第10話

文字数 3,480文字

 リビングダイニングを出て、春平はゆっくりとした足取りで階段を上った。
 鬼の主食は、人と精気。それさえ分かっていれば、宗一郎のあの指示の意味は考えるまでもない。
 千年以上封印され、空腹により正気を失った鬼の正気を取り戻すためには、腹を満たすしか方法はない。それは柴も紫苑も同じだ。正気を失うほどの空腹を、野生動物で満たされるとは思えない。
 つまりあの二人は、人を食っている。
 紫苑の封印が解かれたとされる滋賀県の事件では、人の遺体が発見されたという報道はされていない。現場には隗か皓、あるいは陰陽師も一緒だったかもしれない。彼らはその場で紫苑を捕らえ、幽閉し、人を食わせた。まるで、飢餓状態のライオンの檻に肉を放り込むように。また柴も似たような状況だっただろう。紫苑は敵側の人間は見ていないと言った。おそらく、幽閉場所に戻った時にはすでに「食事」となる人間が用意されていて、柴はその人間を食った。
 「食事」にされた人たちがどこの誰なのか、何故その人だったのか、謎は残る。ただ、柴と紫苑が人を食らったということだけは、間違いないのだ。
 階段の中ほどまで上ったところで、足音が追い掛けてきた。この荒っぽい音は弘貴だ。
「春」
 振り向くと、弘貴とその背後に見える階段下に昴がいた。彼もか。二人並んで階段を上る。
「弘貴、いいの? 出てきて」
「すぐ戻る。俺、聞きたいから」
 迷いのない答え。春平は、そう、と小さく呟いた。聞かなきゃいけないとか、聞くべきとかではなく、聞きたい。
「弘貴は、強いね」
 そんなつもりはなかったけれど、卑屈な声だった。怒るかなと思ったが、弘貴は何故か迷った風に喉の奥で唸った。
「どうかな。俺、自分で思ってるより大して強くなかったかも」
「え?」
 意外な答えに、春平は目を丸くして弘貴を見上げた。浮かべた苦笑いは少し自嘲気味で、しかしどこか吹っ切れたような、そんな風に見えた。
 弘貴はいつものようににかっと笑い、春平の部屋の前で足を止めた。それよりさ、と弘貴が言いかけた時、階段の方から昴の姿が見えて、直後にぱたぱたと軽い足音が階段を駆け上ってきた。昴が後ろを振り向いた。
「香苗ちゃん……って、え……っ?」
 ぎょっとして体ごと振り向いた昴に、春平と弘貴が顔を見合わせる。とたん、昴の横を、茶封筒を抱えた香苗がすり抜けた。
「ちょっと待って!」
 咄嗟に腕を掴まれ、香苗は俯いたまま足を止めた。春平と弘貴は小走りに寄り、香苗を取り囲む。昴が腕を離し、腰を曲げて香苗の顔を覗き込んだ。
「香苗ちゃん、どうしたの? なんで泣いてるの?」
「えっ、お前泣いてんの? なんで?」
 弘貴も香苗の顔を覗き込む。茶封筒を強く抱きしめて俯いた香苗から、鼻をすする音が聞こえた。三人が困惑した顔を見合わせると、今度は小さな足音が駆け寄ってきて、すぐに夏也が姿を見せた。
 心配顔で藍と蓮が香苗の足にしがみつき、夏也は逡巡するように何度か瞬きをして弘貴を見やった。
「弘貴くんは、どうしますか?」
「え、あ、俺は戻ります」
「分かりました。では、先に聞かなければいけませんね」
 そう言って、夏也は香苗の頭を撫でながら率直に尋ねた。
「春くん、昴くん、香苗ちゃんは、どうしてお話を聞かないのでしょう」
 人の気持ちを察することができない人ではない。いつもは優しいし、樹や華、茂らがいて施設にいた頃よりは目にする回数が減ったが、叱るときはきちんと叱り、言うべきことは言う、聞くべきことは率直に聞く人だ。そんな彼女がこうして聞くということは、何か意味がある。
 それでも自分の弱さを曝け出すのは、やはり恥ずかしい。昴も俯いていて、香苗はそれどころではない。春平は俯いたまま、ぼそりと言った。
「怖いから、です」
「何が怖いのですか?」
 意味があると分かっていても、この率直さは少し厳しい。春平は強く拳を握り締めた。
「話の内容、そのものです。それと……話を聞いて、二人をまた怖いと思ってしまうかもしれないことが、です」
 柴と紫苑は、まだ少しぎこちないかもしれないけれど、もうほとんど怖いとは思わない。ただ、人を食ったという話を、鬼である彼らから聞くのはあまりにも生々しすぎて、怖いのだ。そんな話を聞いてまた二人を怖いと思ってしまうのは、自分の弱さを再確認することになる。
