第3話

文字数 2,339文字

 大河は霊符を取り出すと、足を止めずに上半身を曲げて腕を伸ばし、地面を擦るようにして土に埋めた。上半身を起こしながら、新しい霊符を手に走る。
 肩越しに振り向くと、まるで巨大なスライムのような悪鬼が木々を器用に避けながら追いかけてくる。隙を狙っているのだろうか。触手をうねらせてはいるが、攻撃してくる様子はない。埋めた霊符を超えた。
「朱雀、一体は俺の、二体は上から援護頼む! 失敗したらすぐに逃げろ!」
 大河は指示を出しながら先程と同じようにして霊符を隠すと、地面を滑りながら止まってすぐさま踵を返した。さらにもう一枚霊符を手に、悪鬼の横を大きく回り込む経路で引き返す。指示通り、朱雀一体が大河に付き、二体が急上昇した。
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・ハラチビエイ・ソワカ」
 突如二手に分かれた大河たちに対して、悪鬼は追ってくるなどの動きを見せなかった。そもそも頭も尻もないのだ。どこが先頭でも最後尾でも変わりはないし、どこからでも触手を伸ばせるのだ。空中でぴたりと止まり、とたんに二方向へ触手を伸ばす。
帰命(きみょう)(たてまつ)る。鋼剛凝塊(こうごうぎょうかい)怨敵守護(おんてきしゅご)牆壁創成(しょうへきそうせい)――」
 駆ける大河に速度を合わせて、朱雀が目の前で炎を吐き出して触手を燃やし尽くす。隙間から襲いかかった触手に太ももを掠め切られ、しかし足を止めるわけにはいかない。
 自分の霊気と霊気を繋げるイメージ。朱雀には失敗したらなんて言ったけれど、大丈夫だ、信じろ。渾天(こんてん)の術は成功した。森の中は地天と相性がいい。集中しろ。
 そう自分に言い聞かせながら足を止めたのは、地面に埋めた二枚の霊符のちょうど真ん中あたり。
 大河はしゃがみ込み、勢いのまま霊符を地面に叩き付けた。
急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
 怒鳴りつけるように宣言すると、微かに揺れたあと、ドンッ! と爆音が大気を振るわせ、二枚の分厚く高い壁が地面から飛び出した。植わっていた木が数本根っこごと上へ押しやられ、雪崩れるように落下して周囲の木々を巻き込んで倒れた。
 もうもうと上がる土煙の中に立つ壁は並行で、大河と悪鬼を両側から挟む配置だ。左近の結界ぎりぎりまで迫り、上から見ると「○」に二本の足が生えたように見えるだろう。「○」、つまり結界側に悪鬼、足の先に大河だ。
 良かった成功した、と喜んでいる暇はない。大河は独鈷杵を尻ポケットに押し込み、素早く立ち上がった。印を結びながら朱雀の隣に駆け寄る。
青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)勾陳(こうちん)帝台(てんたい)文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)!」
 キンッと硬質な音を響かせて、縦横壁いっぱいの巨大な九字結界が顕現した。朱雀の炎が強制的に遮られ、代わりに触手が激突する強烈な衝撃が腕に伝わる。
「朱雀、隙間頼む!」
 結界はドーム型、壁は垂直だ。どうしても隙間ができるし、上を塞ぐことはできない。けれど朱雀が三体いれば、炎で何とか塞げる。大河の飛ばした指示に朱雀が上昇し、襲いかかった触手を炎で焼き尽くした。
「ううう……っ」
 食いしばった歯の隙間から呻き声を漏らしながら体勢を前のめりにし、腕を突き出して足を踏ん張る。初陣の時とは比べ物にならない。強烈な衝撃が、絶え間なく結界から腕に伝わってくる。
 つまりはこうだ。二枚の壁と二つの結界、そして上と隙間を朱雀の炎で塞いで悪鬼を閉じ込め、九字結界を移動させて押し潰す。触手は結界に激突し、さらに朱雀の炎で焼き尽くされた分、悪鬼の勢いは確実に弱ってゆく。
 部屋いっぱいに結界を張った初陣と、向小島で雅臣を社から追い出した経験。何より、左近が朱雀を三体送り込んでくれなければ、不可能な作戦だった。
 とはいえ、朱雀がどのくらいの時間炎を吐き続けられるのか分からない。まさか永遠ではないだろう。いつ打ち止めになるか分からないし、障壁もいつまでもつか。それに、また悪鬼に加勢に入られるとさすがに対処できない。気合いと根性を入れて、一秒でも早く調伏しなければ。
「ぐぬぬぬぬ……っ」
 ぎりぎりと歯を食いしばり、靴底で地面を抉りながら、一歩一歩、確実に前進する。朱雀たちが頑張ってくれているのだろう。少しずつだが衝撃が弱まっているのが分かる。
 結界の光を炎が飲み込んで周囲は真っ赤に染まり、派手に上がる火花の音が響き渡る。腕には血管が浮き出て、筋肉が小刻みに震え、全身から噴き出した汗が肌を滑り落ちた。
「このぉ……っ」
 今にも血管が切れて血が噴き出しそうだ。顔を歪ませて一つぼやき、歯を食いしばる。そして。
「ううう……っ、あああああ――――ッ!」
 渾身の力を込めて足を踏ん張り、腹の底から咆哮した。それに呼応するように、周囲を染めていた赤がますます濃くなる。とたん、一気に衝撃が弱まった。地面を蹴り、勢いのまま突進する。逃げ場を失った悪鬼が必死に抵抗しているのだろう。結界全体が激しい火花を上げ、鼓膜を震わせる。
 視界は火花で遮られて、左近の結界までの距離が分からない。
 突如、落雷に似た痛烈な衝撃音が聴覚を奪い、一瞬音が消えた。同時に強烈な力で弾き飛ばされた。結界が砕け散って印が外れ、後ろへ吹っ飛ぶ。あまりにも強い力に息が詰まり、悲鳴を上げることすらできなかった。
 かろうじて着地し、しかし反動が凄まじく足が地面を滑る。さらに力が入らずに膝が折れた。大河はしゃがみ込んだ格好で数メートル後方で止まると、すぐさま尻ポケットに手を突っ込んだ。
 全身の疲労感が凄まじい。体が重い。だが油断できない。今の衝撃は、左近の結界と九字結界が反発し合ったためだ。何とか作戦が成功したらしい。だが、朱雀を疑うわけではないけれど、逃した悪鬼がいるかもしれない。
 大河は全身で荒く息をしながら独鈷杵を引っ張り出し、霊刀を具現化した。――と。
「――え」
 不意に、右腕に違和感を覚えた。
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