第7話

文字数 3,827文字

「全員、避けなさい」
 宗一郎は、警告しながら懐から霊符を取り出して、そのまま前へ掲げた。瞬きをする一瞬の間に霊符は自立し、キンッという甲高い音をさせて縁側いっぱいに五芒星が現れた。背後に、夏也と香苗が戻ってきた。
 本当に真言を唱えずに結界を張った。これが無真言結界。すげぇ、速い、と感心している場合ではない。結界が張られた次の瞬間、視界を塞がんばかりの触手が目の前を通り抜け、ドドドドッ! と機関銃の弾丸のように絶え間なく触手が結界を襲う。
 一方、怜司たちの方は志季が咄嗟に結界を張ったらしい。結界内の草薙たちを守るように、志季と怜司、紫苑が触手を次々と叩き切っている。だが数が多い。捕らえ損ねた触手が結界に衝突し、草薙たちが情けない悲鳴を上げた。
 触手の軌道は変わらないのかとか、廃ホテルの時みたいに分裂しないのかとか、何故昴がいるのに狙わせたのかなどと考えている余裕はない。本体を調伏しなければ終わらないのだ。
 本体から伸びる触手はまるで弾幕のようで、分断された宗史たちの様子が全く分からない。でも指示を待っていられない。触手の一部がこちらへ先端を向けた。宗史の方は椿や晴もいて、陽も独鈷杵を具現化していたから心配いらないだろうが、こちらは不利だ。弘貴と春平には、昴たちと一緒に結界内で待機してもらうしかない。霊刀を構え、弘貴と春平に指示を出そうとした、その時。
「うわ……っ」
 紺野の驚きの声が微かに聞こえて、大河は振り向いた。
 昴が、自分の二の腕を掴んでいる紺野と美琴の腕を後ろから掴んで支えにし、その場で跳ねたのだろう、後ろへ一回転していた。そうすると、紺野と美琴の腕は前から後ろへ捻られる形になる。当然、痛い。自然と二人の手が離れ、顔を歪ませてバランスを崩した。昴は着地するなり紺野から手を離し、背中辺りを蹴り飛ばしながら、独鈷杵を取り出して霊刀を具現化した。そして、腕を振り払おうとした美琴の喉元に切っ先を突き付けた。息を詰めた美琴の左拳が、中途半端に上がってぴたりと止まる。ごくりと喉を鳴らしただけでも突き刺さる距離。
 一瞬のことで、助けに入る隙もなかった。訓練の時より格段に動きが速い。
「みこ……っ」
「はい、動かないでね」
 昴が声を張ると、ぴたりと悪鬼の攻撃が止んだ。
 触手が襲って来ないとも限らない。宗史たちは、矢で一旦動きを止める作戦だったらしい。霊刀を構えた晴と陽を前に、宗史が弓を番え、その背後では椿が無数の水塊を携えていた。怜司たちの方は、志季の火玉で一掃するつもりだったらしく、無数の火玉が浮かんでいる。そして樹、右近、閃は対峙した格好で動きを止めた。
 誰もが突然止んだ攻撃に一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに状況を察して目を丸くする。またバランスを立て直せず大河の側に転がった紺野が、片膝を立てて勢いよく顔を上げて振り向いた。
「昴、てめぇ……!」
 昴と美琴から少し後方にいた弘貴と春平が、じりっとわずかに足を滑らせた。
「弘貴くん、春くん、動いたら美琴ちゃんの首が飛ぶよ?」
 昴とは思えない台詞に、二人は息をのんで目を瞠った。昴は腕を掴んだまま美琴の背後へ回り、喉元に霊刀を添えた。ぐるりと庭全体を見渡す。
「皆さん、術を解いてもらえますか」
 ゆっくりと後ろ、間仕切りの方へ下がりながら要求され、宗一郎が結界を、大河たちは険しい顔でしぶしぶ霊刀や弓矢を消した。椿の水塊、志季の手の平からも火玉が消え、紫苑も構えを解く。昴の動きに合わせて、全員の鋭い視線が移動する。悪鬼が、役目は終わったと言わんばかりにすいっと縁側から離れた。宙を滑り、もう一つの悪鬼と融合していく。
