのは、聞き慣れた声だった。一瞬、稼働を始めていた思考が止まる。
「大河? どっか痛むか?」
 側にしゃがみ込んで背中をさする人物に、大河はぽかんと口を開けたままゆっくり顔を上げた。
「……お前、なんで泣いてるんだ」
 涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔で呆然と見上げた人物は、同じく呆然と大河を見返した。
 男二人が間抜けな顔でお互いを見つめている光景は、不気味だ。しかも一人は泣きじゃくっている。扉が開いたせいで室温が上がった部屋を冷まそうと、エアコンが低く唸った。
「…………省、吾?」
 長い間を空け、大河が掠れた声で尋ねた。
「そうだけど」
「……本物?」
「幽霊に見えるか?」
 腕を広げて手のひらを上に向け、おどけて見せた省吾に大河は手を伸ばした。
「……俺は男に体中を撫でられまくる趣味はないんだけど」
 両手で顔や体を触る大河に眉をひそめた省吾は、それでもされるがままだ。一通り体の感触を確認した大河は満足したのか、呆然とした表情のまま口を開いた。
「でもお前……え、じゃあ、あれって夢?」
「残念だけど、現実」
 言いながら、省吾は腕を見せた。半袖から伸びる腕には、手首と肘の上に手形の鬱血痕があり、至る所に擦り傷が残っている。そう言われれば、さっきから全身に筋肉痛に似た痛みがある。実感として痛みが残っているということは、あれは現実だったのだ。ならば何故ここに、省吾がいるのか。
「でも、え? どうなってんの?」
 確かに省吾はあの黒い煙に飲み込まれた。目の前で見たのだ。間違いない。混乱して頭を捻る大河をよそに、省吾は腰を上げた。
「俺も今来たばっかで、まだ詳しいこと聞いてないんだ。とりあえず、おばさんが風呂入れてくれてるから、入ってこいよ。お前、汗臭い」
 立てるか? と手を引っ張られるがまま立ち上がり、大河は風呂場へ直行した。
 上手く動かなくなった頭を抱えながらのろのろと服を脱ぎ、浴室へ入る。こんな時、頭は動かなくても体が習慣を覚えているのは不思議なものだ。
 顔や腕の擦り傷が湯に沁みて、それが刺激になった。
 カラオケの帰り道に追いかけてきた黒い煙。省吾も気付いていたようだが、あれはおそらく高倉の負の感情から生み出されたものだろう。けれど、負の感情というのは、本人から離れられるものなのだろうか。これまであんな現象は見たことがなかった。
 大河は全身を洗い、湯船に浸かった。
 ちょうど良い湯加減に、肩の力がふっと抜けた。湯船から立ち上る白い湯気を眺めながら目を閉じると、あの時の光景が蘇る。
 どうしてあの黒い煙は、省吾を飲み込んだのだろう。そして、飲み込まれた後は、どうなるのだろう。
 黒い煙に飲み込まれる直前の光景が蘇り、大河は右手の甲を目の上に押し付けた。二度と思い出したくない記憶だ。
「……ん?」
 ふと、芋づる式に思い出した記憶に、大河は目を開けた。
「あいつ……っ」
 記憶が混乱していたから今の今まで忘れていたが、あいつはあの時、信じられないことをしようとしたのだ。
 大河は勢いよく湯船から上がり手早く体を拭くと、母が用意してくれたのだろう、着替えて脱衣所を飛び出した。
 足音も荒く、居間の襖を力任せに開く。パン、と甲高い音をさせて開いた襖に、そこにいた全員が振り向いた。その中に、悠長にせんべいなんぞを齧っている省吾を見つけると、他には目もくれず歩み寄った。
 目の前に立ちはだかるや否や、省吾の胸倉を両手で掴んで無理矢理立ち上がらせた。
「お前あの時何しようとした!?」
 何の前触れもなく怒号を響かせた大河に、全員が目を剥いた。
「おい大河、何して……」
 止めに入った父親の影唯を止めたのは、省吾だった。
 胸倉を掴まれたまま手の平を向けて影唯を制した省吾は、今にも噛みつきそうな勢いで睨みつけてくる大河をじっと見据えていた。
「何って?」
「とぼけんな! お前、自分だけ犠牲になろうとしただろ!」
「ああ、した」
「何であんなことした!? 俺が感謝するとでも思ったか!?」
 省吾は逡巡すると、言った。
「分からない」
「……は?」
「そんなこと考えてる余裕なかった。ただ、お前を助けなきゃって、それだけ」
 確かにあの状況でごちゃごちゃ考える余裕はなかっただろう。それは分かる。分かるが、どうしても納得したくない。省吾の平然とした表情が怒りを煽る。
