第4話

文字数 4,205文字

      *・・・*・・・*

 初めは違和感があったけれど、慣れれば洋服も悪くない。だが、やはりこの方がしっくりくる。着崩した濃紺の着物の袖ははためいて、普段真っ白な髪は、今は月の光を浴びて銀色に輝いている。
「また奴か……」
 巨大な悪鬼の塊を従えた隗は、小ぶりの悪鬼に腕を絡め取られたまま、しかめ面でぼやいた。結界のほのかな光を背景に、木のてっぺんで待ち構えているのは、紛うことなき柴だ。
 これで三度目――いや、もう何度目だろう。あれはまだ、朝廷が東北の蝦夷に手を焼いていた頃。
 隗はうんざりして深い溜め息をついた。柴の強さは認めるけれど、どうせなら式神を所望したい。互いに手の内を知り尽くした者同士、こう何度も交戦すると飽きる。
 とはいえ、今さら満流たちに場所を変えてくれと言うわけにもいかない。それに、ここでの敗北が何を意味するか、そして自分が何故封印から解かれたのかも理解しているだろう。ならば手を抜くことはしまい。
 やれやれと一人ごちている間に、鎮守の森の上空に到着した。
 隗はおもむろに肩ほどまで手を上げ、前へ振った。行けの合図。巨大な悪鬼が、結界へ向かって頭上を移動する。そして、
「放せ」
 端的に告げるとするりと触手が離れ、そのまま森の中へと落下した。
 薄暗い森の中。葉を散らせながら着地し、間髪置かずに地面を蹴る。木立の向こう側から近付いてくる、柴の気配と枯れ葉を踏む乾いた音。ものの数秒で、木々の隙間にその姿を捉えた。
 と、柴が突如、高く大きく跳ねた。隗は訝しげに眉を寄せ、地面を滑りながら柴を目で追いかけた。頭上を飛び越え、枝葉の中に消えていく。そこから気配はぐるりと回り込むように移動し、そのたびに葉が落ちる。
 どこに潜んでも、音と気配で居場所は分かるのに。その場凌ぎにもならない策を取るなんて、奴らしくない。
 不意に柴の動きが止まった。真上。攻撃を仕掛けるでもなく、はらはらと葉だけが舞い落ちてくる。
 一体何のつもりだ。苛立ちを覚え、隗は懐に手を入れた。ぐっと足に力を込め飛び上がろうとした、その時。ザ――ッ、と葉を擦らせながら太い枝が降ってきた。一本や二本ではない、豊かに葉を茂らせた枝が複数。刀で枝を切り落としたらしい。くだらない、目くらましのつもりか。
 そう、一瞬気を取られたのが悪かった。
 再び柴の気配を察した時にはすでに背後に回り込まれ、両足のふくらはぎを深く切り裂かれていた。
「く……っ」
 突然襲った激痛に足から力が抜け、かくんと膝が折れる。顔をしかめてとっさに力を入れるが、踏ん張りが利かない。体がわずかに後ろへ傾いだ。と思ったら、今度は背中と腹に違和感を覚え、目を落とす。腹から飛び出しているのは、真っ赤な刀身。切っ先から血が滴り落ちて、枯れ葉を赤く染めた。
 ゆっくり首を回した視線の先で、傾ぐ体を支えるように、柴が背中にぴったり張り付いていた。口の端から、つ、と血が流れ落ちる。
 枝を落として足音を消し、あえて無意味と思わせる動きをして自分から気を逸らせ、一気に片を付けるつもりだったのか。
 以前の肉体は、背丈も体躯も柴より大きかった。けれど今は、柴の方が背も高く、立派な体つきをしている。以前から気になっていたが。
「よもや、お前に見下ろされる日がこようとはな」
 口角を持ち上げ軽口を叩いてみても、柴は無表情で口をつぐんだまま、静かにこちらを見下ろしている。隗はぎりっと奥歯を噛み締めた。
 この目だ。この黒と見紛うほど濃い深紅の目が、あの日のことを――あの烈火のような怒りと憎しみを鮮明に思い出させる。
 すでにふくらはぎの傷は塞がり始めている。隗は懐に忍ばせていた手を抜き、勢いよく右腕を水平に後ろへ振った。刀が新たに肉を切り裂いて痛みが増し、容易に腕を掴まれた。柴が一歩後ろへ下がりながら、左手で躊躇いなく一気に刀を引き抜いた。刀身から鮮血が飛び散る。受け止めた腕を強く握り締め、そのまま力任せに振り回した。
「な……っ」
 このまま切り刻まれるかと思いきや、二、三回転したあと、上へと放り投げられた。あっという間に森を抜け、視界が開ける。否や、すぐ側に柴の姿が視界に入り、ドゴッと鈍い音をさせて横っ腹に容赦なく蹴りが入った。
「が……っ」
 隗は顔を歪ませて低く呻き、勢いよく空を切った。
 足と腹。さすがにこの傷に加えて柴の蹴りはかなり痛手だ。勢いに身を任せたまま、全身を駆け巡る激痛を耐えて思考する。
 あのらしくない策は、伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)から引き離すためだったか。手の内を知る相手だからこそ、まんまと思惑に嵌ってしまった。そんな自分も不甲斐ないが、柴も柴だ。あのまま殺せただろうに。相変わらず甘い。その甘さが命取りになると、何度も警告したはずだ。
 千年経っても、奴は何も変わってはいない。だからこそ――。
 勢いは次第に落ち、軌道は綺麗な弧を描く。先には森。隗は吸い込まれるように森の中へ落ちた。全身を枝葉に叩かれ、勢いのまま背中から地面に叩きつけられる。
 ドンッ! と大砲のような衝撃音と同時に、大量の砂煙が波紋を描いて周囲に広がった。風圧で木々が枝を揺らし、葉が大きくざわめく。
 わずかに抉れた地面の真ん中で、隗は大の字に寝転がって土煙を見つめた。腹の傷がじわじわと修復されていく感覚はあるが、出血はまだ止まらない。太ももの方は塞がりかけているが、完治はしていない。柴が追ってきているだろうし、出血だけでも止めてしまいたいのだが、こればかりはどうにもできない。いくら柴でも、傷が治るまでのんきに待ってはくれないだろう。
 追いつめられたわけではないけれど、してやられたことに違いはない。まだ勘が戻っていないのだろうか。
 そう思考を巡らせている間に、ゆっくりと土煙が収まって徐々に視界が開け、木々のざわめきもナリを潜めてゆく。落ちた時に枝を粗方折ってしまったため、視線の先は小さな夜空が覗いている。そこから、頼りない月の光が弱々しく降り注ぐ。
 やがて、完全に土煙も木々のざわめきも収まり、しんとした静けさが落ちた頃。
「遅いッ!」
 唐突に隗がカッと目を見開き、声を荒げた。
「奴はまだか!」
 まさかこのまま放置するわけはないだろうし、傷を修復する時間も稼げる。けれど、こんな状態でこんな場所に転がっている自分が妙に間抜けに思えてきて、つい溜め息が漏れた。


