第17話

文字数 3,070文字

 翌日、香苗は身支度を済ませると、朝食の支度をした。よかったら、と勧められて食卓に付く。ハムとチーズとキャベツ、卵とベーコンのホットサンド、野菜のコンソメスープ、サラダ、ヨーグルトにはいちごジャムがかけられている。
 昼食や、時には夕食を宗一郎たちと摂ることはあるが、朝食時に召喚されることはほぼない。なかなか新鮮だ。美味い、と褒めると、香苗は「いえそんな」と言いながら照れ臭そうに笑った。
 慣れた手付きで後片付けを終わらせ、物置と化している隣の和室の押し入れからキャリーケースを引っ張り出し、自分の物を丁寧に詰めていく。洋服、教科書やノート、通学用の鞄、靴、制服など、全てまとめても、キャリーケース一つと紙袋一つ分にしかならない量だった。
 荷造りを終えると、今度は律儀に掃除を始めた香苗を、右近はソファに座って手持ち無沙汰に眺めた。年末の大掃除に必ず毎年駆り出されるため、やり方は分かる。何か手伝えることはあるかと尋ねると、恐縮して「すぐに終わりますから」と言って断られた。
 立つ鳥跡を濁さずということわざが頭に浮かんだ。
 午前十時頃。
 空っぽになった部屋を見渡したあと、香苗は宗一郎の連絡先を聞いてきた。友人に挨拶はしないのか、と尋ねようとして、やめた。問題は言い訳ではなく、離れ難くなることだろう。
 携帯を持っていない上に固定電話も契約していないらしく、香苗は宗一郎の携帯番号を控えたメモと財布を持って一度家を出た。近くのコンビニに公衆電話があるらしい。一緒に行こうと申し出たが、十分程で戻るからと言ってこちらもまた断られた。どうやら目立つらしいことは自覚があったので、無理強いはしなかった。
 携帯電話が広く普及した頃から、固定電話の需要が減ったとは聞いたが、子供に携帯を持たせていないのに固定電話すらないとは。緊急時はどう連絡を取るつもりだったのか。おそらく、ほとんど使用しない物に金を払いたくなかったのだろう。あの両親がどれほど身勝手で、香苗をないがしろに扱っていたのかがよく分かる。
 右近はぐるりと部屋を見渡した。
 掃除は、邪気を払うための清めの行いだ。あれだけ私利私欲にまみれた両親がいながらこの家の空気が淀んでいなかったのは、香苗が毎日きちんと掃除をしていたからだ。香苗が去ったあと、どうなるかは考えるまでもない。
 気にしてやる義理もないが、と右近は突き放すように目を伏せて腰を上げた。
 掃除中からずっと開け放している窓から、何気なく外を眺める。と、ああ香苗ちゃん、と元気の良い女の声が響いた。マンション前の狭い道路で、香苗が大量のビニール袋を提げた中年の女性から声をかけられていた。どうやら知り合いのようだ。
 ひとしきり会話をしてから、香苗は女性に何度もお辞儀をして逃げるようにマンションに駆け込んだ。
 しばらくして玄関の扉が開き、右近は窓辺から離れた。
「おかえり」
「えっ、あ、た、ただいま」
 少し息を切らして、コンビニの袋を提げた香苗が我に返ったように答えた。
「先程の者は、知り合いか」
「あ、はい。友達の、お母さんです」
 リビングに入ると、俯いて足を止めた香苗に右近は首を傾げた。
「どうした?」
「あの……田舎から、じゃがいもと玉ねぎがたくさん届いたから貰って欲しいって言われて。どう断っていいか分からなかったので、引っ越すからって言ったら、どこに行くのって聞かれて、田舎のおばあちゃんちにって、言いました……」
 あの大量のビニール袋は近所に配るためのものだったらしい。
 嘘をついたことに罪悪感を覚えているのか、それとも話したこと自体へか。香苗は申し訳なさそうに肩を竦めた。いずれ越したことは分かるし、まさか陰陽師の寮に入るとは言えないだろう。
「そうか。何も問題はない。して、宗一郎と連絡はついたか?」