「むっかつく……っ」
 ギリっと奥歯を鳴らした大河は、握った右の拳を省吾の頬に向かって振り抜いた。ガツッと骨と骨がぶつかる鈍い音が響き、省吾が床に倒れ込んだ。
「大河ッ!」
「おいおいおいちょっと待て」
 影正と影唯の怒声が重なり、そしてもう一人の知らない声が聞こえたが構っている場合ではなかった。もう一度省吾に掴みかかろうとしたが、後ろから羽交い絞めにされて引き離された。影唯が省吾の元に駆け寄り、体を支えて起こす。
「勝手に死のうとしてんじゃねぇよこの馬鹿!!」
 必死に助けようと、二人で助かる方法を考えていたのに、勝手に死んで犠牲になろうとした省吾に、無性に腹が立って仕方がない。一発殴っただけでは収まらない怒りに、体が震える。
 もう一発殴ってやろうと、羽交い絞めにしている腕を振り払った、その時。
「じゃあ何が正解だった!?」
 口の端から流れる血を手で拭いながら、省吾が切羽詰まったように叫んだ。頬がすでに赤く腫れている。
「このままじゃ二人とも死ぬかもしれないって状況であれ以外の選択肢って何があるんだよ! お前だったらどうしてた!? 教えてくれよ! あの時どうすればよかったのか、どうするのが正解だったのか教えろよ!」
「正解とか不正解とかそんなこと言ってんじゃねぇよ! 勝手に死のうとすんなって言ってんだ!」
「あんな状況でいちいち相談なんかしてられるか馬鹿!」
「そうだよ馬鹿だよ俺は! その馬鹿が必死に無い頭捻って二人で助かる方法考えてたのにお前が勝手に死のうとしたからムカついてんだろうが! 察しろ馬鹿!」
「悠長に考えてる暇なんかなかっただろうが! お前が遅いから俺が判断したんじゃねぇかこの単細胞!」
「判断すんならもっとまともな判断しろよ頑固ジジイ!」
「十分まともだったろうが! って誰がジジイだ表出ろ!」
「よぉし、やってやろうじゃねぇの!」
 省吾が庭を指差し、大河が指を鳴らしながら息勇んで足を向けたその時、二人の肩を背後から大きな手ががっしりと掴んだ。同時に振り向く。
「はいはいそこまで。二人とも怪我人なんだから、暴力はやめようや」
 ね、とにっこりと笑顔を向ける男に大河は眉をひそめ、省吾は我に返った。
「あんた誰?」
「すみません……」
 二人の声が重なった。
「息合ってんなー。さすが幼馴染み」
 男は笑い声を上げながら肩から手を離す。と、母親の雪子(ゆきこ)がお盆を手に顔を出した。
「あら、終わった? 省吾くん、ご飯まだよね。用意したから食べなさい。あんたたち、昔からお腹空くとよく喧嘩するから。ほんと、いくつになっても変わらないわねぇ」
 のんびりとした口調でそう言いながら、テーブルに食事を並べていく。炊きたてのご飯に豆腐の味噌汁、焼き鮭に卵焼き、きんぴらに漬物と朝食の定番が次々と並んでいく様子を見て、二人は喉を鳴らした。そう言えば、昨日カラオケでパスタやピザを少しつまんだだけで、ほとんど食べていない。成長期の食欲には見合わない。
「お母さん、シーツ洗濯してくるから。大河、部屋に入るわよ」
 雪子は大河の返事を待たずにさっさと居間を出た。
 何の意地の張り合いか。二人で黙ってテーブルを見下ろしている様は異様だ。
 ほんのしばらくして、省吾が諦めたように小さく溜め息をついて食卓に正座した。それに倣い、大河も少々乱暴に腰を下ろす。これは雪子の策略なのか。問答無用で隣同士に座らなければならない食器の並びになっている。
 むっつりとした表情を崩さないまま二人同時に手を合わせた。
「いただきます」
 互いに目を合わせようとしないのに息は合った合掌に、二人には分からないくらいの苦笑が周囲から漏れた。
 初めに手をつけたのは、二人とも味噌汁だ。二人分の味噌汁を啜る音を微笑ましげに聞いていた影正が、おもむろに腰を上げた。
「ちょっと探し物をしてくる」
「ああ、それじゃあ僕は、野菜を倉庫に入れてくるよ」
 小さく笑いながら、影唯も腰を上げた。
「影唯さん、手伝います」
 ずっと座って大河たちの様子を見ていた優男が、影唯の後を追った。
「そんじゃ、俺も手伝いますかね」
 大河を羽交い絞めにした男が、気だるそうに先に行った男の後を追った。
 大人たちが誰もいなくなった居間に、食器がぶつかる音と、せわしない蝉の声、遠くからは影唯と正体不明の男たちの会話が届く。