 話の内容以上に、今はそれが怖い。
「それは、柴と紫苑が怖いというわけではないのですね?」
 小さく頷くと、夏也はそうですかと呟き、弘貴が微かに微笑んだ。
「昴くんと香苗ちゃんも、同じでしょうか」
 二人は揃って、はい、と力ない返事をする。
「つまり」
 夏也は春平、昴、香苗を順に見渡した。
「柴と紫苑のことが好きで、怖いと思いたくないから聞かない、ということですね?」
 ぶふっと噴き出したのは弘貴だ。思いもよらなかった見解の上に飛躍しすぎなことを言った夏也を、春平ら三人は呆気に取られた顔で見据えた。二人を受け入れているからこそ、怖いと思いたくない。確かにそう解釈できないこともないが、そうではなく自分自身の弱さの問題なのに。
「や、あの、そういうことじゃ……」
 困惑した顔で春平がぼやくと、夏也が首を傾げた。
「嫌いなんですか?」
「え、いや、嫌いってわけじゃ……」
 なんだが論点がずれている気がするが、好きか嫌いかと聞かれると、果たしてどちらなのだろう。
「え、と……」
 互いの気持ちを探るようにそろそろと顔を見合わせる三人に、弘貴が痺れを切らした。
「よし分かった。じゃあ俺戻るから、そのまま伝えるぞ。香苗が泣いてたし、絶対聞かれるから」
「えっ」
「ちょっ、ちょっと待って弘貴! 分かったって何が!?」
 ひらりと手を振って踵を返した弘貴に昴と香苗が声を揃えて驚き、咄嗟に春平がTシャツをひっつかんだ。
「何だよ、早く戻らねぇと始まるだろ」
「いやだって、す、好きとか言うの!? やめてよ、そうじゃなくて!」
「何だよ。だって嫌いじゃねぇなら好きなんだろ?」
「弘貴も夏也姉も極論過ぎない!?」
 昴と香苗が、首が取れそうなくらい大きく頷く。もう論点がどうとかいう以前に、それは恥ずかしい。大河はともかく、普通恥ずかしいと思うだろう。
「別に極論だろうが曲解だろうが何でもいいだろ、間違ってなきゃ」
「いやだから……っ」
 食い下がる春平に、弘貴が面倒臭そうに顔を歪めた。
「もー、んじゃどうすんだよ、早く決めろ。聞かれて困るの俺だぞ」
 ほらほら、と急かす弘貴に春平は必死に頭を回転させる。そう急かされると考えがまとまらない。
 三人揃って唸っていると、昴が思い付いて言った。
「あ、じゃあ、まだ聞く勇気が出なくてごめんっていうのは?」
「それです」
 間髪置かずに春平が食い付き、香苗が鼻をすすりながら何度も頷いた。
 今はまだ、話を聞いても大丈夫だと言える勇気も自信もない。けれどそのうち、何があっても怖くないと思える日が来るかもしれない。もう少しだけ強くなれるまで、待って欲しい。
 三人から懇願に似た視線を向けられ、弘貴は盛大に溜め息をついた。
「了解。俺的には、香苗もいるし好きって言われた方が二人も嬉しいと思うんだけどなぁ。男だしさぁ」
 ぶつぶつ言いながら背を向けた弘貴に、香苗が息を詰めて一気に顔を紅潮させた。もうすっかり涙が引っ込んでいる。よほど二人の見解に驚いたか。
 早足で立ち去る弘貴の背中を見送りながら、春平は少々不安気に長く息を吐いた。結局、話が噛み合わないままだったような気がするが、大丈夫だろうか。
「それで、香苗ちゃんが泣いていたのは何故ですか? 泣くほどお話が怖かったのでしょうか」
「えっ、あ、そ、それもありますけど違いますっ」
 香苗は勢いよく首を横に振り、心配そうに足にしがみついて見上げる藍と蓮に目を落とした。
「……申し訳なくて……」
 一度鼻をすすり、蚊の鳴くような声でそう言うと、香苗は口を閉じてしまった。申し訳ない。怖いと思うことが申し訳ないという意味だろうか。
 夏也はじっと香苗を見つめ、足に絡みつく藍と蓮の頭を撫でた。
「皆さん、ここではなんですので、部屋で擬人式神を作りながらお話しましょう。ハサミと鉛筆を持って来てください。藍ちゃん、蓮くん、お手伝いしてくれますか?」
「えっ、話って……」
 笑顔で頷いた双子を連れて子供部屋へと向かう夏也の背中を見つめ、春平たちは戸惑った面持ちで顔を見合わせた。
 いい機会かもしれない。香苗に昨日のことも聞きたいし、申し訳ないの意味も知りたい。
「取ってきます」
 春平がそう言うと、二人は少し躊躇った様子で頷いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み