第5話

文字数 4,754文字

『何の役にも立たない子供なんて、産むんじゃなかった』
 ずっと、母のあのセリフが脳裏に焼き付いて離れなかった。学校にいる間も、友達と他愛のない話しをしている時も、掃除や洗濯をしている時も。夢の中でさえ、あの鬼の形相をした母が泣きながら繰り返し繰り返し突き付けてくる。産むんじゃなかった、お前なんか産むんじゃなかったと。
 それでも、子供心に分かっていた。自分はまだ何の力もなく、母がいなければ生きてはいけないのだと。だから考えた。どうすれば、あの家に居させてもらえるのか。何をすれば、生かしておいてもらえるのか。
『ほんとはさっさと働いて欲しいのよ』
 答えを求めるように――いや、許しを請うていたのかもしれない。以前にも増して、お山巡りの回数が増えた。
『いいかい? 美琴。しっかり顔を上げて、前を向いて生きなさい。何があっても、自分を裏切るようなことだけは、絶対にしてはいけないよ。大丈夫。神様は、いつも見守って下さっているから』
 何度目のお山巡りだっただろう。不意に、祖母のそんな言葉を思い出した。
 自分を酷く裏切る行為は、実行すれば二度と前を向いて生きてはいけないだろう。それでも、それ以外の選択肢は思い付かなかった。本意であれ不本意であれ、それを仕事にして生きている人はたくさんいる。自分だけじゃない、これしか方法がない。そう、思った。
 もう一つ、あの日からおかしなものを見るようになった。黒い影、靄と言えばいいのだろうか。人の肩にのしかかるような影もあれば、全身にまとわりついているものもある。常にというわけではないが、特に母の機嫌の悪い日は、よりはっきり見えた。禍々しくて、全身に寒気が走る黒い影。あれが何なのか分からないけれど、母の機嫌のバロメーター変わりになることだけは分かった。
 そして夏休みが終わろうとする頃。瑠香にもらった服の中からできるだけ大人っぽいものを選び、節約するため三十分以上歩いて、自分の夕飯代を使って地下鉄で三宮に出た。それが、午後七時。
 三宮(または三ノ宮)は、市内最大のターミナル駅があり、大手百貨店や商業施設が立ち並ぶ中心都市だ。地元民は北側を山側、南側を海側と称し、駅を中心に、山側には北野異人館街や生田神社、新神戸駅近くに神戸布引ハーブ園、日本の滝百選にも選ばれた布引の滝。海側には旧居留地や南京町、メリケンパーク、神戸ハーバーランド、神戸ポートタワー。さらにセンター街や地下街などもあり、夏休みでなくても人出が多い。
 到着したのは、八時半近かった。これまで三宮に用事がなかったため、不案内だ。時刻表で確認した地下鉄の最終は十二時半頃。帰れなくなると困るので、まずは一番近い地下鉄の入り口を探し、そこから改札までの道順を確認した。
 立ち並んだ見上げるほどの高い建物、ひっきりなしに行き交う車や人、光る電光看板。うるさいくらいの喧騒と人の波に、少しだけ腰が引けた。けれど、仕事帰りの会社員、バックパックを背負った旅行者、大学生の集団、カップル、家族連れ。こんなにも人がいるのに心細く思うのは、誰も自分のことを気にしないからだろうか。
「そんなの、当たり前でしょ……」
 街ですれ違っただけの赤の他人を、一体誰が気にするというのか。
 美琴は口の中で呟いて、ぎゅっと唇を噛んだ。
 お金ばっかりかかって、何の役にも立たない子供。母はそう言った。ならば母が望むよう、お金さえ稼げれば生かしておいてもらえる。暴力を振るわないでもらえる。これは自分が生きるための代償。虐待されて殺されるより、よっぽどマシだ。どこの誰かも知らない男と行為をすること自体のリスクは分かっている。もう何年も前から、少女がネットで知り合った男に誘拐、監禁、暴行、果てには殺害されたというニュースは取り沙汰されているのだ。そもそも、買春する男がまともなわけない。でもここでやめたら、自分に未来はない。
