第14話

文字数 2,561文字

「息子は……」
 佳代が涙声で口を開いた。
「雅臣は、犬アレルギーなんです」
 脈絡のない話しに一瞬戸惑ったが、口を挟む雰囲気ではない。黙って耳を澄ませる。
「今のような真夏でした。小学生の頃、植え込みで鳴いていた子犬を拾って帰って来たんです。くしゃみをして、鼻をすすりながら。本人もアレルギーがあると知っていたので、驚きました。どうして拾ってきたのって尋ねると、このままだと死んじゃうかもしれないからって。誰かもらってくれる人を探してあげてって言うんです。結局、保護施設に連絡して引き取ってもらうことにしたんですが、あの子別れ際に言ったんです。飼ってやれなくてごめん、優しい人にもらわれてねって。あの子は、そういう子なんです。本当に、優しい子なんです……っ」
 小さく嗚咽を漏らしながら語られた話しは、展望台で見た雅臣とは別人のようだった。そう思う反面、根本は変わっていないのではとも思った。
 自分だけのためじゃない。雅臣は、そう言ったのだ。それが桃子なのか、仲間のためなのかは分からない。けれど、自分以外の誰かのために、こんな事件を起こしたのは間違いない。
 尊が俯き、肩を竦めて背中を震わせる。真理子もまた嗚咽を漏らし、智至が両手をきつく握った。
 医者を目指し、アレルギーがあると知っておきながら子犬を助け、幸せを願う心優しい少年。そんな彼を、あんなふうにしてしまった。そんな後悔と罪悪感が、息苦しいほどに伝わってくる。
「すみません……」
 尊が涙声で呟き、ぱたぱたと落ちた涙がたたきに染みを作る。
「ごめんなさい、すみませんでした。もう二度としません。ごめんなさい……」
 ごめんなさい、と何度も何度も繰り返される言葉が、広い玄関ホールに悲しく響く。真理子が尊へ腕を伸ばしかけたが、堪えるように拳を握り、ゆっくりと引っ込めた。
 小刻みに体を震わせる尊を見つめていた利久が、ゆっくりと腰を上げた。佳代もゆらりと立ち上がる。
「こうして直接謝罪をしていただいたことは、嬉しく思います。そちらのお気持ちは、十分理解しました。ですが、やはり和解するつもりはありません。どうぞ、お引き取り下さい」
 落ち着いた口調ながらも強い声色に、尊たちが肩を落とした。さすがに許してもらえるとは思っていないだろうが、こうもはっきり断言されては落胆するのも無理はない。
 力なく腰を上げると、智至が内ポケットを探った。取り出したのは茶封筒だ。両手で差し出す。
「できる限りの金額を思い出させました」
「結構です」
 食い気味にぴしゃりと一蹴されて、智至は縋るような目を向けた。
「しかし……っ」
「金銭の問題ではありません。それに、貴方がたが全ての責任を負う必要はない。それは受け取れません。どうぞお引き取りを」
 そう告げるなり、利久は成り行きを見守っていた下平たちへ視線を投げた。頑なな眼差し。これ以上は無理か。下平と榎本は顔を見合わせた。下平が扉を開け、榎本が智至の元へ歩み寄る。
行きましょうと小さく告げると、智至は俯いたまま、後ろ髪を引かれるように差し出した封筒を引っ込めた。ゆらりと踵を返したのを見てから、尊と真理子も続く。ぐずぐずと鼻をすすりながら尊と真理子が扉をくぐった時、利久が声をかけた。
「下平さん」
 扉をくぐりかけた榎本も、足を止めて振り向いた。
「少し、よろしいでしょうか」
 捜査の進捗でも聞かれるのだろう。下平は榎本に「先に行け」と視線を送った。
 榎本たちを送り出して扉を閉めたとたん、利久が大きく息を吐き出した。
「彼らは、心から謝罪してくれました。……冷たいと、思われますか」
 自嘲気味な笑みと物言いに、下平は首を横に振った。
「いいえ。むしろ、最大限の譲歩をされたと思います」
 尊や本山涼たちにどんな事情があったとしても、雅臣には全く関係がない。身勝手な理由から息子の人生を狂わされたのに、謝罪されたからといって終わりにできる親がどこにいる。むしろ利久たちは、これ以上ないほど紳士的な対応と譲歩をした。
 謝罪の申し出を受け、感情的に責め立てるようなことをせず、自分たちにも非はあると認めた。その上で和解の意思はないことを伝え、けれど尊たちが全責任を負う必要はないと、擁護するようなことを口にした。他の仲間にも、そして自分たちにも非があると分かっているがゆえの、矛盾する行動。
 もし雅臣が別の選択をしていたら、もっと分かりやすく尊たちを責められただろうに。
 利久は、ありがとうございますと言って力なく笑った。
「あの……」
 佳代が胸の前で両手を握り、下平を見上げて身を乗り出した。期待と不安が混じった目だ。
 この様子では、桃子から展望台の件は聞いていない。熊田たちが口止めをしたからだろうが、さらに苦しませると思ったのだろう。だが、どのみち雅臣を捕まえれば全部知るのだ。
 それなら――と口を開きかけ、大河の「死ぬつもりではないのか」という憶測が脳裏を掠った。あくまでも憶測で、健人に対してのものだけれど。
 逡巡し、結局無言で小さく首を横に振った。
「捜索は、続けていますが……」
 言いながら、もどかしさと罪悪感を覚えた。襲撃事件から十日。利久と佳代は、希望と不安の狭間にいる。居場所は未だ分かっていないが、雅臣が生きていることだけでも伝えてやれば、少しは安心させてやれる。だが、もし大河の憶測が当たっていて、その通りになってしまったらと考えると、どうしても言い出せない。
 ひとまず安心させてやるべきか、期待をさせずにおくべきか。どちらが正解なのか、分からない。自分だったら、どうして欲しいだろう。
「そうですか……」
 二人から、残念そうな溜め息が漏れる。利久が、気を取り直すように目を伏せ、瞼を持ち上げた。
「下平さん。彼以外に、あと二人現場にいたんですよね」
「はい」
「連絡を取っていただけませんか。なかなか心の整理が付かず今頃になってしまいましたが、少し落ち着いたように思えます」
「分かりました。先方に伺っておきます」
「よろしくお願いします」
 利久は微かな笑みを口元に浮かべた。
「今日は、立ち会っていただいてありがとうございました。どうか、引き続きよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 丁寧に頭を下げる二人に、下平はただ「はい」としか返せなかった。
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