第8話

文字数 6,991文字

 朝食を食べ、下平へお礼と冬馬(とうま)たちへ伝言のメッセージを送り、訓練をして昼食。いつもなら午後から寮へ行って指導をするのだが、予報通り昼を過ぎた頃からぽつぽつと雨が降り出し、今ではすっかり本降りだ。訓練に加えて昼からの哨戒が中止になったため、室内でできることに各々取り組んでいるだろう。
 このタイミングでの哨戒の中止は、昴の保護のため。警察から追われている彼に、外をうろつかせるわけにはいかない。そしてもう一つ。事態が大きく動くその時が近いからだ。
 午後一時過ぎ。バケツをひっくり返したような激しい雨音を聞きながら、宗史はパソコンに転送した冬馬たちの情報と睨み合っていた。対策を練る上で、情報量が多いと携帯画面は意外と不便だ。いちいちスクロールをしなければ、一目で情報を確認できない。
 下平から送られてきた冬馬たちの情報とは別に、会合前に追加で送られてきたらしいメッセージの内容はこうだ。
 昨晩、ナナは自宅へ帰ったあと家族に今回のことを全て話したらしい。彼女の家族はリンのことを知っており、しばらくうちに泊まればいいと提案してくれた。しかしリンは、これ以上人に迷惑をかけたくないと拒否。そこで、ナナが渋るリンを説得し、自宅にしばらく泊まり込むことになったそうだ。ナナの家族は、帰宅してすぐに連絡を入れること。二、三日様子を見て状況が好転しなければうちへ来るようにと、二つの条件を出した上で承諾したらしい。
 今日は、リンは休みでナナは出勤だ。ナナの迎えは予定通り圭介(けいすけ)が担当し、リンの自宅へ。明日以降は、リンが遅番勤務になる。ナナと圭介は七時頃に病院前で待ち合わせ、時間を潰す。圭介の出勤時間前に智也(ともや)が交代し、リンの仕事が終わってから自宅へ送り届ける。元々、遅刻は智也のみの予定で、アヴァロンのスタッフにもそう伝えてあるらしく、突然二人が抜けるのは他のスタッフに迷惑がかかるからという理由らしい。ただし冬馬が休みの日は、リンの仕事が終わった時間に合流することになっている。
 宗史はパソコンを開いたまま、くるりと椅子を回して霊符を放った。
椿(つばき)
 渦を巻いた真っ白な煙が出現し、中から両手を前で組んで笑みを浮かべた椿が姿を現す。
「わざわざ悪いな」
「いいえ、とんでもございません」
「例の件を(せい)に伝えるから、意見があったら言ってくれ」
「承知致しました」
 椿はゆっくりと歩み寄り、戻した椅子の背に体を預けて晴へ電話を繋いだ宗史の側に控えた。スピーカーから呼び出し音が響く。
「おー、お疲れさん」
「お疲れ。今、大丈夫か?」
「ああ」
 疲れたような溜め息交じりの答えのあとで、コキコキと骨の鳴る音がした。
「何してたんだ?」
「霊符描いてたんだよ。あと、忘れかけの真言の覚え直し」
 先程の音は首を鳴らしていたらしい。やれやれと一つぼやいた声と、ライターを擦る音。
「定期的に覚え直さないからだ」
「え、何、お前そんなことしてんの?」
「するだろ。常用する術はどうしても偏るからな」
「……恐れ入りました」
 言葉とは裏腹に、口調は呆れ気味だ。どうせ真面目すぎだとか思われているのだろう。椿が小さく笑いをこぼした。
志季(しき)は?」
「呼んだ方がいいか?」
「意見があればと思ってな」
「もしかして、椿いるのか」
「ああ」
「んじゃ呼んだ方がいいな。あとで文句言われちゃたまんねぇわ」
 一つぼやいてから志季の名を呼ぶ声が聞こえ、すぐに「よしよし、偉いぞ」と偉そうな志季の声が届いた。どちらが主か分からない。つーか部屋で吸うなら窓開けろ真っ白じゃねぇか、あっこら雨降り込むだろ馬鹿、誰が馬鹿だこのニコチン中毒が、どこで覚えたそんな言葉、としばし喧嘩腰の言い合いが続く。
 もう、召喚するたびに喧嘩するなと注意する気力もない。これはこれで息が合っているし、上手くやっているのだ。ただ、待たされる身にもなって欲しい。
 うんざりと溜め息をついた宗史に、椿がくすくす笑う。
「どうにかならないのか、この二人」
「喧嘩するほど仲が良いと申します」
「別に仲良くねぇよ!!」
 綺麗に晴と志季の声が重なった。仲が良くて何よりだ。
「で? どうすんだ」
 不機嫌な声で晴が切り出し、宗史は頭を切り替えてパソコン画面に目を向けた。
