第10話

文字数 4,610文字

 ふとバックミラーを見やると、後部座席の二人がうとうとと船を漕いでいた。マジか、とつい苦言が漏れる。冬馬が振り向いて笑いを噛み殺した。
「意外と神経太いなこいつら」
「朝まで仕事でしたし、昼には良親に叩き起こされましたからね。それに、安心して気が緩んだんでしょう」
「ああ、まあ気持ちは分かるが……」
 あと十分もしないうちに到着する。下平はそのまま口を閉じた。昼からずっと神経を張り詰めていただろう。到着してから起こしてやればいい。
 下平は小さく息をつき、声量を落として尋ねた。
「草薙のこと、こいつらは知ってたのか」
「いえ、教えていません。正直言って、こいつらのはったりは場数を踏んだ相手には通用しません。連絡は来たかと挙動不審になられると困ります」
「もしナナが気付かなかったら、どうするつもりだったんだ?」
「陽、でしたか。彼の家族がGPSに気付いて警察が来るのを待つしかなかったですね。ただまあ、二人が――特にナナが気付く確率は高いと思ってました」
「何でだ」
「奴らはプロじゃない。二人を見失うわけにはいかないというプレッシャーから、距離を詰めるんじゃないかと思いました。二人は昨日のこともあって警戒心が強くなってますしね」
 よくもまあそこまで考えられるものだ。下平は、自分でも呆れているのか感心しているのか分からない嘆息をついた。
「つっても、ほぼ賭けみたいなもんだな」
「ええ、それしか手がありませんでした。良親は俺が下平さんを信用してることも知ってたので、真っ先にそこを突かれました。言えばすぐにリンとナナを襲わせると。仲間の数も動きも全く分からないまま、むやみに動くのは危険だと思いました。良親たちに気付かれて一番危険なのはリンとナナです。彼女たちを傷付けるわけにはいきません。どうしても」
 女性だから、智也と圭介のお気に入りだから、アヴァロンの常連だから、事件に巻き込んでしまったから、誰かが傷付くのを見たくないから。理由は一つではない、この全てだろう。
 信用していると言われるのは光栄だが、だからこそ、力になれなかったことが悔やまれる。
「良親に狙われる心当たりは?」
 単刀直入に尋ねた下平に、冬馬はそうですねと溜め息交じりに呟いた。
「単純に、気に食わなかったんじゃないですか? 一人や二人いるでしょう、相性最悪の相手って」
 下平は眉根を寄せた。
「そりゃいるだろうが、だからってここまでしねぇだろ」
「よっぽど胸くそ悪かったんでしょうね。俺の存在が」
 冗談でもさらりと言う言葉ではない。
「お前、この期に及んで煙に巻こうとすんな」
 呆れ気味に苦言を呈した下平に、冬馬は短く笑った。
「そんなつもりありません。本当に分からないんです。ああ、この辺みたいですよ」
 目的地周辺です、とナビの機械的なアナウンスが流れた。下平は適当な場所で一旦停車させ、冬馬が後部座席を振り向いた。
「智也、圭介、着いたぞ。起きろ」
 んー、と二人は寝ぼけた声を上げ、はっと目を開いて飛ぶように傾いた体を起こした。若干車体が揺れた。
「すみませんつい!」
「すみません!」
「いい、気にするな。それより、この辺りで大丈夫か?」
 ハザードの点滅が住宅の塀に反射している。圭介がぐるりと周囲を見渡し、はいと頷いた。
「すぐそこです」
 シートベルトを外す二人に、冬馬が言った。
「お前ら、明日の仕事しんどかったら休んで構わないから。連絡だけしてくれればいい」
「いえ、俺たちは大丈夫ですけど……」
「そうですよ。俺たちより冬馬さんの方が心配です。体調大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、心配ない。これでも頑丈にできてる」
