第7話

文字数 2,832文字

「じゃあ、お邪魔しました」
 午後二時、大河は賀茂家の玄関でそう言って頭を下げた。
「またいつでも来てね」
「今度は泊まりにいらっしゃい」
 見送りに玄関まで出てきた律子と夏美にそう誘われ、大河ははいと頷いた。結局桜に会えずじまいで忸怩(じくじ)たる思いを抱え、キャリーバッグを引いて玄関を出ようとしたその時、
「大河さん」
 か細い声で名を呼ばれ振り向いた。廊下の先から、浴衣姿の少女がゆっくりとこちらに近づいてくる。漆黒の長い髪、大きな瞳に長い睫毛、赤い唇が真っ白を通り越して青白い肌によく映えている。まるで実写版日本人形のように可憐な容姿に、大河はぽかんと口を開けたまま釘づけになった。
「桜っ」
 少女の名を呼んだ宗史の声に我に返る。あれが噂の桜ちゃんか! 春平(しゅんぺい)が絶賛するはずだ。
 宗史が桜の元へ駆け寄り引き止めた。
「無理に出てこなくていい。部屋に戻れ」
「平気よ。熱はもう下がったの。それに、皆が楽しそうにしてる声を聞いて羨ましくて」
「悪い、うるさかったか」
「そういう意味じゃないの。少し寂しかっただけ。だから、ご挨拶だけさせて?」
 ね? と上目遣いで見上げられ、宗史はしぶしぶ頷いた。
 そりゃ妹とはいえこれだけの美少女にねだられたら断れないよな! と大河は近付いてくる桜を緊張しながら迎えた。明や宗一郎に感じる緊張とはまったくの別物だ。
「大河さん、初めまして。賀茂桜です。ご挨拶が遅れてすみません」
 桜はゆったりとした動作で頭を下げた。さらりと流れる髪が実に美しい。
「あ、はい、わざわざありがとうございます。刀倉大河です、こちらこそご挨拶が遅れてすみません。宗史さんたちにはお世話になってます。どうぞお見知りおきをっ」
 棒読みの上に緊張しすぎて自分が何を言っているのかさっぱりだ。とにかく頭に浮かんだフレーズを口に出して勢いよく頭を下げた。くすくすと小さく笑い声がして、大河は視線を上げた。
 笑い声も実に可愛らしい。両手で口元を覆い、笑みを浮かべているこの様を可憐と言わずしてなんと言う。大口を開けて笑うクラスの女子たちとは比べ物にならない。
「父から楽しい方だと聞いていましたが、納得しました」
 それは一体どういう意味だと宗一郎をちらりと見やったが、ふいと視線を逸らされた。大人気ない。それにしても、と桜に視線を戻し、大河はとろけそうなほど頬を緩ませた。だが、
「うっ」
 大河を一瞬で凍りつかせたのは、桜の背後に立つ宗史の視線だ。護衛というよりはむしろ暗殺者のような眼差しで大河を見据えている。宗史が溺愛しているという春平の情報は誇張ではなかったようで、今にも目からビームを照射されて焼き殺されそうだ。
「どうされました?」
「えっ? いや何でもないです」
 大河はへらっと笑ってごまかした。
「じゃあ、そろそろ行きます」
「はい。またいらしてくださいね」
「もちろん。ありが、とうございます……」
 思わずもちろんと答えてしまったことを後悔した。ぎらりと光った宗史の視線から逃れるように、大河はそそくさと玄関出て扉を閉めた。
 外で待っていた晴と明が声もなく笑い、陽が怯えている。
「何あれ何あれっ。めっちゃ怖いんだけど……っ」
 石畳を外門へ向かいながらぼやく。
「僕も、宗史さんのあんな顔初めて見ました……怖い……」
「あいつなぁ、桜のことになると豹変すんだよ。気ぃ付けた方がいいぜ?」
「そう言えば、弘貴がお仕置き食らって溺れ死にそうになったことがあったね」
「いやそれお仕置きっていうか殺そうとしてたんじゃないですか!」
「前言撤回。豹変っつーか、馬鹿になるんだよ、あいつ」
「……何それ……」
 間違っても桜に近寄ろうと思わない方が身のためだ。思っただけでも呪詛をかけられそうな気がする。
 大河はごろごろとキャリーバッグを引きながら疲れた溜め息をついた。


 玄関の扉が閉められた後、桜が宗史を見上げた。
「お兄ちゃん、失礼よ」
「何が」
「大河さんのこと。大河さん、怯えてたじゃない」
「あれで引き下がるようならその程度だろう」
「そういう意味じゃないの。心配してくれるのは嬉しいけど……もう、お兄ちゃんの馬鹿」
「ば……っ」
 馬鹿とはなんだ、と苦言を呈す前に、桜はぷいとそっぽを向いて踵を返し部屋へと下がった。
「宗史はもう少し妹離れしなければいけませんねぇ」
「ええ、お義母さん。宗史、あまり構い過ぎると逆効果よ」
「は?」
「そのうち嫌われるってこと」
 さあ片付けしましょう、と律子と夏美はさっさとキッチンの方へ引き上げる。
 残されたのは、臓腑を抉られ呆然と立ち尽くした宗史と、腹を抱えて笑い転げる宗一郎の男二人。
 病弱な可愛い妹を魔の手から守ろうとすることの何が悪い。大河を危険人物だと思ってはいないが、それでもやはり男は男だ。おいそれと桜に近付かせるわけにはいかない。
 それにしても、と宗史は声も出ないほど笑い続ける宗一郎を恨めしげに見やった。片手は壁に、片手は腹を押さえ丸めた背中を震わせている。
「父さん、さすがに笑いすぎじゃありませんか。何がそんなにおかしかったんですか」
 むっつりとした声の宗史の問いに、宗一郎はひらひらと手を振った。それじゃ分からん。宗史がむっと唇を一文字に結ぶと、宗一郎が長く息を吐いて体を起こした。
「あー、おかしかった」
「……そんな泣くほど笑うようなことありましたか」
 笑い上戸な宗一郎のことだ。大して面白くもないことに大笑いすることはしょっちゅうで、今もどうせ大したことではないのだろう。
 宗一郎は目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、まあ色々と、と濁した。
「ところで、宗史」
「はい?」
 袖に互い違いに腕を入れながら、宗一郎は宗史を見やる。その顔つきは、一瞬のうちに当主のそれに戻っていた。
「お前は、気付いただろう?」
 率直に問われ、宗史はわずかに目を細めた。
 まただ。上手く隠したつもりでも、いつの間にか見透かされている。この聡明さが、時々怖くなる。この人は一体どこまで気付き、視えているのかと。
「……何をでしょう」
「会合での内容だ。それと、さらに先の可能性について。省吾くんは少ない情報であそこまで推理できたんだ、お前にできないはずがないだろう。それとも、私を失望させる気か?」
 ぐっと唇を噛む。露骨にかけられる期待と重圧で、おかしくなりそうだ。
「分かりました。お話します」
 挑むように真っ直ぐ見据えると、宗一郎は余裕を思わせる微笑みを浮かべ、踵を返した。
「来なさい」
 この人は分かっている。父として尊敬し、師匠として憧れ、当主として目標とし、かつ嫉妬する自分の相反する気持ちを分かっていて、それでもこうして従わせることを厭わない。それは、自信かプライドか。
 宗史は、先行する大きな背中を追った。

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