第5話

文字数 6,280文字

 予定では午後一時前には自宅を出るつもりだった。だが、午前中の訓練で無理をしたせいか、昼食を摂った後ソファでうたた寝をしてしまい、少々時間が押した。午後二時前。
 表から庭へ直接回り込むと、縁側に大河が転がっていた。
「……死にかけてるな」
「ちょっと無理をしたので」
 首にタオルをかけた昴が苦笑した。うつ伏せに寝転がり、体全体で荒い呼吸を繰り返す大河を見下ろす。
 左手にはタオルが、右手には三分の二ほど飲み干されたペットボトルが握られている。全身が汗と砂まみれだ。昨日は体を動かしていないと言っていたからその反動だろうか。それにしてもこの有様は酷い。何があった。
 宗史は、訓練を続ける夏也と香苗に視線を投げながら、瀕死の大河の隣に腰を下ろした。弘貴と春平、茂と美琴は哨戒中のようだ。華と双子は、庭の端の方でおもちゃを使って遊んでいる。昔懐かし竹馬だ。体幹が鍛えられるらしく、再注目されていると茂が言っていた。
「何かあったのか?」
「実は、僕たち三人と順番で手合わせしたんです」
「昴たちを、一人でか?」
「はい」
 人のことは言えないが、何故またそんな無謀なことをしたのか。信じられないと言った宗史の視線を受けて、昴がまた苦笑した。
「大河くん、昨日少ししか訓練できなかったから、その分を取り戻したいって言って」
 確かに昨日は真言と霊符でほぼ潰れた。五時までに描けたらという約束は、百歩譲っても合格を出せる出来ではなく、結局お預けにしたのだが、その反動がこうなるとは。
「だからと言って、むやみに手合わせをしても意味がないだろう」
「ええ、僕と夏也さんもそう言ったんですけど……」
 大河がごり押ししたのか。茂や樹ならば聞かないだろうが、どちらかと言えば大人しいタイプのこの三人なら、大河の勢いに押されてしまっても仕方ないかもしれない。
 宗史は溜め息をつき、ぐったりとして起きようとしない大河を一瞥した。
「気持ちは分からないでもないが、怪我をしたら元も子もないだろう」
 会話が聞こえているはずだが、一向に反応をしない大河に聞こえるようにわざと声量を上げて言ってやる。すると、ペットボトルを握っていた手がぴくりと反応し、ブリキ人形のようにゆっくりと首が動いた。
「分かってるけど……」
 そう言いながら見上げてくる目も声も、どこか拗ねている。
「じゃあ、何でこんな無茶をした?」
 怪我をさせるような三人ではないが、それでも実戦を前提に訓練をしている以上、絶対にないとは言い切れない。少々の怪我ならともかく、大怪我をする可能性もあるのだから、そこはきちんと認識させなければならない。
 少しだけ問い質した口調で問うと、大河はだってと口を尖らせた。
「とにかく動きたかったから」
 そんなに暗記と霊符の作成がストレスか。体を動かす方が得意な大河ならと思わなくもないが、甘やかすわけにはいかない。
「式神がいるのならともかく、大怪我をしてもすぐに治癒できないんだぞ。怪我をしないという保証はない、そこをきちんと頭に入れておけ。いいな」
「はーい……」
 言えば素直に聞いてくれるのは大変助かる。よし、と説教終わりの合図をすると、大河がゆっくりと体を起こした。
「でも、すっきりした。昴さん、ありがとうございました」
「ううん」
 それにしても香苗ちゃんも強かった、と少々落ち込み気味に言った大河に、体力がないだけだよ彼女、と苦笑いを浮かべた昴を見やり、宗史は夏也と香苗に視線を投げた。
 夏也と香苗は霊力が皆より弱い。ゆえに後方支援中心だ。けれど二人とも自分の立場をよく理解しており、前線に立てないという事実を、自分の得意分野を極めることで補おうと日々努力している。
 ただ香苗においては、霊力の弱さに加え、体力の無さも短所と捉え、引け目に感じている節がある。