 話題を変えてやると、香苗はほっとした面持ちで顔を上げた。
「はい。一時間くらいで来られるそうです。それで、あの、ここじゃなくて、大通りの方に、お願いしました」
 知り合いに見られたくないか。
「分かった」
「それと、伝言が」
「何だ?」
「その……う、右近さんは、目立つからと……」
 気まずそうに視線を泳がせる香苗を見て察した。一緒に来るな、と言われたのだろう。宗一郎は一体どんな言い草をしたのか。
「承知した」
 すんなり了承すると、香苗はまたほっと胸を撫で下ろした。
「あ、これ。時間があるので、お茶を買ってきました」
 そう言って袋からミニサイズのペットボトルを取り出し、両手で右近に差し出した。
「気を使わせてすまない。いただこう」
 素直に受け取ると、香苗は嬉しそうに微笑んだ。
 ソファに二人並んで腰を下ろし、黙ってお茶を飲む。ふと視線を感じ、右近は香苗を振り向いた。
「何だ?」
 香苗は気まずそうに目を逸らし、ペットボトルに視線を落とす。
「いえ、あの……目が、綺麗だなと」
 思って、すみません、と言葉尻を小さくして何故か謝る香苗に、右近はペットボトルの蓋を閉めながら言った。
「紫は、古来より高貴な色とされている。ゆえに、濃淡はあるが神の瞳は皆、紫暗色だ。」
 右近の横顔を見つめ、香苗はへぇと感嘆の声を漏らした。視線を落として逡巡し、意を決したように顔を上げる。
「あの、寮にいる人たちのことを、聞いてもいいですか?」
 緊張の面持ちを向けた香苗を振り向き、右近はああと頷いた。
 ひと癖ある陰陽師たちのこと、寮での生活のこと、両家についての話をしていると、時間はあっという間に過ぎた。香苗は、時折笑ったり驚いたりしながら話を聞いていたが、体術については、少し不安そうな顔をした。
「急くことはない。ゆっくりでいい」
 そう言ってやると、香苗は安堵の笑みを浮かべた。
 右近はキャリーケースを、香苗は紙袋を持ち、一緒に玄関から出た。扉を閉める前に、香苗は部屋に向かって頭を下げた。
 階段を下りると、香苗は集合ポストの前で足を止め、鍵からキーホルダーを外して投入口に差し込んだ。一瞬、ほんの一瞬だけ手を止め、指を離す。吸い込まれるように中へ滑り落ちた鍵は、鈍い金属音を一度だけ響かせた。
 右近は周囲を見渡し、素早くマンションの屋根へと跳んだ。香苗は居場所を確認するように見上げてから、ゆっくりとキャリーケースを引いて、マンションを後にした。
 大通りの方へ向かう香苗を目で追いかけていると、逆の方向から先程の女性が手ぶらで戻ってきた。野菜を届けたついでに話し込んでいたのだろう。彼女は香苗に声をかけようと口を開きかけたが、意気消沈した様子で足を止め、遠ざかる背中を黙って見送った。その顔は、どこか痛々しそうに沈んでいた。
 約一時間後、宗一郎の運転で寮に到着した。玄関を開けるや否や、全員から盛大な出迎えを受けた香苗は、驚いた顔をしたのち、緊張と気恥ずかしさが混じった笑顔をこぼした。
 あれから二年。
 身長も伸び、顔つきも大人びた。あの頃のように泣き顔を見ることはなく、その代わりに笑顔が増えた。体術は、やはり初めの頃はかなり渋っていたようだが、華と夏也が根気よく説得と説明を繰り返して、今ではすっかり強くなった。
 寮内に内通者がいると聞かされた時、香苗は違う、咄嗟にそう思った。だが、携帯を支給され、鬼代事件が発生する直前まで、陰陽師らの行動は制限されていなかった。もちろん二人一組という指示も出されていない。自由にどこへでも行くことができ、連絡も取れる。
 右近は、大河と一緒にベランダへゴミ袋を運び、笑顔で言葉を交わす香苗を見て、わずかに目を細めた。
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