 本気なのか冗談なのか、冬馬は不敵に笑った。本当にタフな男だ。智也と圭介が安堵の息を吐いた。
「じゃあなお前ら、よく休めよ」
 十一時を回っている。あまり長居するとアイドリングの音が近所迷惑になってしまう。下平が口を挟むと、二人ははいと返事をして扉を開いた。
「ありがとうございました。おやすみなさい」
「ありがとうございました。気を付けて」
 智也と圭介は車を降りながら礼を言い、扉を閉めた。腰を折ってぺこりと会釈をした二人に、冬馬が笑顔を返す。
 ゆっくりと走り出した車をしばらく見送る智也と圭介が小さくなってから、下平は尋ねた。
「で、お前はどこだ?」
「ああ……鞍馬街道沿いです」
 一瞬開いた間は何だ。しかもそれでは分からない。
「もっと詳しく言えよ」
 冬馬はまた妙な間を開けて言った。
「……晴明神社のすぐ側です」
 それなら分かりやすい。初めからそう言えばいいものを。
「へぇ、いいとこ住んでんだな……って、は!?」
 思いもよらない名前が出てきた。ハンドルを握る手に力を込めて腹の底から素っ頓狂な声を上げた下平を見て、冬馬は苦笑いを漏らした。
「想像通りの反応ですね」
「いやだってお前、そりゃ……ずっとそこか?」
「はい。店長になった時から、ずっと」
 樹は冬馬の自宅に出入りしていた。何かの縁、だろうか。
 よくよく考えてみれば、きっかけは智也と圭介だったにしろ、樹に声をかけたのは冬馬だ。そして三年前、樹を保護したのは間違いなく陰陽師の誰か。あのまま放置されていれば、冬馬たちは逮捕されていただろう。さらに今日、陽の誘拐に加担し、自らも殺されかけたところを陰陽師たちに助けられ、庇われた。
 縁があるのは、冬馬の方か。
 下平は感心したように息をついた。本当にあるのか、こんなことが。
 小さく笑う冬馬を横目に見やり、下平はこっそり頬を緩めた。いつも見ていたあの癪に障る笑みではなく、自然な笑顔。
 下平は気を取り直すように缶コーヒーを煽った。
「そういや、この際だからちゃんと答えてもらうぞ」
 倣うようにスポーツドリンクを飲んだ冬馬が、口を離してから首を傾げた。
「何ですか?」
「お前の物騒な噂のことだ。あれ、実際のところどうなんだ」
 ああ、とペットボトルの蓋を閉めながら漏らした声は、そんなこともありましたねと言いたげだ。
「あれ、俺です」
 思考が停止しかけた。運転中にやめろ、事故ったらどうしてくれる。下平は無理矢理脳みそを再稼働させた。
「待て待て、どういう意味だ、分からん」
 ドリンクホルダーにペットボトルを入れながら、くつくつと面白そうに笑う冬馬を横目で睨む。
「下平さん、俺が店長に就任した時、何人か辞めたの覚えてます?」
「ああ」
「初めのクスリと売春は、多分そいつらです。確証はありませんけど、当時からあまり良く思われてませんでしたから。今日もいましたよ、そいつら」
「ほんとか」
「ええ。大広間に連れて行かれてから、当時の恨みつらみを吐かれながら散々殴られました」
「な……っ」
 あの傷は譲二にやられただけではなかったのか。下平は言葉を失い、やがて盛大に息を吐き出した。暴行を受けたことを他人事のように口にするなんて、精神的にも本当にタフな男だ。
「じゃあ他の噂は誰だ?」
「ですから、俺です」
 下平は眉根を寄せた。
「自分で自分のあんな噂を流したのか?」
「はい」
「何で」
「あの手の噂は一つ二つだと真実味があって、否定しても信じてもらえないんですよね。でも、あまり数が多いと薄れるらしいですよ。しかも殺人まで出てくるとさらに嘘っぽいでしょう。罪を一通り犯しておいて店長やってるなんて、普通に考えておかしいですよ」
「……まあ、確かにな」
 罪の数は多々あれど、あれだけ罪を重ねれば必ずどこかで警察が気付く。それに実際、客も次第に興味をなくしていた。