 初めて会った時、彼女は人見知りというよりは人の顔色を窺うタイプだとすぐに分かった。実際、華からの報告書にも、そういった言動が多く見受けられると書かれていた。生い立ちによって形成された、人に気を使いすぎ、頼まれると断れない性格。そこへさらに霊力と体力の差が加わり、寮に入った当初は必要以上に皆に気を使っていた。
 今でもその傾向は見られるが、昔に比べるとずいぶん減ったように思える。そうでないと、大河をここまで追い込んだりはしないし、ましてや年上の大河を「大河くん」と呼んだりはしないだろう。いや、これは大河の人柄によるものなのか。弘貴や春平は「さん」付けだ。
「香苗ちゃん、そろそろ休憩しましょう」
 夏也の提案に、香苗は息も絶え絶えにはいと答えた。準備されていたタオルとペットボトルを、大河が香苗へ、昴が夏也へそれぞれ渡す。
「ありがとうございます」
「ありがとう、大河くん」
 宗史は、もう今にも死ぬんじゃないかと思うほど息を切らしながら汗を拭く香苗を見上げた。
「香苗、良かったよ。確実に上達してる」
 優しい性格の香苗は、体術訓練を始めた当初、攻撃することをかなり渋っていた。華と夏也が体得する意味を根気よく言い聞かせ、護身術から少しずつ始めて徐々に攻撃することに慣れさせて、今に至る。今でも苦手なようには見えるが、公園での件からこっち、訓練の時間が増えたと夏也から報告を受けている。
 香苗が内通者である可能性は低い。いや、低かったと言った方が正しい。公園の事件の不自然さに気付いた時、彼女が内通者である可能性が上がった。
「ありがとうございます」
 それでも、こうして無邪気に笑う香苗を見ると、気のせいかもしれないと思ってしまう。
「ところで大河」
 大河がペットボトルを煽りながら視線だけを向けた。
「早朝訓練はどうだった?」
 尋ねるや否や、皆の表情が凍りついた。昨日、樹に巨大結界を見せろと迫られていたから、屈してはいないかと思って聞いたのだが。まさかやったのか。
 ペットボトルを口から離しながら、大河が神妙な声で言った。
「宗史さん、樹さんから哨戒で何かあったって聞いてない?」
「哨戒? いや、特に聞いてないけど。どうした」
 今朝届いていた哨戒の報告書は、特別これと言って注目する点はなかった。立ち寄った小さな神社の鎮守の森で、大木に打ちつけられた藁人形を回収して調伏処理したことや、マンションのベランダを浮遊する霊を浄化したことなどは書かれていたが、いつものことだ。
「それがさぁ、今朝、帰ってくるなりいきなり結界の拡大と縮小の訓練始めて、立て続けに破邪の法と独鈷杵(どっこしょ)やって、霊符の発動させられた」
「二時間以上、休憩なしでしたね」
 夏也が補足し、昴と香苗が不憫そうな視線を大河に向けた。
「なんか、八つ当たりみたいな勢いだった。しかもなんて言ったらいいのかな、こう……」
「怒鳴り散らすとかじゃなくて、静かにストレス発散してる感じ?」
「そうそれ、そんな感じでしたよね」
 代弁した昴に大河が便乗し、皆が大きく頷いた。
「怜司さんと喧嘩でもしたのか思ったんだけど、そんな風には見えなかったし、哨戒で何かあったのかと思ったんだけど」
「怜司さんは何も言ってなかったのか?」
「うん、何も言ってなかった」
「そうか……」
 フルメニューを二時間以上ぶっ通しとは、樹にしては効率が悪い。いくら大河に体力と霊力量があるからと言っても、疲れないわけではない。それに、ただ機嫌が悪いだけなら、感情を隠さない樹は愚痴なり嫌味なり、分かりやすい行動に出るはずだ。確かに大河でなくても何かあったのかと思う。何か事件に関係しているのだろうか。
「分かった。様子を見て、おかしいようだったら話を聞く。皆も何か気付いたら教えてくれ」