 気まずい空気の中、大河は最後に好物の漬物を食べ終え、麦茶で喉を潤した。隣では省吾がきんぴらを軽快な音を立てて咀嚼している。
 湿った夏の風が微かに吹き込んできた。グラスを伝う水滴を指で弄んでいた大河が、意を決したように口を開いた。
「省吾」
 ごくんときんぴらを飲み下した省吾が、視線すら向けずに答えた。
「何」
 ぶっきらぼうなのも、しこりが残るのもお互い様だ。
「……ごめん。言いすぎた。あと、殴ったのも」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で告げた大河に、省吾が箸を置いて手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
 そういえば合掌していない。大河は慌てて手を合わせごちそうさまでしたと口の中で呟いた。その間に麦茶を飲み干した省吾が、息を吐きながら足を崩す。
「俺も、ごめん」
 胡坐を組んだ足に視線を落としながら告げた省吾に、大河はうんと小さく頷いた。
「あのさ」
「うん」
 二人とも互いを見ることなく、会話を続ける。
「省吾があんなことしたのは、俺を助けるためだったっていうのは分かってるんだ。もし逆の立場だったら、俺も同じことしてたと思う。だからお前を責める資格はないって、頭では分かってる。分かってるんだけど……」
 心が納得してくれない。どう理屈を並べ立てても、でも、と心が反論してくる。あの時感じた孤独と絶望が、省吾を許すなと言っているようで。
「分かるよ」
 溜め息交じりに同意の言葉が返ってきて、大河は顔を上げた。省吾は大きく溜め息をつきながら、上半身を逸らして両手を後ろの床についた。天井を見上げながら続ける。
「俺もさ、もし逆の立場だったら、めちゃくちゃお前のこと責めまくったよ。あんなことして、俺のこと見くびってんのかって。俺だって頭では分かってるんだ。でも、じゃああの時どうすればよかったのかって考えたら、分からなくなる」
 しばらく沈黙が流れ、二人同時に溜め息が漏れた。
「なんかさ」
 省吾が体勢を戻し、苦笑いを向けた。
「もしもって考えるのって、不毛じゃないか?」
 突然の問題放棄発言に大河は目をしばたき、ふっと噴き出した。
「確かに」
「だろ? ムカついてても、相手と同じことするだろうなって思ったら反論できないし、俺だったら違う判断するって思ったら余計ムカつくしな」
「だなー。でも、よく相手の立場になって考えろって言うじゃん?」
「それは多分、日常での思いやりの話しだろ。前提が違うからな。あの状況でそれって当てはまらない気がする」
「ああ、そっか」
 立場が違えば考え方も感じ方も、下す判断も違ってくる。だから、簡単に相手を責めるな。思いやり、許すことを覚えろ、という教訓としての言葉なのかもしれない。だが今回の状況に限って言えば、例え相手が間違っていると思ったとしても、それはお互いを思う気持ちが生んだ感情だ。大河の怒りも省吾の判断も、どちらも間違っていて、どちらも正しい。
 でも、と省吾が胡坐を組んだまま器用に体を回して、大河に正対した。
「俺が死んだ後、お前がどう思うかまでは、考えてなかった。そこは、ごめん」
 虚を突かれた。胡坐を組んだ膝に手をついて頭を下げた省吾の頭のてっぺんを呆然と見て、大河はああと小さく呟いた。
 理解はできるのに納得できなかった理由が、やっと分かった。
 あの時、省吾が笑っていたからだ。これから死ぬかもしれない人間が、余裕こいて笑顔なんぞを浮かべていることに、無性に腹が立ったのだ。
「お前、あの時、笑ってたよな?」
「え?」
 省吾が顔を上げた。
「怖くなかったのか?」
 今さら何を、とでも言いたげに省吾は首を傾げた。
「そりゃ、怖かったよ。当たり前だろ」
 さらりと帰ってきた想像通りの答えに、大河は勢いよく頭を下げた。
「俺も、あの時のお前の気持ち考えてなかった。ごめん」
 当たり前だ。いくら根性が据わってる奴だとはいえ、死を目前にして怖くない奴なんかいない。大河を助けるために、恐怖を殺して死を選んだのだ。いや、黒い煙に選ばされたと言ってもいい。そんなこと、当たり前なのに。
 大河は顔を上げ、笑みを浮かべてもう一言付け加えた。
「助けてくれてありがとう。それと、生きててくれてよかった」
 一瞬、省吾が虚を突かれた顔をしたが、すぐに、
「いや」
 と苦笑した。