「今回は、最悪の事態を想定した方がいい。龍之介(りゅうのすけ)さんが事件に関与し、冬馬さんたち全員が狙われ、この件に便乗するつもりでいる場合だ。今のところ不審な車や人物を見かけたという情報はないが、見張られていると仮定した上で動く。見張りはおそらく一般人、龍之介さんの仲間だ。人数は少数」
「なんでだ?」
 さっそく志季が尋ねた。
「まず一つは、龍之介さんが自分で動くとは考えられない」
「確かにあいつはそういう奴だな」
 間髪置かずに志季が同意した。
「二つ目。今回の件は、あくまでもリンさんとナナさんが標的だ。彼女たちは犯罪者ではない。そうなると、龍之介さんたちの動きは予測できる。標的の普段の行動を調べてから決行日を決めるのは常套手段だ。組織的に動いているのならなおさら。そのあとで連絡を取り、当日は敵側が冬馬さんたちを襲っている隙、あるいは排除してからリンさんとナナさんを襲うつもりなんだろう」
「確かにそれが一番確実だな。けどさぁ……」
 志季がうーんと唸った。
「犯罪者を標的としている奴らが手を貸すのは矛盾していると言いたいんだろう。間違っていない。だが、龍之介さんと手を組んでいると仮定した時点で矛盾しているんだ。全て憶測の上での対策だから、今は考えても仕方ない」
「そりゃあ、まあ……」
 単純明快な思考を好むのは主と同じだ。矛盾する行動が理解できないのだろう。納得していない様子だが、ひとまずここは話を進める。
「三つ目は、これまでの経過だ。リンさんとナナさんが龍之介さんと会った日から四、五日が経っている。護符が渡ったのは三日後、香苗の事件の日だ。そして昨日。送り迎えされているとはいえ、敵側の誰かが見張っているのなら、とっくに襲われていてもおかしくない。冬馬さんたちも含め、悪鬼を使う隙はあったし、俺たちと同じく体術を会得しているのなら余計だ」
 なるほど、と志季が呟く。
「一般人だからこそ智也と圭介に警戒したのか。それに今は護符があるから悪鬼は使えねぇ。何せ明と大河の二枚だからな。じゃあ、問題は悪鬼じゃなくて人間か」
「そいうことだ」
 大河は、宗史が描いた護符を手本にしていた。つまり陰陽師専門の護符だ。未完成とはいえ、それなりの効力は発揮する。加えて明の護符となれば、下手な悪鬼では近寄ることもできないだろう。となると、敵側は護符が効かない悪鬼を使うことになる。邪気が強ければ強いほど、こちらに気付かれやすくなる。そんな下手な真似はしないだろう。
「個人的な意見としては、見張りが龍之介さんの仲間である以上、冬馬さんたちに張り付く必要はないと思っている。この二、三日でナナさんを含め送り迎えされていることは分かっただろうし、昨日は冬馬さんも同行していた。送り届ける順番は、距離的にリンさんが先だ」
「向こうからしてみれば、リンの自宅で張ってれば勝手に標的が集まるってことか」
「ああ。それに、樹さんが言うように五人揃えば一石二鳥だ。昨日襲わなかったのは、予想外で咄嗟に対応できなかったんだろう。これも見張り役が少数で、冬馬さんたちに張り付く必要がないと判断した理由の一つだ」
「全員を見張ってたら分かるもんな」
「そう考えると狙うのなら五人揃った日だろうが、リンさんが遅番勤務になるから、揃うのはおそらく一週間後の早番勤務に戻った時だ」
「一週間、ですか……」
「一週間もこのまま打つ手なしって、可哀想すぎじゃねぇか?」
 椿が心配そうに呟き、志季が唸った。
「いや、じきに動く」
「なんで」
 晴が尋ねた。
「そろそろ龍之介さんが痺れを切らす頃だ」
 明確に言い切った宗史に、あー、と一斉に納得の声が上がる。
「あいつ我慢するってことを知らねぇからな」
「自己中だから、冬馬たちのことは二の次ってことか」
「何でも自分の思う通りにならないと気が済まない、我儘の典型だ」
 晴と志季と宗史の悪態に、椿が声を殺して笑った。
「当然こちらの動きを警戒しているだろうが、リンさんが遅番になったことは明日分かる。帰宅時間が遅いこともな。それに加えて見張りが龍之介さんの仲間であること、龍之介さんの我慢の限界であることやナナさんが泊まり込むこと。全てを総合して考えると、動く可能性が高いのはちょうど今日以降だ」
 晴が言った。
「送り迎えがあるにせよ、標的二人が揃ってるから夜中に押し込む可能性があるな。帰宅時間が遅ければ人目も無くなるし、家に侵入しやすくなる。……心配する気持ちが裏目に出た感じだな」
