第16話

文字数 3,706文字

         *・・・*・・・*

 絡まれてからちょうど一週間後。あの日と同じ時間。
「菊池くん」
 あの日と同じように、信号待ちをしているところで桃子に声をかけられた。
「お疲れ様。あの……一緒に、いいかな?」
「あ、うん」
 少し遠慮気味に尋ねたのは、あの日、雅臣のそっけない返答を気にしているからだろうか。学校で話すことなどないから、挽回や弁解をする余地もなく一週間が過ぎた。気にならないわけではなかったが、しかしどうすればいいのか、その方法すら分からない上に、またヘマをしたらどうしようという自信の無さが躊躇を生んだ。
「あの、この前のことなんだけど……」
「え?」
 あの日と同じ道を並んで歩きながら、桃子が緊張した面持ちで口を開いた。
「ごめんね、つまんない話しばっかりして。あたし、気が利かないから……」
「え、いや……」
 もごもごと口の中で言い淀む。緊張で、どう返せばいいのか分からない。頭が真っ白だ。
 まただ。勉強では同じミスをしないようにと細心の注意を払うのに、どうしてこういう時は同じミスをしてしまうのだろう。これではまた、あの日と同じだ。
 駄目だ、落ち着け、考えろ。雅臣はゆっくりと深呼吸をした。
 こうして桃子が自嘲的に謝ってきたということは、つまりそれは自分のそっけない返事や態度を「興味がない」と取ったからだ。だから彼女は自分を卑下した。そうさせたのは、自分だ。自分の態度が、一切悪くない彼女に罪悪感を覚えさせた。最悪だ。
 ならば、どうすればいい。彼女は悪くない。決して悪くないと伝えるには。
「あの、じゃああたしこれで……」
 沈黙に耐えられなかったのか。桃子は俯いたまま早口で告げると、一歩踏み出した。
 まずい。駄目だ。今ここで言わなければ。でも何を。いやとりあえず彼女を引きとめなければ。
 雅臣は物凄い勢いで頭の中を回る自分の言葉にきつく目を瞑り、立ち止まってから意を決したように声を上げた。
「あの……っ」
 桃子が、驚いた顔で振り向いた。
 引き止めたはいいが、何をどう言えばいいのか、まったく頭に浮かばない。パニックだ。
「あの、えっと……」
 桃子がゆっくりと引き返してくる。
 どうすればいい。何を言えばいい。何をどう言えば、誤解が解ける――そうか。
 誤解だ。今自分は誤解を解こうとしている。あの日、あの態度は決してつまらなかったわけじゃなく、ただ緊張していただけなのだと。慣れていないから、何を話せばいいのか分からなかっただけなのだと。そう伝えればいいだけのこと。何も、恰好をつける必要はない。そもそも、ダサい自分が格好つけてどうする。
 雅臣は一文字に唇を結び、見上げてくる桃子を見下ろした。今にも破裂しそうな心臓を宥めるために、大きく息を吸ってから、言った。
「あの、俺、女子と話すこととか、あんまなくて……ていうか全然なくて、だから、緊張してそっけない返事とかしたけど、でも、松井さんの話がつまらないとか思ってないから。むしろ俺の方がつまらない奴でごめん、っていうか、気の利いた返事とか出来なくてごめんっ」
 勢い余って頭を下げた。おそらくこれがテストなら百点満点中二十点もない。ぐだぐだの出来だ。顔が茹で上がるかと思うくらい熱い。握った拳は汗まみれだ。
 自分が告げた言葉を桃子がどう思うか、どんな反応が返ってくるか――怖い。
 そうか。自分の言葉に対する反応を待つという時間は、こんなにも怖いものなのか。ならあの日、そっけない返事を聞いた桃子はどんな気持ちだったのだろう。本当に、悪いことをした。
 そう雅臣が自己嫌悪をしていると、ふふ、と小さく笑い声が聞こえた。
 笑われた? そうか、そうだよな。おかしいよな。急速に熱が冷めていくのを感じた。
「菊池くん、もういいよ。頭、上げて?」
 優しい声と共に、肩に遠慮がちな小さな手が乗った。
 雅臣がゆっくりと頭を上げると、桃子が口に手を添えて小さく笑い声を漏らしていた。その仕草がやたらと可愛くて、つい見惚れた。だが、
「あ……」
 往来ということを忘れていた。雅臣は顔を真っ赤にして俯いた。
 通行人たちが、くすくすと笑いながら横目に通り過ぎていく。中には「仲直りしろよー」とヤジを飛ばして行く酔っ払いもいた。喧嘩なんかしてないし、ましてや付き合ってすらないのに。けれど、傍から見たらそう見えるのだろうか。
「ご、ごめんこんな所で」
「ううん、大丈夫。行こ?」
 少し照れ臭そうに笑って、桃子は雅臣の袖口をちょっとつまんで引っ張った。
 二人並んで、あの日よりもゆっくりと歩く。左に曲がり、アーケード街に入る。