「分かった」
「はい」
「あっ、こら! 藍、蓮! 駄目よ!」
 不意に華の叫び声が響いた。視線を投げると、迷い込んだ野良猫を追って玄関の方へ走る二人を、華が慌てて追いかけていた。
「ああ、いけませんね」
 夏也が言いながら駆け出した。
 ひょいと壁に飛び乗って逃げる猫を見上げる藍と蓮を、華が腕を掴んで引き止めた。すぐに夏也が追い付き、しゃがみ込んで双子と正対する。
「勝手におうちから出ないって、約束してるでしょう」
「約束を破る子は嫌いですよ」
 ぴしゃりと言い放った夏也に、双子が顔を歪ませた。今にも泣きそうだ。ついでに大河が顔を引き攣らせた。
「夏也さん厳しい……」
「この状況だからな、仕方ない」
 子供は予測のつかない行動をする。少し目を離した隙にふいといなくなったり、突然駆け出したりすることはしょっちゅうで、藍と蓮も例に漏れない。庭が広いためすぐに気付けば追い付くが、もう五歳だ。運動量も増え、足も速くなってきている。油断はできない。
 と、そこへ晴が顔を出した。
「お、何だ説教中か? 藍、蓮、何したお前ら」
 夏也のきつい一言が効いたのか、顔をくしゃくしゃにした藍と蓮が晴の足にしがみついた。
「どうしたんだ?」
 晴はしゃがみ込んで藍と蓮を抱きよせ、背中をさすりながら尋ねた。
「猫を追い掛けて庭から出ようとしたのよ」
「ああ、なるほどな。それで怒られたのかお前ら」
 両腕の中でこくりと頷いた双子に、晴がそうかぁと言いながら頭を撫でる。
「まあ、猫は追いかけたくなるよなぁ。でも、やっぱ車とか危ねぇからさ。華と夏也もお前らのこと心配して言ってんだから、泣くことねぇって。次は気ぃ付けろよ?」
 しゃくりあげる双子を落ち着いた声で諭す晴は、やはり陽の面倒を見てきただけのことはあって手慣れている。
「晴さん、いいお父さんになりそうだよね」
「うん、僕もそう思ってた。子煩悩になりそう」
「たくさん遊んでくれそうですよね」
 香苗がやっと昴の隣に腰を下ろした。
 大河たちの高評価を聞きながら、華たちと一緒に藍と蓮の手を引いてこちらに向かう晴を眺める。
 晴の女性関係は中学の頃から知っているが、来る者拒まずのスタンスらしく、知っているだけでも両手が埋まる人数だ。さらにフェミニスト気質が加わり、そのせいで何度か面倒に巻き込まれたことがある。そんな晴も、いつかは一人の女性と家庭を築く日が来るのだろう。とは言え、
「桜は駄目だ」
「は?」
 思わず心の声が出た。大河と昴と香苗から間の抜けた声と視線を向けられ、宗史ははたと我に返った。午前中に龍之介が来たせいで、つい思考がそっちに向いてしまう。どこまでも迷惑な男だ。
「いや、何でもない。それより大河、今朝樹さんから霊符の発動やらされたって言ってたけど、成果はどうなんだ」
 話題を逸らした宗史に昴たちと顔を見合わせた後、大河が首を傾げながら言った。
「一応反応はしてたよ。略式の術と感覚が似てたからやりやすかった」
「ああ、やっぱりか。時間はかからないと思っていたが、さすがだな」
 霊符の発動は、結界と攻撃系の術は別として、真言に反応を示した時点で良しとされる。対象物がない場所で完全に発動させても意味がないからだ。あとは実戦で行使するしか確認のしようがない。
 華と夏也が双子の手を引いて室内へ上がり、晴が宗史の隣に腰を下ろした。
「霊符か?」
「ああ、反応したらしい」
「だろうな。三つとも全部か?」
「うん」
「霊符はどうした?」
 宗史が尋ねると、う、と大河が声を詰まらせて視線を逸らした。
「樹さんの霊符使いました……」
 敬語で答えた大河に、昴と香苗が笑い声を漏らす。