「いや、この場合良かったと考えるべきだ。無駄に長引かせるより、一日でも早く解決した方が彼女たちのためになる」
「あー、まあな」
「それで今日だが、圭介さんがナナさんを迎えに行き、リンさんの自宅に送ることになっている。圭介さんが自宅を出る時間もちょうど帰宅ラッシュだから、人目も多い。危険なのは夜だ。特に今日は豪雨だからな」
「雨風の音で少しの物音くらいじゃ不審には思われねぇか」
「ああ。今は(せん)右近(うこん)が哨戒に出ているから、椿、志季」
「はい」
「おう」
「リンさんの自宅に到着する時間に合わせて、一人は自宅で待機、一人は周辺を哨戒。おそらく車だろうから、不審な車両を見かけたら声をかけろ。もし龍之介さんの仲間だった場合は拘束して引き摺って来い。女性に不埒な真似をしようとするくらいだ、自宅以外に必ず溜まり場がある。尋問して吐かせる」
「警察じゃなくていいのか?」
 志季が尋ねた。
「警察と繋がりがある以上、揉み消される可能性が高い。全部吐かせてこちらで対処する。もちろん、龍之介さん共々な」
 彼女たちに二度と手出しをさせないようにすることが最大の目的ならば、こちらで牽制をかけた方がよほど確実だ。ついでに事件の関与についても、龍之介に口を割らせることができる。もし龍之介自身が関与していなくても、一之介(いちのすけ)のことを何か知っているかもしれない。
「よし分かった。任せろ」
「承知致しました」
「明日以降も同じだ。この豪雨の中悪いが、頼んだぞ」
「心配いらねぇって。神だからな」
 電話の向こうでふんぞり返っている志季を想像して、宗史と椿は小さく笑った。
「それと、下平さんには冬馬さんへの伝言を頼んである。送り迎えには車かタクシーを使うこと。椿と志季が護衛に付くことの二点だ。何か質問は?」
「ねぇぞ」
「私もございません」
 志季と椿は了解したが、晴からの答えがない。
「晴、何か気になるか?」
 いや、と呟くような答えとライターを擦る音が届き、紫煙を吐く息がしたあと、晴が口を開いた。
「ここまで考えさせといて言うのもなんだけどさ……正直、どう思うよ」
 神妙な声色に、宗史は静かに息をついた。気付いたか。
「なんだ? どういう意味だよ」
 志季が怪訝そうに尋ね、椿が首を傾げて宗史に視線を向ける。宗史はゆっくりと腕を組んで逡巡し、本音を口にした。
「リンさんとナナさんはともかく、冬馬さんたちについては、かなり低いと思う」
「だよな……」
 晴が嘆息しながら同意した。
「待て待て、二人で分かり合ってねぇで説明しろ」
「宗史様……」
 志季が少々苛立った声で急かし、椿が困惑した顔でわずかに身を乗り出した。
「よく考えてみろ。最終的にこの世を混沌に陥れるのなら、いくら殺し損ねたからといって執着する必要はない」
 あ、と志季と椿が小さく呟いた。
「結果的に同じってことか……」
「そうだ。それと平良だ。廃ホテルで良親(よしちか)が言っていたことを覚えてるか? 冬馬さんが襲われた時、樹さんは相手を殺そうとしたと」
「ああ、そういや、そんなこと言ってたな」
「ええ、確かに……」
「彼ら三人――特に冬馬さんを殺害すれば、間違いなく樹さんの逆鱗に触れる。全力で奴らを殺しにかかるだろうな」
 椿が息を詰め、電話の向こうからドンと乱暴に机に手を付いた音がした。
「まさか、樹を本気にさせるためにあいつらを殺すっていうのか?」
「俺はそう考えている。だが、今じゃない」
「今じゃない?」
「あれだけ手の込んだ罠を仕掛けたんだ。おそらく、樹さんと戦うための舞台も用意するはずだ」
 志季の長い溜め息が届き、椿が重苦しい息を吐き出した。
「確かに、あいつならやりかねないかもな……。じゃあ今回は、樹たちの判断が間違ってたってことになるのか?」
「いや、可能性の問題だ。今回絶対に狙われないとは言い切れない」
 樹なら平良の思惑に気付いたはずだ。そして、そこに私情があることも分かっていた。だからこそ相談し、また宗一郎と明も万が一の可能性を考えた。さらに言えば、もし今回の件に乗じて敵側が彼らを襲い、最悪冬馬たち三人が犠牲になれば、樹は必ず暴走する。大河のように。彼の霊力量を考えると、大河ほどではないにせよ、かなり強力な悪鬼を生み出すだろう。それに加え、血眼になって平良を探すことは明らかだ。彼を失うわけにはいかない。