 何故笑われているのか分からない。大河は首を傾げると、思い出したようにあっと声を上げた。
「でもさぁ、あの状況で笑うなよ。俺、あれが一番ムカついてたんだぞ」
 言いながら麦茶に口を付ける。
「何で」
「何でって。余裕こいてるようにも諦めてるようにも見えるだろ。こっちからしたらムカつくわ」
「俺は、死ぬときは笑って死ぬって決めてるんだよ」
「何だよそれ。紛らわしいからやめろ」
「嫌だね」
「まだ反抗期かお前っ」
「人が決めた最期の死に方にケチ付ける方が野暮だろ」
 どこか楽しそうに反論しながら食器を片付け始めた省吾に大河も倣う。
 騒がしく言い合いながら食器を片付けていると、雪子が顔をのぞかせた。
「二人とも食べ終わった? いいわよ、置いておいて」
「いえ、片付けくらいします」
「やぁねぇ、そんな気を使う仲じゃないでしょ。それより、おじいちゃんたち話があるみたいだから」
 二人が片した食器をお盆に載せて居間を出た雪子と入れ替わりに、影正たち四人が入ってきた。ちょうど、振り子時計が低く九回鳴った。
 そういえば忘れていた。この二人の男の正体と、昨日の出来事のことだ。省吾は「まだ詳しいこと聞いてない」と言っていた。ということは、昨日の出来事について説明してくれる人物なのだろうか。何者だろう。
「大河、省吾、座りなさい」
 影正に促され、二人は素直に席についた。続けて男二人と影唯も腰を下ろし、すぐに雪子が人数分の麦茶と茶菓子を持って席についた。上座に座った影正から時計回りに、影唯、雪子、大河、省吾、正体不明の男二人の順にテーブルを囲む。
 影正が口火を切った。
「まずは、二人の自己紹介だな。省吾とはさっき挨拶を済ませたが……おっとその前に、お前たちを運んでくれたのは二人だぞ」
「え、あっ。すみません、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 大河と省吾が揃って頭を下げた。いや、と優男は恐縮すると、姿勢を正した。
「改めまして、賀茂宗史と申します」
 男は律儀に正座をしたまま深々と頭を下げた。つられて大河と省吾も頭を下げる。
 二十代そこそこだろうか。さらりと流れる黒髪に、端整な顔立ち。姿勢の良い正座に礼儀正しい振る舞い、言葉使いは、育ちの良さを感じさせる。優男だが、はっきりとした口調は意思が強そうだ。
 続けてもう一人の男は、胡坐を組んだまま会釈をした。
「土御門晴です」
 こちらは二十代半ばくらいだ。少し癖がかった黒髪は伸び切っていて、後ろでちょこんとくくられている。態度や口調から一見だらしなさそうに見えるが、よく見ると整った顔立ちをしている。宗史とはタイプが違い、ワイルドさが滲み出ている。
 晴につられて頭を下げた大河に、影正が視線を送った。
「あ、えっと、刀倉大河です。はじめまして……」
 尻すぼみにあいさつをして、頭を下げた。賀茂はともかく、土御門と聞いて何も気にならないわけがない。もしかしてという気持ちと不信感をない交ぜにした視線を投げると、影正は想像通りの言葉を口にした。
「名字から察しているとは思うが、二人は陰陽師だ」
 当然のように告げられた言葉に、大河も省吾もやっぱりと小さく呟いた。
「正直、お前たちが素直に信じるとは思っていないが……どうだ?」
 こちらの心の内を見透かされている。交互に見比べられて、大河と省吾はお互いに顔を合わせた。
「どうって言われても……なぁ」
「昨日のことがあるし、ああいうことが現実に起こり得るっていうのは実感として理解したけど……」
 だからと言って陰陽師の存在を受け入れるには、証拠が足りない。難しい顔をした省吾に便乗して大河も頷く。
 なら、と口を開いたのは宗史だ。宗史は立ち上がると、縁側に向かった。続いて影正も立ち上がり、宗史の隣に並んだ。
「え、じいちゃん?」
 何で? と言外に首を傾げる大河と省吾に、
「よく見ておけよ」
 と影正は庭を見たまま言った。今は宗史が陰陽師だという証拠を見せてくれる時だ。何故影正が付き添わなければならないのか。疑問に思いつつ、大河と省吾は体ごと縁側に向いた。
 二人は何やら話をし、まとまったのか、影正はポロシャツ、宗史はシャツの胸ポケットから、それぞれ一枚の細長い紙切れを取り出した。
 まず、宗史が中指と人差し指を唇の前に揃えて立てると、紙切れを庭に向かって放り投げた。同時に短く言葉を紡ぐ。
