第9話

文字数 3,381文字

 訓練後のシャワーを浴びている途中でぽつぽつと雨が降り出し、出る頃には本降りになっていた。
「あれ、ナポリタンですか?」
 戻ったリビングで、大河はダイニングテーブルに並べられた皿を覗き込んで意外そうに言った。美琴(みこと)と一緒に皿を並べていた華が視線を上げる。
「ええ。あ、もしかして嫌い?」
「いえ好きです。でも、樹さん……」
 確かピーマンが嫌いなはずだが。皿に盛られたナポリタンには、しっかりピーマンが入っている。
「ああ。みじん切りにして味付けを濃くすると食べるのよ。ピーマンの味が消えるから」
 カウンター越しに香苗(かなえ)から皿を受け取りながら言った華に、大河はへぇと相槌を打ってソファに腰を下ろした。おふくろの味とか、そういうやつかな。以前のピーマンの肉詰めは、結局樹の分だけナスに変わっていた。残されたらもったいないものと華は言っていたが、何だかんだ言って優しいよなと思う。
 お腹空いたねぇ、と言いながら茂と昴が戻り、弘貴を呼んできますと言って春平が二階へ向かった。交代するように、お絵かきの片付けを終えた双子が、柴と紫苑と一緒に手を洗いにリビングを出て行った。
 大河はソファにだらしなく背をもたれ、長く息を吐いた。
 あの後、不安定だった結界は中級の不動明王まではなんとか攻略でき、誠実さって大切だなとしみじみ実感した。だが、何度か地天の略式を繰り返し、それなりに慣れたところで試みた火天の略式は、うんともすんとも反応してくれなかった。じゃあ水天はどうかとやってみたが、こちらもまた同じで、何が悪いのか思案中だ。
 茂たちは、属性の術じゃないから仕方ないよと言ってくれたが、こうも無反応だと落ち込むどころか負けん気が湧いてくる。もしかして、不動明王の時と同じで神様――正確には仏様のことをよく理解していないからかもしれない。調べて、それでもできなければ晴にも聞いてみようか。
 うーん、と目を閉じて唸っていると、弘貴と春平、後ろから双子たちが一緒に戻ってきた。
「ひ、弘貴くん、大丈夫……?」
「どうしたんだい?」
 席に着いた昴と茂の遠慮がちな声に瞼を上げ、目に入った弘貴の姿にぎょっとした。
「俺、陰陽師むいてないのかな……」
 俯いて弱音を吐いた弘貴はすっかり意気消沈し、鬱々とした表情だ。背中に暗雲が見える。茂たちから、残念そうな、息を吐くような声が漏れた。
 あのアドバイスでも駄目だったのか。となると、どうすればいいのか自分には分からない。弘貴は春平が引いた椅子にのろのろと腰を下ろし、盛大に重い溜め息をついた。大きな体躯が、今ばかりは小さく見える。
 一方、すっかり世話係と化した柴と紫苑は双子を席に座らせた。目の前に置かれたナポリタンに目を輝かせ、今か今かと待つ藍の頭をひと撫でし、ついと柴が弘貴へ視線を投げた。
「感覚のせいではないのか?」
 不意に投げられたアドバイスに、柴へ注目が集まる。
「感覚?」
 春平が聞き返し、柴がこくりと頷いた。
「刀を持ち、振るうという、感覚だ」
 一言ずつ区切って説明した柴に「ああ」と納得の声を上げたのは、美琴以外の独鈷杵を扱える者全員だ。
「確かにそうかも。俺は剣道やってたし、じいちゃんが持ってた模造刀振り回してたから、感覚は分かってた」
「あたしもだわ。具現化でき始めたのって、確か木刀に慣れてきた頃だったわね」
「僕もそうでした」
「僕もだよ。あとはあれかな、子供の頃にやってたチャンバラ。独鈷杵を使い始めた頃、よく思い出してた」
 大河に華と昴、茂が追随した。
「え、でも、それって形成する時の話しだろ? 俺の場合はその前の段階だし……」
 ぼそぼそと小声で反論した弘貴に、いや、と茂が真剣な顔で唇に手を添えた。
「美琴ちゃんみたいに、具現化って人によってやり方が色々あるから、弘貴くんの場合は、刀のイメージができて振るう感覚が掴めたら一気にできるのかもしれない」
「弘貴くんって、大河くんと同じで体で覚えるタイプですからね」
「じゃあ、集中して刀のイメージをしっかりすることと、剣術を優先した方がいいかもしれませんね」
 昴と華の意見に茂が頷き、逡巡してから弘貴へ視線を投げた。
「弘貴くん、一度独鈷杵は置いておこう。イメージと剣術に集中して、どうしても気になるようだったら個人的に確認はできるから」