「ほんと、ごめん……」
 今度は自分から切り出した。桃子は苦笑し、雅臣を見上げた。
「大丈夫、気にしないで。あたしも菊池くんと話してる時、緊張してたし。だから、つまんない話をして嫌われちゃったかなって思って、気になってたの」
「緊張してたの? 松井さんも?」
 うん、と桃子は頷いた。
「あたしも、あんまり男子と話ししないし。でも……」
 桃子は顔を逸らし、戸惑う素振りを見せた。しばらくして、意を決したように一気に告げた。
「菊池くん、前に外国の人に道案内してあげてたでしょ? あの日、塾で模擬テストがあって絶対遅刻出来なかったのに。大丈夫なのかなって思ってたら、菊池くんすっごい勢いで教室に入ってきて、言い訳もしないでひたすらすみませんって謝ってたじゃない。菊池くんいい人だなって、恰好いいなっておも……っ」
「え……」
 聞き間違えか。不意に言葉を切った桃子を振り向くと、顔を真っ赤に染めて両手で口を塞いでいた。
「ああああの……っ、その……っ、ちっちが……いや違わないんだけど……っ」
 だからその、と肩を竦めて俯く桃子を呆然と見下ろす。
 期待しても、いいのだろうか。ダサいだのウザいだの言われ、自分でもそう思うこんな自分に、好意を抱いてくれていると。もちろんそれは恋愛感情ではないかもしれない。けれど、男としてでなくても、桃子に人としてそう思われているのなら、それだけで、もう。
「松井さん」
「はいっ?」
 上ずった声と共に勢いよく見上げられ、雅臣はきょとんと目を丸くした。一瞬、二人顔を見合せたまま固まって、同時に噴き出した。
「お互い、慣れてないね。こういうの」
「うん。慣れてないね」
「あのさ、連絡先、いいかな?」
 自分でも驚くほどするりと出た。極度の緊張を通り過ぎると、どうやら人は開き直るらしい。
「あ、松井さんがよければだけど」
 雅臣が鞄を探りながら言うと、桃子は無言のまま何度も頷いて携帯を取り出した。
 邪魔にならないように端に寄り、携帯を操作する。
「俺、女子の連絡先って松井さんが初めて」
「あたしも、男子の連絡先は菊池くんが初めて」
「俺ら、ちょっと似てるね」
「うん、似てるね」
 小さく笑い合い、携帯をしまってどちらともなく足を進める。
 今日塾で行われたテストの答え合わせ、普段の勉強方法やお勧めの参考書、苦手な分野など、もっぱら勉強に関する話題ばかりで色気などまったくない。けれどそれが自然に思えて、楽しかった。
 JRと地下鉄の入り口の前で足を止め、向かい合う。このまま別れるのは名残惜しい。でも、仕方ない。
「じゃあ」
「うん」
「気をつけてね」
「うん。菊池くんも」
 ひらひらと手を振り階段を下りていく桃子を見送って、雅臣は息を吐いた。緊張していたわけではないが、心臓の鼓動はいつもより早い。まさか、こんな結末になるとは思わなかった。勉強ばかりで異性とは全く無縁の生活。このまま一生彼女などできなさそうだなと思っていた。いや、桃子は彼女ではないが。
 でも、それでもこの初めて感じるほんのりと温かい気持ちは、心地良い。
 雅臣は桃子が姿を消した入口を見やり、自分も地下鉄への階段へ足を向けた――と。
「菊池ぃ」
 嫌な声が耳に飛び込んできた。この声は、本山の声だ。振り向くと、一週間前と同じ顔触れでにやにやと嫌な笑みを浮かべてこちらに近付いて来ていた。あっという間に回りを囲まれる。
 暖かい心地良さは一気に萎え、不快感が胸に広がった。
「今の松井だよな。なに、お前ら付き合ってんの?」
「地味な女ぁ。だっせ」
「でも結構胸でかかったぜ?」
「なにお前、あんなの好みなのかよ」
「まさか。ヤるだけならでかい方がよくね?」
「うっわサイテーだな」
 げらげらと下品な笑い声を上げる。桃子のことをそんな風に言われて黙っているのは癪に障る。だが、腕に自信があるわけではないし、四人はさすがに無理だ。
 雅臣は拳を握り、しかし無言のまま、間をすり抜けようと無理矢理体を滑り込ませた。だがすぐに前を塞がれる。
「待てって」
 本山が雅臣の肩を掴み、耳元に顔を寄せた。
「このまま逃げてもいいけど、松井がどうなっても知らねぇぞ?」
 目を剥いて本山を振り向く。本山はにやりと歪に口角を上げた。
「健康な男子高校生は溜まるのも早ぇからなぁ」
 こいつら。
 唇を噛み、雅臣は一歩下がった。
「頭がいい奴ってのは話も早くて助かるわ。来いよ」
 そう言って本山は雅臣を一瞥し、先行した。まるで連行されるように、雅臣は本山の後に続いた。
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