 そう自分に言い聞かせはするものの、怖いものは怖い。だから、少しでも優しそうな人をと思った。
 けれど、現実はそう上手くはいかなかった。阪急三宮駅西口。待ち合わせスポットになっている階段下のスペース。通り沿いのカフェや薬局は閉店し、看板を灯しているのは居酒屋やカラオケ店。あとは路地に並んだ店だ。ちょっとだけ足を踏み入れたが、すぐに「大人の店」が多いと分かり慌てて引き返した。
 ネットで相手を探すか、ナンパスポットに行った方が早いのは何となく分かっていたけれど、携帯を持っていない。今までこんなこととは無縁だったのでろくに知識もない。自分から声をかけた方がいいのか、それとも待っている方がいいのか分からず、柱の影でぼんやりと突っ立って行き交う人の波を眺めていた。
「ねぇ貴方、こんな時間に何してるの?」
 誰もが素通りしていく中、声をかけてきたのは初老の男女。夫婦だろうか。一人だと知られたら交番に連れて行かれる。だからといって逃げると余計に怪しまれてしまう。
「中学……高校生かしら。親御さんは?」
 男性がきょろきょろと辺りを見渡した。
「お手洗いに行ってるお母さんを待ってるんです」
 さらりと返ってきた答えに、二人の顔がほっと緩んだ。
「そう。それならすぐに戻ってくるわね。まだ人も多いし、大丈夫よね」
「そうだね。でも気を付けるんだよ」
「はい。ありがとうございます」
 浅く会釈をすると、夫婦はひらりと手を振って改札への階段を上って行った。何とかごまかせた安心感もあったけれど、気にしてくれる人もいるのかと、ちょっとだけ嬉しくもあった。
「……高校生に見えるんだ」
 かろうじて、というおまけが付くようだが。小学校の時も、同学年の中では身長が高い方で、顔立ちも中学生に間違われることがよくあった。中学に入ってさらに身長が伸び、春の健康診断では百五十七センチだった。高校二年生の女子の平均身長らしく、瑠香にもらった服と相まって少しは大人っぽく見えるのだろう。本当は、せっかくもらった服をこんなことで使いたくはなかったけれど。
 そのあとは、何人かに声をかけられはしたが全員が酔っ払いで、しかも連れの人たちが平謝りで引きずって連れて帰るという有様だった。年齢を指摘されたが、夫婦の時と同じようにさらりと受け流した。
 十二時過ぎ。そろそろ帰らなければと思った直後、三人組の男から声をかけられた。二十代前半くらいで私服、全員ほろ酔い状態だ。
「お姉さん、お姉さん。こんな時間に何してんのー?」
「ナンパ待ちー?」
「お、可愛い。けどちょっと若すぎじゃね? もしかして高校生だったり?」
 覗き込んでくるへらへらとした顔は紅潮し、かなり酒臭い。
「えー、何。まさか家出?」
「分かるー。この年って、親ウゼェとか思うんだよなー」
「ここにいたら補導されるぞ。うち来る? お兄さんたちが話し聞いてやるよ」
 家出だと決めつけて盛り上がる男たちに、恐怖を覚えた。今まで声をかけてきた男たちには、シラフの連れがいた。けれど今回はほろ酔いとはいえ全員酔っ払い。しかも三人。
 心臓が鼓動を速め、額に汗が滲む。顔が強張っているのが自分でも分かる。これは逃げないと絶対にまずい。
 大丈夫変なことしないから、俺たちこれでも紳士だからさぁ、とこれっぽっちも信憑性のない口説き文句を並べる男たちを見上げながら、じりじりと横へ移動する。だが。
「マジでマジで、変なことしないから。ね、信じて。約束する」
 一人の男が、美琴の動きに合わせて進路を塞いだ。酔っ払っているのに、こういうことには気付くのか。
「なんだったらまだ開いてるバーあるから、そこでもいいし」
「あー、あそこな。それなら安心だろ。な」
 男たちの隙間から周囲に視線を走らせる。人はそこそこ多いのに皆すでに改札へ向かっていて、こちらを気に留める様子がない。気付いている数人も傍観だ。それはそうだ。全員が全員、あの夫婦やシラフの連れの人たちのように気遣ってくれるわけじゃない。ならば、自分でどうにかしないといけない。自分で招いた結果なのだから。でも。
