第1話

文字数 2,241文字

「下平さんたち、もう着いてる頃だな」
 いらっしゃいませー、おまたせしましたー、ありがとうございまーす。店員の活気のある掛け声に交じって、前田が腕時計を見ながら言った。下京署からほど近い居酒屋は、そこそこ広い店内に、背中合わせのボックス席は間仕切りがしてあり、価格もお手頃でその上美味い。下平班いきつけの店だ。
「何か収穫があるといいんですけど」
 サラダに鶏の唐揚げ、だし巻き卵にサイコロステーキ、串の盛り合わせ、ししゃもにゴーヤーチャンプルーに冷ややっこ、その他諸々。大滝がピリ辛こんにゃくに手を伸ばす。
「向こうは俺たちが調査に入るって分かってるんですよね。これまでのパターンからいくと、何か残ってると思いますけど」
 新井がたこキムチを引き寄せた。
「犯人たちは身元を隠す気がないですし、表沙汰になってない事件を公表しようとしている節がありますもんね。まだ動機が分かってない奴がいますし」
 牛島がレンゲでビビンバをすくい、美味そうに口に入れた。
 テーブルいっぱいに並んだ料理がみるみるうちに減っていく。こんな状況でも食欲旺盛な先輩たちに、榎本はウーロン茶片手に嘆息した。前線で戦う陰陽師たち。かつての潜伏場所を探る下平たち。こっちは心配でいまいち食欲がわかないというのに、よく食べられるものだ。
「榎本」
 前田に名を呼ばれ、榎本は我に返った。
「ちゃんと食べとけ。何かあった時に体力切れじゃ、下平さんたちの足を引っ張るぞ」
グラスを持ち上げた前田に、今さらながら気付く。班や個人で何度か食事に連れて来てもらったことはあるが、一杯目は必ずビールだった。けれど今は、全員ウーロン茶だ。店内の騒がしい声に交じって、外から微かにサイレンの音がした。
 終わったら連絡すると、下平は言った。だからこうして皆一緒にいる。何かあった時のために、すぐ動けるように。
 心配するだけなら、誰でもできる。
「はい」
 榎本はグラスから手を離し、箸を持ち上げた。
「素直でよろしい」
「榎本、これ美味いぞ」
「これも食え」
「体力つけるならやっぱ肉でしょ」
「ちょっ、こんなに食べられませんよっ」
 これもこれもと皿を寄せられて慌てる榎本に、前田たちから笑い声が上がる。と。
「お前いい加減にしろよ!」
 突如、怒声が店内に響き渡った。配膳中のスタッフが足を止め、賑やかにしていた客が口を閉じる。ざわついていた店内が水を打ったようにしんと静まり返り、怒声の出所へ注目が集まった。厨房の方だ。
「だらだらめんどくさそうにしやがって、やる気がないなら辞めちまえ!」
「うるせぇな、お前にそんなこと言われる筋合いねぇだろうが!」
「何やってんだお前ら! 営業中だぞ、やめろ!」
 どうやらスタッフ同士の揉め事のようだ。そう分かると、密かな話し声が戻る。ホールスタッフが客に慌てて頭を下げるが、大丈夫なの、うわ怖、もう出ようよ、やめとこうか。いくつかの席で客が腰を上げ始め、入店したばかりの客が踵を返す。
 怒声に交じってガラスの割れる音が響いた。
「どうします?」
 暴力沙汰になりかねない勢いだ。榎本が窺うように問うと、前田たちは慣れた様子で溜め息をついた。
「様子見だな。店の揉め事は店で解決するのがいちば」
「いい加減にしてよ!」
 バンッ! と乱暴に机を叩く音と共に、今度は女の怒声が前田の言葉を遮った。え、と全員が目を丸くし、再び店内に静寂が落ちる。視線をやると、若い四人組の女性のうち二人が睨み合っていた。店を出ようとしていた矢先だったらしい、一人は鞄を持っている。
「ほんとに返してくれる気あるの? 三万だよ!?」
「な、何よいきなり。そんなに怒らなくても……っ」
「いっつものらりくらり逃げるからでしょ!?」
「ちょ、ちょっと二人とも、落ち着きなよ」
「どうしたのいきなり、やめなって」
 こっちは金銭トラブルか、と思った直後。
「知ってるんだからね、あんたが浮気してるの! これで何回目!?」
「会うたびにマウントしやがって、うぜぇんだよてめぇは!」
「話してる時に携帯いじるのやめてよ! ほんとはあたしに興味ないんでしょ!」
「女の子だけって話だったよね。彼氏いるって知ってて他の男紹介するとか、どういう了見なの? あんた前にも同じことやったけど、あたしになんか恨みでもあんの? 鬱陶しい!」
 まるで怒りが飛び火したように、あちこちで怒号と言い争う声が上がり始めた。
「何ですか、これ……」
 榎本たちは、唖然と店内を見渡した。榎本たちだけではない。言い争っていない席の客たちも、呆然と事態を見守っている。スタッフや声を荒げる客の連れが、戸惑いながらも慌てて仲裁に入った。どこからか、警察呼べと叫ぶ声が聞こえた。
 ついさっきまで、何ともなかったのに。何故突然こんな騒ぎになったのだ。これでは本当に暴力沙汰になりかねない。というより、どう見ても異常だ。こんなに何人もの人が一斉に怒り出すなんて。
 前田さん、と声をかけようとしたのと、前田が険しい顔で榎本たちを見渡したのと、通路を挟んだ隣の席の女性が「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたのが、同時だった。
 驚いて榎本たち五人が振り向くと、女性は体を竦め、何かを避けるように首を縮めていた。二十代くらいのカップルだ。どうした? と連れの男性が声をかけたが、女性はあらぬ方を見ている。天井を見上げた視線が、何かを追いかけるようにあちこち動いている。だが、そこには何もない。
 突然怒り出した人々。何もない天井を見つめる女性――まさか。
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