 無茶な手合わせをしたことといい、上手く描けないことをもどかしく思っているのかもしれない。ヒナキからコツを教わったからと言っても一朝一夕で上手くなるものではないことは、承知の上だ。しかし大河の場合は少々急がなければいけない状況にある。無茶な手合わせはいただけないが、きちんと理解しているようだし、上達も早いだろう。そうなればストレスも薄れてくる。
「一応、大河くんが描いた霊符も使って試してみたんですよ」
 昴が苦笑しながら口を挟んだ。
「どうだった……って、聞くまでもねぇか」
 仰る通りです、と大河が肩を落とした。あれで反応したら神は大河にずいぶん甘いのだなと思ってしまう。
「その霊符、見せてもらってもいいか」
「うん。でも、昨日の寝る前と朝も何枚か練習したけど、宗史さんたちに見せたやつと大差ないよ?」
 そう言って大河は腰を上げ、リビングのテーブルへと向かった。何故そんなところに置いてあるのか、という疑問はすぐに解消された。
「はい」
 使う際に一枚だけ切り離したのだろう。差し出されたのは、三枚つづりになった半紙と短冊型の霊符が一枚で、しかも赤いインクで真っ赤だった。隣から覗き込んで小さく噴き出した晴に、元の位置に腰を下ろした大河が拗ねたように口を尖らせた。
「これ、もしかしてしげさんか?」
「そう。さすが元教師って感じだよね。中学の習字の時間思い出した」
 丁寧に手直しがされており、上手な部分は花丸が付いている。すっかり子供扱いではあるが、どこが悪いのか認識するには確かに分かりやすい。
 宗史はまじまじと眺めると、おもむろに尻ポケットから携帯を取り出した。大河には申し訳ないが指示されたからには仕方ない。それに術の許可を出すほどだ、ここで遂行できなければ樹並みにねちねちと嫌味を言われる。
 カメラを起動した宗史に、大河がぎょっと目を剥いて腕を掴んだ。
「ちょ……っ、宗史さん何してんの!?」
「写真を送れと言われた」
「何で!?」
 宗史は、やめてくれと言外に訴える大河をじっと見つめ、言った。
「良かったな、大ウケだったぞ」
「ウケてどうすんだよッ! ていうかどういう説明したの!?」
 どういうと言われても。
「水揚げしたばかりのウナギが大暴れした魚拓かと思った、と言っただけだ」
 答えたとたん、空気が凍りついた。と思ったら晴が口を押さえて噴き出し、大河と昴と香苗が輪を作った。
「え、魚拓に見える? あれ」
「ど、どうだろう……僕にはちょっと……」
「あ、あたしも魚拓には……」
「そう言えば宗史さん、じいちゃんが略式の術で作った土偶の顔見て、可愛らしいって言ってたんだよね」
「え……」
 昴と香苗が言葉に詰まり、三人揃ってそろそろと振り向いた。その目は何だ。
「何が言いたい?」
 改めて携帯を霊符に向け、横目で三人を見やる。
「いえ、何でもありません……」
 言いつつも再度輪になってこそこそと何か話す三人に、宗史は少々不機嫌な顔をしてシャッターを押した。
「あれかな、美形家族だと一周回って美的感覚がおかしくなるのかな」
「聞こえてるぞ大河!」
 家族を褒められるのは嬉しいが、美的感覚がおかしいと言われるのは心外だ。
 宗史はひとまず写真を保存しながら、大河の背中を力任せにひっぱたいた。いてっ、と叫んで背筋を伸ばした大河に、昴と香苗が楽しそうに笑い声を上げた。
 ついでに、声が出ないほどウケたらしい晴の頭も叩いてやる。
「お前、いつまで笑ってるんだ」
「だ、だって……っ魚拓って……っ」
「そう見えるんだよ、仕方ないだろう」
「そうだけど……っ」
 そんなにおかしいだろうか。宗史はむっとした表情で携帯をしまい、気を取り直すように溜め息をついた。
「そんなことより、大河、俺の霊符を貸すからやってみろ。浄化から」
「はーい」
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