「な、いいだろ」
 一人の男がすっと腕を伸ばし、美琴は逃れようと体を引いた。柱に背中が当たる。足が小刻みに震えて、動けない。このままでは無理矢理連れて行かれる。
 そう思ってぎゅっと目をつぶった時。
「何してるの」
 突然、女性の声が割って入ってきた。男たちが反射的に振り向き、美琴もそろそろと目を開けて視線を上げる。
「彼女、困ってるでしょ」
 そこには、スーツ姿で眼鏡をかけた女性と、同じくスーツ姿の男性が険しい顔で立っていた。二人とも中年だ。
「あ? 何だよ、邪魔すん」
「警察だ」
 言葉を遮って男性が掲げた警察手帳に、男たちがぎょっと目を剥いて後ずさった。凄んだ男が苦々しく舌打ちをかます。
「何だよ、白けさせんじゃねぇよ」
「公僕が」
「俺らの税金で飯食ってるくせに偉そうにすんな、ばーか」
 男たちは順に悪態をついて踵を返し、そそくさと足早に立ち去った。男たちを、男性警察官が監視するようにじっと見つめる。
 警察――。
 助かった。けれど。
「大丈夫?」
 ついさっきまで険しかった表情が、柔らかくなっている。女性警察官に問われ、美琴は視線を泳がせて俯いた。観念したように小さく頷く。
「貴方、未成年よね。高校生?」
 ここでごまかしても、どうせ無駄だ。今度は小さく首を横に振る。
「中学生?」
 こくりと頷いたとたん、呆れたような溜め息が降ってきた。
「こんな時間に一人で帰すわけにいかないから。一緒に来てくれる?」
 三度(みたび)頷くと、背中に優しく手を添えられた。
 女性警察官は、少年課の沢渡と名乗った。生田神社のすぐ隣、生田警察署に連行され、何故こんな時間にあの場所にいたのか理由を聞かれた。まさかお金を稼ぎにとは言えない。来年は受験で遊べないからと答えると、沢渡は危険性を淡々と語った。
 携帯を持っていないため、母の携帯番号は暗記している。男性警察官から連絡が入れられ、しばらくしてから母がすっ飛んできた。青ざめた顔ですみませんご迷惑をおかけしましたと繰り返し、深々と頭を下げる。そんな母の姿に、特に驚きはしなかった。理由は簡単。警察官の前で子供に手を上げるわけにいかないからだ。さらに言うなら、これまでのことを美琴が話すかもしれない、素直に謝ってさっさと解放された方がいいとでも思ったのだろう。
 母の必死な姿は、逆に頭を冷静にさせた。
 思惑通り、手続きを済ませるとすぐに解放された。生田警察署を出て、徒歩五分ほどの場所にあるタクシー乗り場へ向かう。無言で足早に歩く母の背中を必死で追いかけた。タクシー乗り場に着くと、母は何も言わずに美琴に金を渡して車内に押し込み、運転手に自宅の住所を告げ、すぐにその場から立ち去った。その間、一度も美琴を見ようともせず、言葉を交わそうともしなかった。
 家に着いたのは、夜中の一時をとうに回っていた。玄関の扉を閉めたとたん、どっと疲労感に襲われた。
 初めての夜の街、大人の男の迫力と威圧感、補導への不安。たった一晩で自分の身に起こったこととは思えない。美琴は扉に背を預け、ゆっくりと息を吐き出しながらずるずるとしゃがみ込んだ。
 馬鹿なことをしたと思う。もしあのまま男たちに無理矢理連れて行かれていたらと考えると、ぞっとする。
「でも……じゃあ、どうすればいいの……」
 高校生ならバイトができるのに、義務教育中の中学生が金を稼ぐ方法は、役者やモデル以外はほぼない。自分を売る以外方法がない。でも、母に知られてしまった。
 不意にあの背中が脳裏に蘇り、身が竦んだ。申し訳ない気持ちはある。けれどそれ以上に、より黒いあの影や、怒りに満ちた後姿が、ただただ怖い。
 ――また、殴られる。
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