第9話

文字数 2,809文字

 その日は、妻の恵美(めぐみ)と娘の真由(まゆ)の三人で外出する予定だった。
 目的地は、京都府南部に位置する相楽群和束町(さがらぐんわづかちょう)。周囲を山々に囲まれ、麓に集落が点在する古き良き里山の風景が広がる地域だ。問屋を通して「宇治茶」として出回るため町の名は広く知られていないが、桃源郷ならぬ「茶源郷」と呼ばれるほど町や山全体に茶畑が広がる、宇治茶の産地である。
 茶畑はもちろんだが、和束川を見守るように佇む、巨石に掘られた弥勒菩薩像、聖武天皇の第二皇子が葬られている安積親王墓(あさかしんのうぼ)、紅葉の名所である平安時代に建立された正法寺(しょうほうじ)、同じく平安時代が始まりとされる和束天満宮、他には桜並木や樹齢千三百年の八坂の大杉など、見どころも多い。
 そんな町の観光案内所としての役目も果たしているのが、和束茶カフェという、和束町で生産されたお茶の直売所だ。和束のお茶を使ったケーキやお菓子が食べられるカフェスペースがあり、茶器や雑貨の購入、レンタサイクルの受付や観光マップも揃っている。またここでは、和束町運動公園内にある、山のてっぺんに建てられた「天空カフェ」の受付も行っている。
 行ってみたい、と言い出したのは真由だ。恋人と訪れた会社の同僚の話を聞いて、興味を引かれたらしい。
 和束町は恵美の出身地であり、同級生が茶農家を営んでいる縁もあって、何度か手摘み体験をさせてもらったことがある。年に数回訪れているが、ここ数年は観光らしい観光をしていない。いい機会だし行ってみようかということになった。
 天空カフェは、小ぢんまりとしたログハウスのような建物で、京都・高台寺の茶室がモチーフにされているらしい。京都府産のヒノキや杉が使われており、和束町が一望できる一組一時間貸し切りの茶室だ。食べ物や飲み物の持ち込みも可能。
 真由がネットで予約を確認すると、空いていたのがこの日の午前中か、午後二時から三時までの時間。昼食を摂り、観光をしてから和束茶カフェでデザートを買って行けばおやつの時間にちょうどいい、という女性陣の主張が採用され、夕飯は恵美の実家でいただくことになった。
 ひょんなことからの帰省と、絶景を望みながらスイーツが食べられるとあって、恵美も真由も楽しみにしていた。
 だが、遠出をするには少し残念な天気。時折強く吹く風に、空を流れるたくさんの雲は太陽と青空を隠し、しかし隙間からわずかに青空が窺える。昼間は曇、夜は雨の予報が出ていた。出歩くのは昼間だから、それまでもってくれれば問題ない。
「お母さん、真由、まだかい?」
 支度を終えた茂が玄関から声をかけると、ダイニングから慌ただしい足音と声が返ってきた。
「はーい、ちょっと待ってー」
「お母さん、ウェットティッシュどこー? 天空カフェって水道あるのかなぁ? あ、和束茶カフェで付いてくるかな?」
「心配なら持って行けばいいじゃない。大した荷物でもないし」
「分かったー」
 前もって準備をしておけばいいのに、などと他人事のように正論を言ってはいけない。茂は苦笑いを浮かべて、腕時計を確認した。十時半。自宅から和束町までは一時間ちょっと。昼食前にちょっとのんびり観光、というわけにはいかないようだ。朝が苦手な娘のために遅めの出発にしたのだが、支度に手間取ることを想定して九時にしておくべきだった。
 別段急ぐわけではないし、まあいいか。
 先に車で待っておこうと土間に下りようとした時、携帯が震えた。ジャケットのポケットから携帯を取り出すと、画面には勤務先の中学校の名が表示されていた。何かあったのだろうか。
 茂は首を傾げながら通話ボタンを押した。
「おはようございます、佐伯です」
「あっ、おはようございます三浦(みうら)です。すみませんお休みのところ」
 相手は同じ学年を担当する男性教諭だ。焦ったような早口は、どこか緊張感が含まれている。
「いえ。どうされました?」
「実は、今しがた新風堂さんから電話がありまして」
「近くの本屋さんの?」
「ええ。うちの学校の生徒が万引きをしたと。それが、先生のクラスの藤木麻里亜(ふじきまりあ)らしいんです」
「え!?」
 不穏な話しにも驚いたが、その行為をした人物にさらに驚いた。ちょうどリビングから出てきた恵美と真由がぎょっとして足を止めた。何かしら、といった顔を見合わせる。
「本当ですか」
「ええ……」
 藤木麻里亜は確かに茂が担当する二年三組の女子生徒だが、至って普通の生徒だ。特別目立つわけでもなく、地味というわけでもない。クラスにも馴染んでおり、仲の良い友達もいる。成績も悪くないし生活態度も良好だ。家庭訪問でも問題があるようには見えなかった。そんな彼女が何故万引きなんか。いや、今はそんなことを考えている場合ではないし、動揺しても仕方ない。
 茂はゆっくりと深呼吸をして気を立て直した。
「分かりました。すぐに行きます」
「お願いします。私もすぐに向かいますので。それと、ご家族にも連絡をしたんですが、お二人とも仕事中らしくて少し時間がかかるそうです」
「そうですか、分かりました。ではよろしくお願いします」
 茂はすぐに電話を切り、心配そうな顔で様子を見ていた恵美と真由を振り向いた。
「ごめん、ちょっと学校で問題が起きたみたいなんだ。行ってくるよ。二人はせっかくだから行っておいで。僕はタクシー拾うから」
「でも……」
 そんなわけには、と言いたげに顔を見合わせる二人に、茂は微笑んで背を向けた。
「予約の時間に間に合うか分からないけど、あとで追いかけるから。二人とも楽しみにしてたじゃないか。いいから行っておいで」
「あっ、待ってお父さん」
 土間に下りて靴に履き替える茂に、真由が小走りに寄った。
「送るよ。学校でいいの?」
「いや、でも……」
「いいから。急いでるんでしょ?」
 茂の言葉を遮って靴に履き替える真由の後ろから、恵美も駆け寄ってきた。
「あなた、行きましょう」
 ぽんと背中を軽く叩き、真由を追いかけるように恵美も土間に下りた。
「じゃあ、頼むよ」
 早く、と玄関扉を開けて急かす真由に続いて、慌ただしく扉をくぐる。
 恵美が助手席、茂が後部座席に乗り込むと、真由はすぐに車を発車させた。
「真由、学校じゃなくて近くの本屋に行ってくれるかい」
「本屋って、新風堂のこと?」
 そう、と茂が答えると、真由は一瞬口をつぐんだ。
「分かった」
 察してくれたのだろう、恵美も特に突っ込んで聞いてくることはなかった。
 新風堂書店は、京都府内に店舗を構えるチェーン店だ。茂が勤務する学校の近くの店舗は路面店で、広くはないが駐車場が完備されていて、近所の住民はもちろん、高校も近いため学生客も多い。
 真由はハザードを点滅させて路肩に車を寄せた。
「ありがとう。あとで連絡するよ。こっちは気にしなくていいから、楽しんでおいで。気を付けて行くんだよ」
「うん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 慌ただしくシートベルトを外して車から降りる茂を、二人は笑顔で見送った。
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