「じゃあ、それを狙って自分で流したのか」
「はい。厳密に言うと、スタッフ総出で」
「はあ!? スタッフ全員グルだったのか!」
 素っ頓狂な声に冬馬は声を上げて笑った。笑いごとではない。
「例えば、実は脅迫もやってるって話を聞いたんですよ、みたいな?」
 途中で声量を落とし、小首を傾げて小芝居をした冬馬に下平は青筋を浮かべた。
「みたいな? じゃねぇ! 何で言わねぇんだ!」
「すみません。極秘任務でしたから」
「ちょっと格好良い感じに言うな、腹立つ!」
 あまりの腹立たしさにハンドルをばんばん叩くと、冬馬がまた声を上げて笑った。お前はほんとに! と歯の隙間から苛立ちを吐き出す。したたかだとは思っていたがここまでとは。
 スタッフ全員が協力したということは、全員冬馬の潔白を信じていたことになる。それだけ信用されていた証拠だ。当時のスタッフのほとんどは就職・転職や結婚などで円満退職しているが、まだ数人残っている。今でも時折ぶり返したように冬馬の噂がちらほらと流れるのは、その時の残り火なのだろう。一度流れた噂は、悪いものほど容易には消えてくれない。けれど、当時をよく知るスタッフがいて、智也と圭介がいるのなら悪化することはない。
 とは言え、こっちは真剣に噂の真相を調べて心配もしたのだ。それをこいつは影で笑っていたのか。ますます腹が立つ。
 膨れ面で前を見据える下平に、冬馬が呟くように言った。
「感謝しています」
「あ?」
 顔を隠すように俯いた冬馬を一瞥する。
「俺を信じて協力してくれたスタッフや、当時を知らないのに噂を聞いても笑い飛ばしてくれる今のスタッフや客。辛く当たってもついて来てくれた智也と圭介、それと、心配してくれた下平さんも。ここまでやってこられたのは、皆がいてくれたからです。感謝しています」
 穏やかな声で告げられた感謝の言葉は、まるで別れ際の挨拶のようだった。
「俺は、恵まれています」
 冬馬はしみじみと、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
 ああ、そうか。
 やっと分かった。冬馬が、樹を仕事に誘った理由が。
「それは、今までお前が仕事に真剣に向き合ってきたからだろ」
 冬馬がゆっくりと顔を向けた。
「俺も伊達にこの年まで生きてねぇ。努力が全部報われるわけじゃねぇことも知ってるし、真面目に生きてりゃいつか絶対認めてもらえるとも思ってねぇ。けど、それを見てる奴はちゃんといるんだよ。そんでそれに感謝できる奴は信用されるし、自然と人も集まる。お前がいい例だ。その気持ち、忘れんなよ」
 冬馬はじっと下平を見つめ、再び前を向いて俯いた。はい、と小さな返事が聞こえた。
 智也と圭介も、リンとナナも、競合店のノブもそうだ。ノブは頑なに認めようとはしなかったけれど、冬馬への評価はかなり高いだろう。それもこれも、冬馬が真剣に仕事や人と向き合い、必死に守ろうとしてきたからだ。ただ見てくれがいいとか、仕事ができるとか、金を持っているとか、そんな吹けば飛ぶような単純な理由だけで、人は人を慕ったりしない。守ろうとはしない。
 それは、樹も同じだ。
 三年前のことがあって、多少気持ちは揺れたかもしれない。だが最後は、冬馬を信じた。守ろうとした――別れることで。
 もしこんな状況でなければ、もっと別の形で再会していたら――。
 下平は不毛な仮定に溜め息をついた。こんなこと考えても無駄だ。過ぎてしまったことはどうしようもない。
 けれどもし、本当に冬馬に縁があるのなら、また会えるだろう。それが何年、何十年後かは分からないけれど、きっと。
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