第9話

文字数 3,402文字

 そっか、と弘貴が笑みを浮かべると、明がぐるりと皆を見渡した。
「他に何かあるか?」
 一様に首を振った皆を確認して、宗一郎が口を開いた。
「何もないようなら、一旦休憩だ。ただ、これから先の話は、聞きたくない者は聞かなくて構わない。呼びに行くまで部屋で待機していなさい。華、夏也、藍と蓮は下がらせなさい。以上だ」
 そう締め括られると、つい先ほどまで緩んでいた空気が一瞬で張り詰めた。
 質疑応答の中で、あえて尋ねられなかったことがある。それはおそらく、正気でなかった柴が正気を取り戻していると分かった時点で全員が推測していたことであり、また柴と紫苑もこうなると覚悟をしていただろう。
 事件を解決するのに、聞かなくても支障はない。むしろ一緒に暮らすのなら、聞かない方がいいのかもしれない。
 けれど、何故だろう。聞きたいと思う。聞かなければという責任感や義務感ではなく、聞きたいと。
 しばらくして、春平がゆっくりと腰を上げた。俯いたまま扉の前で足を止め、一瞬躊躇して、扉に手をかけた。静かに出て行く背中を見送った弘貴が、困ったように頭を乱暴に掻いて立ち上がり、後を追う。続け様に昴が腰を上げた。無言のまま柴と紫苑を一瞥し、会釈をして背を向けた。
「華さんはどうしますか」
 夏也の問いかけに、華はそうねぇと一つ唸り、春平と昴が消えた扉へ視線を投げ、向かいの席で俯いたままの香苗を見やった。
「聞くわ」
「分かりました。では、私は藍ちゃんと蓮くんと見ていますので、後で教えてください」
「分かったわ、お願いね」
「はい。藍ちゃん、蓮くん、行きましょう」
「二人とも、お部屋で待っててね」
 華が笑顔で双子の頭を撫でると、藍と蓮は大きな目を微かに揺らして頷いた。
 夏也に背中を押されながら、藍と蓮は肩越しに柴と紫苑を振り向いた。寂しいというよりは、心配しているような眼差しだ。
 迷子事件の時、樹の率直な言葉に怯えていた。おそらく二人は、鬼の習性を理解している。それは柴と紫苑も同じで、これからどんな会話が交わされるのかということも。それでもこんなに懐き心配するのは、柴と紫苑が公園で襲ってきた鬼とは違うと理解しているからだ。華と夏也が説明をしているのだろうが、常識や先入観に囚われず個々の本質を見抜く力は、子供の方が優れているように思える。
 子供ってすごいな、と改めて感心して、夏也と小さな背中を見送る。
 夏也が扉を閉める直前、香苗が椅子を鳴らした。香苗は茶封筒を胸に抱き、しばらく立ち尽くして、ゆっくりと柴と紫苑を見やり、大河に視線を移した。その表情は今にも泣き出しそうなくらい歪んでいて、アーモンド形の瞳にじわりと涙が浮かんだ。
「え……」
 大河が息を止めて目を丸くしたとたん、香苗は弾かれたように部屋から飛び出した。横をすり抜けて走り去る香苗の後を双子がぱたぱたと足音を立てて追いかけ、夏也が静かに扉を閉めた。
「ちょ……っ」
「大河くん」
 思わず立ち上がった大河を制したのは、落ち着いた茂の声だった。
「大丈夫だよ」
「でも……」
 泣いてたのに。大河が困惑して視線を泳がせると、華が言った。
「大河くん、夏也がいるから平気よ」
 あ、と気付いた。先程の華と夏也のやり取りは、こうなることが分かった上でのものだったのだ。夏也は話を聞きたくないようではなかった。双子を見るだけなら春平と昴がいたのに夏也が退室したのは、彼らの様子を窺うため。春平がいるのなら、同じ施設で育った夏也は適任だ。
「そっか……」
 ほっとしてソファに腰を下ろした大河を見て、皆が小さく笑い声を漏らした。
 樹に甘い物を要求され華がキッチンに入り、美琴がトイレだろうか席を外した。茂は地図を取りに和室に入り、樹と怜司は先程の柴と紫苑の証言から何か探れないかと推測を始めた。向かいのソファでは、陽が明と宗一郎へさっきは笑いすぎですと苦言を呈している。隣では、煙草を取り出しながら晴が腰を上げ、宗史が一息ついてグラスに口を付けた。柴と紫苑もゆっくりとグラスを持ち上げる。
 そして大河は、突然背後から大きな手で頭を鷲掴みにされた。
「まあなぁ、いきなり女に泣かれたらびっくりするよなぁ」
 志季に押さえ付けるように頭を撫で回され、大河は肩を竦めた。
