第19話

文字数 2,787文字

 生徒のことを考えると、学期の途中で辞めることに抵抗がなかったわけではない。どんな理由を付けても言い訳にしかならないことも分かっていた。なじられることを覚悟で、最後の教壇に立った。だが、憔悴していく様を見ていたからか、生徒たちは何も言わなかった。けれど、表情は様々だった。
 それからは精力的に動いた。自宅の売却や片付け、方々への連絡。片付けは思い出が多すぎてなかなか進まず、様子を見に来た弘貴と春平が手伝ってくれた。義両親には知り合いの仕事を手伝うことになったと、近所の人たちには宇治にいる知り合いに世話になると説明した。どうしても処分できない恵美と真由の荷物は、義両親が預かってくれている。また二人の遺骨は、佐伯家の親族や義両親と相談して、和束町にある恵美の実家、奥野家の墓へ納骨した。
 そんな中、井上から聞いたのだろう、藤木麻里亜から一通の手紙が届いた。レース柄の便箋には一言「ごめんなさい」と書かれていた。その一言にどんな意味が込められているのか、確かめようとは思わなかった。代わりに、パソコンで葉書の裏にガーベラの写真を印刷して、余白に一言添えた。「がんばれ」と。ガーベラは恵美の好きな花で、庭で毎年育てていた。花言葉は、「常に前進」「希望」。
 寮に持ち込んだ荷物は、着替えやパソコン、文房具、愛読書、もちろん両親や恵美と真由の位牌もある。それと、約三十年分の教え子たちの卒業アルバムや連絡網。そうそう捲るわけではないけれど、教師として生きてきた証を捨てられなかった。もし弘貴と春平がいなければ、迷うことなく処分していただろう。
 大河の一言は、的確だ。
「本当に、良かったのかな……」
 大河の部屋を出て廊下を歩きながら、茂は一人ごちた。
 昨日、それを感じ取ったのは首塚へ続く脇道に入った直後だった。ハンドルを取られそうなくらい、強烈な邪気。けれどよく知った気配に、華共々、動揺を隠せなかった。遅かったかと後悔した。いくら弘貴たちのことを話さなければいけなくなるからと言っても、もっと早く話すべきだったと。
 寮への帰り道、香苗に尋ねると彼女は酷く申し訳なさそうな顔をした。自分のせいで大河を苦しめるのではないか、と。華は顔を曇らせて言った。
『いつか必ず、こうなる日が来たのよ。それが今日だったってだけのことなの。香苗ちゃんが気にすることないわ。大河くんは大丈夫、いつも通りにしてあげて』
 と。華の言うことは正しい。いつか来るその「いつか」が、昨日だった。ただそれだけのこと。
 けれど、大河のあの様子を見る限り、想像以上に思い悩んでいたのは間違いない。下手をすれば、霊力が使えなくなっていたかもしれない。柴と紫苑、式神、そして当主二人。彼らだけでも戦力的に有利だと思えるが、何せ千代をはじめ、紫苑が破れないほどの結界を張る術者と、鈴が敵わないほどの式神が向こうにはいる。大河の目覚ましい成長速度、そして霊力量は、必ず重要な戦力になる。
 そうだと分かっておきながら、使えなくなっていた方が良かった、と思う自分もいる。霊力が使えなければ術を行使できず、確実に事件から外されて島へ戻される。そうなれば、隗と対峙しなくてすむ。
 家族を殺されたという部分においては同じだが、一番の違いは加害者だ。透は反省し罪を受け入れたが、隗はおそらく反省のはの字もないだろう。もし再び隗と対峙し言葉を交わしたとしたら――いや、おそらく必ず知る時が来る。あるいはその前に自ら気付くかもしれない。なんにせよ、術を使えなくなれば大河は必要以上に傷付かなくてすむ。
 どちらが正解なのか、これで良かったのか、分からない。
 ただ、影正は最終的な判断を大河に委ねたのだ。彼をよく知る影正が、こちらの道を選んだとしても大河なら乗り越えられると信じた。
 子供を信じるのも大人の役目だ。例えこれが、自分を納得させるための言い訳だったとしても。
 しかし、だからこそ、守らなければと強く思う。大河だけではない。ここにいる全員。宗史たちの実力には程遠いけれど、もっと強くならなければ。
「……もう、失うのはごめんだ」
 低くぽつりと呟いて、茂は弘貴を隔離している離れへと足を向けた。

    *・・・*・・・*

 昨夜、紺野の話を聞きながらふと気になったことがある。
 朱音が死亡したのは六年前。ちょうど右京署に勤務していた頃だ。熊田と佐々木は知らなかったのだろうか。
 朝の捜査会議の前に、北原は熊田と佐々木を捕まえて恐る恐る尋ねた。
「朱音さんのこと、お二人は知らなかったんですか?」
 すると二人は顔を曇らせた。
「いや、知ってた。ただ彼女が亡くなってからでな、体の具合が悪くて入院してたって聞いたんだ。まさか、精神的なもんだったとはな……」
 そうですか、と北原が呟くと、佐々木が尋ねた。
「北原くんは? 甥っ子がいなくなったのって、二年前よね」
 北原は視線を逸らして、小さく首を横に振った。
「昨日思い出してみたんですけど、それらしい記憶がないんです。紺野さんからも何も聞いた覚えがなくて……」
 会合で昴のことを知った時も、かなり驚いた。けれど、あれから何度思い返してみても、これっぽっちもそんな話を聞いた覚えもなければ、紺野の態度に違和感を覚えた記憶もない。
「そう……、紺野くんらしいわね……」
「二年前っつったら、お前は本部に配属されて一年目だし、まだ自分のことで手いっぱいだったろ。余計な心配かけたくなかったんだろうな」
 熊田のフォローに北原は曖昧な笑みを返す。そうだとしても、自分の不甲斐無さに情けなくなる。あれから二年もの間、紺野は仕事の合間に昴を探していたのだ。話してくれれば手伝ったのに。
 自分の不甲斐無さを擁護する考えに、北原はますます情けなくなり、盛大な溜め息をついた。
 捜査会議が終わり、捜査員があらかた出払う中、北原は資料整理に取りかかった。
 昨日、捜査会議が長引いたせいで近藤とは入れ違いになってしまった。携帯に下平からグループメッセージの招待が届いていたため、この状況だし同時通話を使うのだろうとすぐに察した。いつ連絡が来るか分からないので、結局そのまま帰宅したのだ。
 今日こそは、と思うけれど、未だ近藤に何をどう聞き出そうか迷っている。ひとまず、昴のことを話題に出して反応を見るか。とはいえ、近藤のあの髪の長さでは表情が見えない。雰囲気で判断することになる。それと監視だ。誰にも会うなと言われているわけではないが、このタイミングで科捜研の研究員と二人きりで会うのは、果たしてどう受け取られるだろう。
 もういっそ監視を振り切るか。いやそれは疑心を生ませるだけだ。この状況で自分も捜査から外されるわけにはいかない。
 資料を捲りながら、むう、と唸り声を上げて苦悶の表情を浮かべる北原を、加賀谷と部下の二人が一瞥した。
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