「此の地を護り給う水神よ 大地に恵みの雨をもたらし給えと (かしこ)(かしこ)(もう)す」
 祈るように低く唱え終わると紙切れは宙で浮いて止まり、周囲から霧雨のような柔らかい水が地面へと降り注ぎ、徐々に止まった。仕事が終わったとばかりに、紙切れは自らの意思があるように宗史の手の中に収まった。
 唖然とする大河と省吾を無視し、次は影正が同じ所作を繰り返した。
「古より此の地におわす土公神(どこうしん)よ 御力 成して我が前に示し給えと 恐み恐み白す」
 唱え終わると、先ほど水が降り注いだ場所を立てた二本の指で指した。すると、湿った部分の土が空に浮いていた紙切れへと次々にひっつき、あっという間に人型を形成した。まるで土偶の形をしたそれは、影正の手の中へと飛んで収まり動かなくなった。
「ふむ。久々だったがなかなかの出来だな」
「可愛らしい顔をしてますね」
 満足気に土人形を眺めながら二人が振り向いた。
「これは略式だが……」
 影正が言い終わる前に、大河と省吾は無言のまま同時に弾かれたように腰を上げ、競って二人の元へ群がった。
「……これ、さっき動いてたよな……しかも濡れてる……」
「すげ……」
 この土偶のように無愛想な土人形を見て可愛らしいと表現した宗史の美的感覚はさて置き、ここ最近の天気は晴れだ。庭に水も撒いていない。濡れているはずのない土が濡れ、あまつさえ勝手に動いて人形になった。
 興味津津に土人形を覗き込む二人に、宗史は苦笑いを浮かべた。
「これで信じてもらえたかな?」
 大河と省吾が、同時に首が取れるほどの勢いで頭を縦に振った。
「影正さんが陰陽師だってことも?」
 はっとして大河と省吾が影正に視線を投げる。影正が宗史に続いた時は何をする気かと思っていたが、まさか術を行使するとは思わなかった。青天の霹靂とはこのことだ。
 大河が窺うような視線を向けたまま尋ねた。
「まさか、うちも陰陽師の家系、とか……?」
「ああ、もしかしなくてもそうだ」
「!?」
 驚いて目を丸くしたのは大河だ。当然のように頷いた影正に、口を金魚のようにぱくぱくさせて何かを訴えている。一方省吾は、驚きはしているもののすでに正気に戻ったようだ。
「マジか……」
「いや、いやいやいやいや」
 何回言うんだよ、と省吾のツッコミに反論も忘れ、大河は頭を抱えた。
「いやだって、何? うちが陰陽師の家系? 何それ。いきなりそんなこと言われても……」
 なかなか現実を受け止めきれないでいる大河の肩に、省吾がぽんと手を置いた。
「大河」
「……何」
 こっちは混乱しているというのに、こいつは何でそんなに笑顔なんだ。大河は恨めしい目で省吾を見た。
「とりあえず、漫画の主人公みたいな俺格好良いくらいに思っとけ。話が進まないから」
「思えるかッ!」
 適当なことを言って収めようとした省吾に、食い気味に突っ込む。
「お前他人事だと思って……っ」
「しょうがないだろ。実際じいさんは術を使ったんだし、俺らはそれを目の前で見てる。信じる以外にどうするんだよ。どんだけ疑ったって事実は事実だろ」
 まさに正論だ。反論の余地もない。大河はぐっと言葉を詰まらせた。非現実的なものを見せられた時でも現実主義は健在だ。いや、現実主義だからこそ非現実的なものでも自分の目で見た以上、信じられるのかもしれない。
 でもだからって、と口の中でもごもご言っていると、影唯がちょいちょいと手招きをした。
「大河、とりあえず座って、お茶でも飲んで落ち着きなさい」
 にこにこ笑ってそう言う影唯の隣では、雪子も笑顔を浮かべている。暢気な夫婦だとは思っていたが、こんな時でもやはり暢気だ。
 大河は毒気を抜かれ、小さく頷いて席に戻った。省吾たちも戻ったところで、ふと疑問が湧いた。
「あのさ、父さんと母さんにいくつか質問。二人は知ってたんだよな? 何で俺には教えてくれなかったんだ? あと、いつ知ったの? 術は使えるのか?」
 当然の疑問だった。さっきから動揺する様子もなく、当たり前のように座って話を聞いているということは、二人にとって何ら不思議でも突然明かされた秘密でもないのだ。
「そうだな。不思議に思うよな」
 大河の質問に影唯は苦笑いを浮かべ、続けた。
「けど、それを説明するには他に教えておかないといけないことがあるんだ。その後に答えるよ」
「陰陽師の家系だってこと以外に?」
 ああ、と影唯は微笑んだ。