「ちょっと志季、痛い。ていうか、別に女の子じゃなくてもびっくりするって」
「そうかぁ?」
「そうだよっ」
「志季、乱暴ですよ」
 椿が志季の手を払い、大河は乱れた髪を整えながら後ろを振り向いた。
「大河様はお優しいので、男性でも追いかけようとされましたよ」
 付け加えられた評価に驚いて、大河は目をしばたいた。優しいなんて、会合の時に律子に言われた以来だ。物凄く照れ臭いし喜んでいる場合ではないけれど、やっぱり顔は自然と緩む。宗史がふっと小さく噴き出した。
「や、別に優しくなんてないけど……」
 大河は締まりのない顔で俯いてごにょごにょと口ごもる。
「いいえ、大河様はお優しいですよ。志季は男性が相手なら放置します」
「異論はねぇ。男なら自力で立ち上がれ」
 今時ならハラスメントで批判されそうな主張だ。いかにも正論だと言わんばかりに胸を張った志季に、大河と宗史と椿が苦笑した。
 地図を持って出てきた茂が、聞こえていたのだろう、笑いながら柴と紫苑に歩み寄った。手には長方形のケースに入った地図が二つ。京都府と京都市のものだ。
「はい、これ。一年前くらいのだけど、場所を確認するだけなら十分だから」
 そう言って手渡された地図を紫苑が受け取り、物珍しげにケースをひっくり返す。少し説明した方がいいですかね、と茂が宗一郎たちに尋ねると、リビングの扉が開いて弘貴と美琴が一緒に戻ってきた。偶然廊下で会ったのだろうが、話し声はしなかった。にも関わらず、弘貴は少々不機嫌な顔をしている。
 何がきっかけでここまで険悪になったのだろう。大河と茂が同時に嘆息した。
「弘貴くん、どうだった?」
 気を取り直した茂が自席に戻りながら尋ねると、弘貴はああうんと曖昧に答えた。
「柴と紫苑に伝言」
 自分の椅子を引きながら名指しし、弘貴は二人を見やった。
「まだ聞く勇気が出なくてごめん、だってさ」
 柴と紫苑が目を丸くして、腰を下ろす弘貴を見つめた。美琴は我関せずな様子だが、他の皆はふと笑みを浮かべた。
 受け入れろと言われて簡単に受け入れられるほど、鬼の習性は人にとって優しいものではない。だからこそ、春平たちは聞かない選択をした。それは、もちろん話の内容に対しての恐怖心もあるだろうが、それ以上に避けたいことがあって、まだ自信がないからだ。今日半日の三人の様子を見ていれば分かる。
「何故彼らが謝るのか、私には分からぬ。仕方のないことだ」
「あー、うん、まあそうなんだけどそうじゃないっていうか」
「どういう意味だ?」
 首を傾げた柴に、弘貴は困った様子で苦笑いを浮かべた。
「俺は言うなって言われてるからなぁ。どうしたらいいですかね?」
「えっ、僕が決めるの?」
 判断を丸投げされた茂が腕を組んで喉の奥で唸った。
「僕だったら、本人から言われた方が嬉しいと思うけど」
「ですよねぇ。てことで、後で本人に聞いてみて」
 にかっと浮かべた笑みに、柴と紫苑は不思議そうな表情で頷いた。
「つーか樹さん、一週間くらい断食してた人みたいになってますよ」
 弘貴は向かいの席で小袋に入ったクッキーをむさぼり食う樹に呆れた視線を投げた。あれは双子用のおやつではないのか。
「うん、感覚的にはそんな感じ」
「朝もお昼も食べてなかったらそうなるわよ。後で何か作るから、軽くでもきちんと食べなさい」
「じゃあフレンチトーストがいい」
 コーヒーのおかわりを樹の前に置きながら、華は何度目かの「はいはい」を呟いて席に戻った。
「今のうちに思う存分食べさせた方がいいな」
 一服を終えた晴が神妙な面持ちで戻り、小声でそう言った。
「ああ。いっそ吐くまで食べさせてもいいと思う」
 宗史が同情めいた顔をし、二人がちらりと視線を向けた先は、清々しいほどの笑みを浮かべた宗一郎と明だ。隣では、陽も気付いているのか顔を引き攣らせている。あの笑い方は確実に何か企んでいる顔だ、間違いない。
 あ、と大河は声を出さずに口を開けた。宗史と晴を振り向くと、二人は無言で頷いた。
「うわぁ、可哀相……」
 心の底から同情した視線を投げた大河を、宗史と晴が憐みの視線で見やった。
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