 なるほど、と大河はこっそり納得した。剣術訓練の時間が増えれば、独鈷杵の訓練時間は減る。しかしそれはいつでもどこででもできるし、上手くいけば、具現化と剣術を同時に会得することができる。もちろん剣術に完璧はないだろうが、このままだらだらと具現化に時間を費やすよりは、効率が良いかもしれない。
 どうかな? と言外に問われ、弘貴は少し不安そうに目を落した。
 独鈷杵の訓練時間を減らし、もしできなかった場合はまた一からのやり直しになる。すると大幅に遅れを取る。それが不安なのだろう。
「弘貴」
 柴が声をかけると、弘貴は力なく顔を上げた。
「何ごとも、積み重ねが大切だ。そう急くな。急くと、雑念が入りやすくなる」
「積み重ね……」
 弘貴がぽつりと呟いた。
 多少思考錯誤をしたくらいで具現化したように見える大河は、幼い頃から剣道を習っていたからこそ培った感覚があった。美琴も、一年という月日をかけて地道に刀の研究とイメージトレーニングを積み重ねていた。茂や樹、怜司や昴も、弘貴たちが学校へ行っている間、ずっと訓練に時間を費やしていたのだ。
「他の者と、比べるな。お前なりのやり方が、必ずある。今はそれを探せ。決して、無駄にはならぬ」
 静かに告げられたその言葉に、弘貴が俯いて唇を結んだ。
 負けず嫌いな性格は、向上心を生む。けれど同時に、嫉妬や僻み、そして焦りも生む。弘貴の場合、いつもならば良い結果を招いていたのだろうが、今回は仇になった。この状況のせいもあるのだろうが、大河と美琴に先を行かれ、同時に始めた春平たちにも差を付けられる。焦るのも、無理はない。
 柴は、それを見抜いていた。
 やがて弘貴は脱力するように体全体で息を吐き、照れ臭そうに笑って柴に顔を向けた。
「そうだよな。確かに俺、焦ってた。ありがとな、柴。ちょっと落ち着いた」
「それは、良かった」
 そっけない一言だったが、口元にはほんのわずかに笑みが浮かんでいた。弘貴は隣の席の茂を振り向いた。
「しげさん、俺、さっきのやり方でやってみる」
「うん、分かった。剣術は無理だから、イメージトレーニングに集中しようか」
「はい。皆も、ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げた弘貴に微笑みが浮かぶ。
「じゃあ、まずはしっかりご飯を食べよう。哨戒がなくなった分、頑張らないとね」
 明るい声色で言った茂に、はい、と一様に返事が上がる。
 それから手分けをしてサラダとスープを配り、合掌のあとに食事が始まった。いつもと同じ穏やかな空気の中、おぼつかない手付きでフォークを使ってパスタを口に運ぶ柴と紫苑の表情は、まるで敵と対峙した時のような真剣さだった。お箸の方がいいかしら、と言った華に柴は、何ごとも鍛錬だ、と生真面目な答えを返した。
 食事が終わり各々食器を下げ、食後のひと時を迎えた頃、柴が言った。
「茂」
「うん?」
 食後のコーヒーに口を付けていた茂が振り向いた。
「一つ、頼みがあるのだが」
「頼み? 何かな」
 麦茶のポットを冷蔵庫に入れて戻った紫苑が、柴の隣に腰を下ろした。
「この国が、どのような歴史を辿ったのか、知りたい」
 柴の意外な頼みに、誰もが動きを止めて視線を向けた。
「それは、構わないけど……」
 何故、柴は突然そんなことを言い出したのか。皆そう言いたげに互いに顔を見合わせる。茂が学生組に視線を巡らせた。
「えっと、じゃあ、誰か歴史の教科書貸してくれる? 資料集もあった方がいいかな」
「じゃあ、あたしが」
 小さく手を上げたのは美琴だ。
「中学の時の、まだ取ってあるので。書き込んでも構いません」
「ありがとう。助かるよ」
 いえ、と言って美琴はリビングを出た。あいつなんで中学の教科書なんて取ってんだと、弘貴が不思議そうにぼやいた。影綱の日記を読んで何か気になったとは、少々考えにくいと思うけれど。しかし日記を読んだ直後だ。それとも、日々こうして暮らす中で興味を引かれたのだろうか。
 大河は、膝の上によじ登る藍と蓮を抱えた二人を見やった。
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