 そっか、と小さく呟いて、大河は残っていた麦茶を一気に飲み干した。冷たい麦茶が体に沁み込んで上がった体温を下げていく。ぷはっとまるで風呂上がりにビールを煽ったオヤジのような息を吐いて、大河はコップをテーブルに置いた。
 大きく深呼吸をして、影正に視線を投げる。
 どう見ても、どう考えてもこれは嘘でも夢でもない。一番信用できる家族と省吾が受け入れているのだ。ならば、
「話し、聞く」
 受け入れるしかない。省吾が言うように、ここで信じられないと駄々を捏ねても話が進まない。まだ隠しているらしい話を聞けば、素直に受け入れられるかもしれない。
 意を決したように神妙な顔をして宣言した大河に、影正はやれやれと言いたげに溜め息をついた。
「では、話を進めよう。まずは、大河、省吾、昨日のことについて詳しい説明が聞きたい」
「説明って言っても、俺は見えるわけじゃないし……大河、お前が説明した方がよくないか?」
 省吾に振られ、大河は頭を切り替えた。ちょっと待って、と昨日のことを思い出しながら順に説明する。
「えっと、クラスの皆と遊んだ帰り、コンビニのT字路あるじゃん。向島交差点。あのちょっと手前で黒い煙に追っかけられてるのに気付いたんだけど、そのまま無視して様子見ようってことになって。で、向島に入ってしばらくして省吾が襲われて、そんときは逃げられたんだけど、漁港に入ってからもう一回省吾が襲われて……そんで……」
 説明しているとあの時の気持ちが思い出され、大河はたまらなく口を閉じた。大丈夫か、と声をかけた省吾に小さく頷く。
「大体分かった。大河、黒い煙というのは、お前がいつも見てるあれか」
「あ、うんそう。靄みたいなの」
 そうか、と影正は了解すると、今度は大河と省吾を交互に見た。
「二人とも、襲われる心当たりはあるか?」
 二人は顔を見合わせ、同時に頷いた。
「あ、でも、確証はないんだ。あの時、たまたま省吾の方が後ろを走ってただけだし」
「いや、間違いないと思う」
「え?」
 言葉を遮った省吾に、大河が首を傾げた。
「何で言い切れるんだよ」
「声が聞こえた」
「声?」
「ああ。飲み込まれた時、声が聞こえたんだ。くぐもってたけど、あれは高倉の声だった」
「マジか。何て言ってた?」
「何でお前なんだって。ずっとそう繰り返してた」
「うわぁ……」
 まさかとは思っていたが、本当に高倉の負の感情だったとは。大河は顔をしかめた。
「どうやら、省吾の方が襲われる心当たりがあったようだな。その高倉というのは? クラスメートか?」
「うん」
「原因は分かるか?」
「多分……」
 歯切れのよかった省吾が言い淀んだ。自分のモテ自慢をするようで照れ臭いのだろう。大河が受け取った。
「高倉が好きな女子が省吾のことを好きなんだよ。多分、や、間違いなくそれが原因だと思う。皆でカラオケしてる時にその女子が省吾に絡んでて、それ見た高倉の負の感情に当てられたから、俺」
「なるほどな。だから、何でお前なんだ、か。しかも、お守りを持ってたにもかかわらず当てられたとなると、かなり強烈だな」
「彼にも持たせた方がいいですね。クラスメートとなると、夏休みの間はともかく、学校が始まったら避けようがないですし」
 宗史の提案に影正が頷いた。話を聞く限り、大河と同じお守りを省吾にも持たせようという話をしていることは分かった。あの黒い煙は人の負の感情で、当てられると体調を崩す。そして襲ってくることは実感した。分からないのはその後だ。
「あのさ、あの黒い煙に飲み込まれたらどうなるの」
 当然の疑問だった。高倉が生み出した黒い煙なのだから、本人が煙たく思っている省吾を狙うという理屈は分かる。だが、何故飲み込む必要があったのか。
 影正が一瞬苦い顔を浮かべ、重苦しい口調で言った。
「あの中で、ずっと彷徨い続ける」
「……ん?」
 とっさに理解も想像もできなくて、大河は首を傾げた。
「お前たちが黒い煙と言っているあれは、悪鬼と言う。悪鬼にも段階があってな。初めは、大河がよく見ている状態だ。人の背後や、回りを取り巻いている状態のことを邪気。それがさらに膨らんで人から切り離され個体として行動する状態、または、人に危害を加える死んだ人の怨恨のことを悪鬼言う。悪霊と言えば分かりやすいか?」
 ああ、と大河と省吾が腑に落ちたように頷いた。