 いっそこちらで保護するべきだとも思うが、下手に動けば敵を煽ることにもなる。彼らにも家族や友人はいる。殺害しなくても、危害を加えないという保証はない。それにまだ、内通者がいるのだ。人質に取られでもしたら、それこそ本末転倒だ。
「何にせよ、全て憶測だ。確証はない。十分警戒して護衛に当たってくれ」
「了解」
 椿と志季が声を揃えて答えた。
「他に何かあるか?」
 尋ねると、志季が思い出したようにあっと声を上げた。
「そういや、あれどうなってんだよ。紺野のこと」
 すっかり呼び捨てだ。
「聞いたのか」
「朝っぱらから呼ばれて相手させられたからな。朝飯食ってる時に聞いたぞ」
 ああ、と宗史は昨日の晴の話を思い出した。きちんと訓練に励んでいるらしい。
「宗一郎は何も言ってなかったのか?」
「いや、何も。ただ……」
「ただ?」
 宗史が意味ありげに言葉を切ると、晴と志季が声を揃えて聞き返した。
「楽しそうな顔をしていた」
 ああ……、と今度は揃って呆れたような声を漏らし、晴が言った。
「こっちもだ」
「明さんも?」
「ああ。あれ、絶対何か勘付いてんだろ。何なんだよ、隠す意味あんのか?」
「俺に聞くな。あの二人の思考は読めないことの方が多い。考えるだけ無駄だ」
 むしろ、あの様子は面白がっているとしか思えない。ひいては、問題がない、ということだ。あるいは、こちらに不利にならない謎だからこそわざと詳しい説明を避け、自分たちがどこまで気付くか試しているとも取れる。何も情報がないのに、どう推理しろと。
 宗史は眉根を寄せて息をついた。
「とにかく、それについては保留だ。父さんたちが動かないのならそれに従うしかない。俺たちがやるべきことをやるまでだ」
「はい」
 きちんと返事をした椿とは逆に、二人は揃った溜め息を返してきた。息が合っていて何よりだ。
「以上だ。他になければ切るぞ。日記を読みたい」
「あ、宗。読んだら内容教えろよ」
「自分で読め」
「そんな分厚いの半年かかるわ。じゃあ頼んだ」
「あ、おい……っ」
 理屈で反論されると勝てないと分かっているのだ。思わず身を乗り出した宗史の声を遮るように、さっさと通話が切れた。
 面倒という気持ちもあるのだろうが、今ばかりは日記よりも訓練を優先したいのだろう。それほど、明のあの一言は晴にとって重要な意味がある。
 仕方ないか、と息を吐くように口の中で呟いて、宗史は背もたれに体を預けた。
「宗史様。お疲れ様でした」
 楽しげにくすくすと笑いながら労った椿を見上げ、宗史はわずかに目を細めた。
「――椿」
 改まって名を呼ぶ宗史を、椿は声を収め、しかし笑みは残したまま見下ろす。窓を叩く雨音が響く部屋で、漆黒の瞳と紫暗色の瞳の視線がぶつかった。
「悪いな」
 向けられた主の真っ直ぐな眼差しと声には、明らかな憂いが含まれていた。
 椿は一度瞬きをすると、静かに目を伏せ、小さく首を横に振る。
「宗史様は、私の主です。何も謝ることはございません」
 落ち着いた声でそう言い置いて、椿はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「私などよりも、宗史様の方が心配です」
 透き通るような紫暗色の瞳が、風に吹かれた水面のようにゆらりと揺れた。美しい中に見える、悲しげな色。静かに告げられた気遣いに、宗史はふと笑みをこぼす。
「俺は大丈夫だ、ありがとう」
 心配するなと言っても、心配するのだろう。この心優しい式神は。
「さて」
 宗史はゆっくりと腰を上げ、戸口へ足を向ける。
「父さんに報告してくる。ああそれと、母さんに携帯を借りるから、何かあったらすぐに連絡しろ」
「承知致しました。宗史様、桜様の様子を見てまいりますね」
 先行して椿が開けた扉をくぐる。
「ああ、そうしてくれ。……まあ、怖がってはいないだろうけど」
「……桜様、お好きですよね……嵐」
 宗史と椿は、廊下から部屋の窓へ視線を投げて複雑な顔をし、無言のまま視線を逸らした。今頃、ベッドの上で窓の外を眺めていることだろう。わが妹ながら、少々変わっていると思う。
「何がそんなに楽しいんだろうな」
「さあ、私には……」
 扉を閉めながら交わされた二人の困惑気味の会話は、雨音に混じって隣の部屋にいる桜には届かなかった。
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