 あいつは昔から我が道をゆく奴だ、と隗がしかめ面でぼやいている頃、柴は茂を無事地上に着地させ、森を抜けていた。蹴り飛ばした森へ向かう。
 どうやら現代では、帯刀するどころか入手さえ困難らしい。ならば何かしらの策を講じているだろうと思ったのだが、捉えた時のあの素振り。懐に手を差し入れていた。それと腹を貫いた時、刃にわずかだが硬い何かが触れた感触がした。おそらく懐剣(かいけん)の鞘だ。懐に忍ばせる護身用の小刀。あの体勢で振り回せば叩き落とされると判断し、使うのを断念したのだろう。
 蘆屋家に受け継がれていた物だろうか。あるいは、隗と皓の体の持ち主か、判明していない仲間。逆をいえば刀は入手する当てがないとも言えるけれど、果たしてどうだろう。
 武器が何にせよ、相手は隗だ。優勢とは言えない。ただ一つ、気になることがある。
 柴は一旦木のてっぺんで立ち止まり、隗の気配を探った。伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)から大量に流れてくる悪鬼の邪気が邪魔だが、感じ慣れた気配だ。すぐにそれを感じ取り、大きく飛び上がる。森の真ん中辺り。隠すでもなく、むしろ居場所を知らせるような強い気配は、らしいといえばらしい。
 大雑把で豪快。かつ好戦的で気が短い。今頃、文句の一つでもぼやいていることだろう。
「遅いではないか。何をしていた」
 枝葉を散らしながら着地すると、案の定、開口一番苦言が飛んできた。胡坐を組んで頬杖をつき、憮然とした顔でこちらを睨み上げる。
「……すまない」
 晴がいたら、待ち合わせかよと突っ込みそうだ。柴が素直に謝罪を口にすると、隗はやれやれと言いたげに盛大に溜め息をついた。
「本当に、お前は千年経っても変わらぬな」
 よっこらせと腰を上げる。立ち上がれるのなら、足の傷は完治しているらしい。だが、わずかに眉間にしわが寄ったのを、柴は見逃さなかった。痛むのは腹の傷。出血は止まっているようだが完治していない。
 ふと、先日聞いた宗史の憶測が脳裏をよぎった。隗が裏切った、その理由。
「――隗」
 満流に小言を言われるなと、渋い顔で真っ赤に染まった着物に目を落としていた隗が、ついと視線を寄越した。
「何故、我らを裏切った」
 返ってきたのは、うんざりした顔と溜め息だ。
「お前も大概しつこいな」
「宗史が、言っていた――」
 人が絶えれば鬼も絶える。だからこそ食うことにおいて制限があり、ならず者たちと何度も刃を交わした。それなのに、隗はただ殺すためだけに千代と手を組んだ。仲間が犠牲になると分かっておきながら。それほど、人を憎んだ理由。
「――ゆえに、お前は我らを裏切り、あの時独断で昴たちを襲撃したのではないか、と」
 はっ、と隗が息を吐き出すように嘲笑した。
「賀茂家次期当主は、なかなか想像力が豊かなようだな」
「違うのか」
「さて、どうであろうな?」
 口元に浮かんだ意地の悪い笑みは、千年前と同じ。何故だと尋ねてみても曖昧にかわされ、人が憎いと繰り返すばかりで、決して口を割ろうとしなかった。ならばと腹心に尋ねたが、彼は酷く混乱した様子で首を横に振った。常に側にいるはずの腹心でさえも知らない、隗の秘密。
 何故そこまで隠したがるのか分からない。こうも頑なに隠す理由とは、一体何なのか。ただ分かることといえば、何があっても隗は喋らない。そして、どちらかが斃れるまで、この戦いは終わらない。
 柴は諦めたように一瞬目を伏せ、瞼を持ち上げると、すらりと刀を抜いた。
「そうこなくてはな」
 隗がにやりと笑い、懐から懐剣を抜いた。
 何故、このようなことになった。どこで道を違えた。信条は違えど、見ていた方向は同じだったはず。互いに仲間や友を思い、守るために振るってきたはずの剣を何故、友に向けなければならないのか。
 千年前も、千年の間も。そして今も。何度問い掛けても、答えは返ってこない。
 深紅の目が合い、示し合わせたように同時に強く地面を蹴る。地面が抉れ、ドンッと風圧が鳴り、砂埃が派手に舞い上がった。

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