「悪鬼は、基本生んだ本人が恨んでいた者を標的とし取り込もうとする。簡単に言えば、本人の代わりに恨みを晴らそうとするんだ。標的を取り込んだ後、悪鬼はそこらの人間を食らうか、または取り憑く。特に邪気が強い者には取り憑くことが多い。そいつの邪気を吸って肥大化し、さらに巨大な悪鬼となる。場合によっては、取り憑かれた本人をも食らうことがある」
 影正は一旦言葉を切ると、麦茶で喉を潤した。
「かつて、省吾のように取り込まれギリギリで助け出された者がいるんだろうな。悪鬼の中は、ブラックホールのようなものらしい。外見は大小様々あるが、中は無限に広がっているそうだ。取り込まれると闇の中で死ぬまで彷徨い続け、死んだ後は肉体も魂も奴と同化し、成仏することはない。成仏できなければ、転生もない。さらに、同化はもちろん、食われた状態でも調伏されると、悪鬼と共に強制的に消滅させられる。つまり、二度と人として生まれ生きることはない」
 淡々と語る影正に、大河は背筋を凍らせた。
 つまり、高倉のあれは邪気を通り越して悪鬼であり、省吾が食われた後、大河が襲われたのはあの場に他の誰もいなかったから。
 横目で省吾を窺うと、顔を真っ青に染めてテーブルの一点を見つめたまま微動だにしない。一旦は自ら食われ、中の様子を目にしているのだ。大河より確実に影正の言葉をリアルに想像できるだろう。
 省吾、と小声で肩にそっと触れると、省吾はびくりと体を震わせた。ここまで動揺を見せるのは、本当に珍しい。一時的とはいえ、黒い煙の中は相当恐ろしかったのだろう。
「あ……ごめん」
「や……いや、ちょっとびっくりしただけ。平気」
 そう言って頬を引き攣らせて笑う省吾の額には、汗が滲み出ている。省吾は手の甲で汗を拭うと、気を取り直すように麦茶に口を付けた。
「あの……」
 コップをテーブルに置きながら影正へ視線を向ける。
「あれが俺を飲み込もうとした理由って、要するに……」
 省吾に消えて欲しかった。
 視線を逸らした影正の態度から、その推測が正しいことは分かった。
 黒い煙を生み出させるほど人を嫉妬させられるのはいっそ才能じゃないか――そんなことを思ってしまった自分が恥ずかしくて、大河は俯いた。
 嫉妬は、決して悪い作用ばかりではない。原動力にして大業を成す者もいる。だが、逆の作用ももたらす。度を越した嫉妬は恨みや妬みに変わり、終いには嫌がらせを通り越して犯罪まがいのことや殺人まで犯す者もいる。
 正か負か、どちらの道を選ぶかは人それぞれだが、表裏一体であることに変わりはない。
 高倉は悪い人間ではない。少々調子に乗り過ぎるきらいはあるが、クラスのムードメーカーでいつも皆を楽しませてくれる。そんな彼が邪気を生み出した時点で気付くべきだった。高倉がどれほど思い詰めているのかを。
 そうすれば、省吾にあんな選択をさせずにすんだし、こんな思いをさせずにすんだ。クラスメートから、消えて欲しいと思われるほど恨まれていたなんて、どんなにショックか。
 見える自分だけが、気付けたことなのに。
 情けなくてきつく唇を噛み締めた。
「ったく、俺がいなくなったからって久本さんに好かれるわけじゃないだろ。馬鹿か、あいつは」
 思いがけない少々強めの口調で言い放たれた毒舌に、大河は目を丸くして省吾を見た。
「正論だな。結局は誰のせいでもない、自分に何かが足りないせいだ。そもそも、好みの問題もある」
 宗史の苦笑いを含んだ同意が続いた。
「恋は盲目ってか」
「自制ができないだけだろう」
「……お前、何でそんな頭固いの? ほんとに二十歳(はたち)?」
 うるさい、と宗史が再度一蹴すると、省吾が振り向いた。
「大河、どうした? アホ面になってるぞ」
 アホとは何だ、と突っ込む気も失せた。ショックを受けていると思っていたのに、あっけらかんと毒舌を吐く省吾の精神力の強さに呆れたのだ。心配した上に自己嫌悪までしたのに。
 大河は長く溜め息をついた。
「お前の図太さに呆れたの」
「失礼だな。こんなに繊細な心の持ち主に向かって」
「誰が繊細だよ。普通、ショック受けるだろ。お前立ち直り早過ぎ」
 あー、と省吾が語尾を伸ばしながら逡巡した。
「そりゃ、あの中で一生彷徨うって聞いた時はさすがにぞっとしたけど。でも、とりあえず助かったし。高倉に関しては、まぁ、こっちの出方次第でもあるわけだし」
「出方?」
「久本さんに、俺にはすでに彼女がいて可能性無しって思わせればいい。それで引き下がってくれれば万々歳」
「引き下がらなかったら?」
「そうだな……一般的に女子高生が引く条件って言ったら、熟女好き、女に興味無し、マザコン、ロリコン、オタク辺りか。その辺で適当にカミングアウトする」
「……お前が受けるダメージ半端ないな……」
「命には代えられないだろ」
「うん、まぁ……」
 一理あるとは思うが、幼馴染みのそんな噂聞きたくない。大河は複雑な表情を浮かべて曖昧に頷いた。
 本当にそんなカミングアウトをすれば、翌日どころか当日には学年はおろか学校中に広まりそうだ。女のネットワークは男の想像を遥かに超える。そのくらい省吾なら分かっているだろうに、自爆対策を自ら思いつくとは図太いにも程がある。
 こいつには生まれ変わっても敵わない気がする。
 妙な敗北感を味わっていると、省吾がさっさと次の質問を投げた。
「あの、そもそも俺らって、どうやって助かったんですか?」
「あ、俺もそれ気になってた」
 もっともな疑問に追随する。
「ああ、そうだな。それを説明しないとな」
 そう言って、影正はテーブルの上に煤けたお守りを乗せた。大河がいつも持ち歩いていたお守りだ。
「え、何これ。何でこんなことになってんの?」
「うわ、悲惨」
 大河が身を乗り出してお守りを手に取る。黒く煤けたお守りの口を開き、中から厚紙と細長い和紙を取り出した。
「中にこんなの入ってたんだ。てか、何これ」
「厚紙は、補強のためか。こっちは?」
 大河が今にも細切れになりそうなほど弱った和紙を慎重に開いた。
「これ護符ってやつだよな……何かの絵か?」
「五芒星ってやつじゃないか? あと……何かの呪文?」
「陰陽師の漫画とかでよく見る……うん? 何で?」
 何故その陰陽師が使う五芒星がお守りの中の紙に書かれているのか、と言いたいのだろう。
「それは、影正さんが作った護符だよ」
「え?」
「あ、そうなんだ」
 宗史の答えに、大河と省吾の声が重なった。
 確かにお守りは影正から渡されたものだが、どこかで買ってきた物だとばかり思っていた。お守りを持ち始めてから黒い煙を見ることは極端に減ったから、お守りって効果あるんだなと、よほど由緒ある神社の物なのだろうと。だが、今となってはそうだったのかと納得できてしまう。
「護符は持ち歩くだけで効果があるけど、真言を唱えることで術を発動させ、初めて本来の効力を発揮できるんだ。けれど、話を聞く限り大河くんは術が使えない。だが、おそらく省吾くんが悪鬼に食われたショックで、無意識に術を発動させたんだろう。それで二人が助かったと思われる」
 へぇ、と感心した様子で大河はまじまじとお守りを眺め、そっか、と小さく呟いた。
「うちが陰陽師の家系で、じいちゃんが陰陽師で、だから孫の俺も無意識に術を発動させたって、ことだよな?」
「そうだ」
 影正は当然のように頷く。
 正直なところ、術を発動させたなどと言われても記憶も実感もない。けれど、乾いた土に水が染み込むようにじわじわと現実感を覚え始めている。
「じいちゃん、続けて」
 真っ直ぐに見据えた大河を見て、影正は微かに頬を緩めた。
「では、本題だ。おそらく、これが宗史くんと晴くんがここへ送られた理由だ」
 影正は、一冊の本をテーブルの上に置いた。ずいぶん古い和綴じ本だ。全体的に色褪せが酷く、ところどころ破れている。ちょうど文芸書くらいの大きさと厚さだ。表題はない。
「これは、刀倉家の祖、刀倉影介(とくらかげすけ)が残した書だ。今で言う、日記だな」
「日記?」
 大河が問い返す。
「ああ。刀倉影介は、またの名を宇奈月影綱(うなづきかげつな)と言う。安倍晴明から賜った、陰陽師としての名だ。これには、刀倉家が何故この地に根を下ろしたのか、何故宗史くんと晴くんがここへ送られてきたのか、その理由が書かれている。とは言え、全部話していたら朝になる。重要な部分だけを話すぞ」
 影正は麦茶で喉を潤し、神妙な口調で語り出した。
「平安時代、この島で生まれ育った影介は、幼少の頃より霊力が人並み外れていたらしい。大河、お前と同じように、悪鬼や成仏できずに彷徨う魂を頻繁に目にしていた。時折、彷徨う魂を成仏させることもあったらしい。そして影介が十三の年、噂を聞いた安倍晴明が使いを寄越し、影介を京の都へと招聘(しょうへい)した――」
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