「なんだ、もう終わりか。もっと樹と遊べると思ったのに。つまんねぇ」
 平良は拗ねたようにぼやき、膨れ面で霊刀を消しながら間仕切りの方へ向かった。式神の男と皓も倣う。
 美琴を人質に取られたままでは手出しができない。打つ手がない。けれど、昴たちをこのまま逃がすわけにはいかない。何か方法は。
 大河は美琴を注視したまま、必死に頭を捻らせる――と。
 唇を噛み、悔しそうに目を落とした美琴のわずかな動きに気が付いたのは、大河だけではなかった。
「やめなさい!」
「やめろッ!!」
「やめてッ!」
 全員、文字通りそこにいる全員が、同時に弾かれたように叫んだ。
 まさかの行動に戦慄し、硬直した大河たちとは反対に、美琴の喉元から一筋の細い血が流れ落ちる。
 今、死のうとした。死んでまで、昴たちに隙を作ろうと――いや、美琴のことだから、治癒できると考えた上での行動だろう。でも死なない保証はないし、痛みは伴うのに。
 なんで、と大河は口の中で呟いた。
「へぇ。やっぱり、美琴ちゃんは度胸があるね」
 昴が美琴の喉元を横から覗き込み、暢気な台詞を吐いた。それに紺野の堪忍袋の緒が切れた。
「昴てめぇ、卑怯な真似してんじゃねぇ! お前がやってんのは尊や良親と同じことだろうが、美琴を放せ!」
 確かに、紺野の言う通りだ。人質を取って、雅臣や冬馬たちを陥れた方法と同じ。昴が不快気に眉根を寄せた。
「心外だな。僕は誰も傷付けずに戻りたいだけだよ。お金を要求したり、無理矢理犯罪に巻き込んだりしない」
「屁理屈言うな、誰がどう見ても同じだ! いいから美琴を放しやがれ、人質なら俺がなる!」
「せっかくの申し出だけど、断るよ。叔父さん、大人しくしてくれないでしょう?」
 地団太を踏みそうな勢いの紺野に呆れ気味の息をついて、昴は間仕切りの前で足を止めた。頭上には一つに戻った巨大な悪鬼。側には平良と皓、そして変化する式神。
 式神の足元から上がった真っ白な煙は質量を増し、横長へ形を変える。初めに見えたのは尾の先端だ。尻尾から頭の方へ向かって煙が引いていくごとに現れる。艶のある真っ黒な毛に覆われた、紫暗色の瞳の大きな犬。
「美琴ちゃん、悪いけどもう少し付き合ってね」
 乗って、と促す。美琴は浅く俯いて目を落としたまま、背を向けた。喉元から流れた血が、白いカットソーの首回りを赤く染めていく。
「美琴」
 宗一郎が声をかけ、美琴が足を止めて肩越しに振り向いた。どこか気まずそうな、申し訳なさそうな、それでいて怯えているようにも見える。いつもの美琴からは想像できないくらい頼りなくて、弱々しい。そんな顔をする必要はないのに。
「逆らうな」
 有無を言わせない強い口調に、視線がゆらりと揺れる。そして小さく頷き、再び背を向けた。
 ここが外とは思えないほど重く、息苦しい空気が庭に充満する。打つ手がないもどかしさや歯痒さ、苛立ち、心配、困惑。色々な気持ちが混じり合って、窒息しそうだ。
「皓」
 不意に、紫苑が沈黙を破った。
「今一度問う。何故、我々と敵対する。お前の配下の者たちを惨殺したのは、千代であろう」
 問いかけられた皓が紫苑に目を止め、真っ赤な唇に綺麗な弧を描いた。
 影綱の日記には、絶世の美女と書かれてあった。確かに美人だ。女性らしい体つきに、無造作にまとめられた漆黒の髪は美しく、肌も陶磁器のように滑らかで白い。緩やかな弧を描いた眉の下には、濡れたような深紅の瞳、鼻筋は通り、少し厚めの唇は艶やか。系統は華と同じ、色気があって、華やかな美しさだ。けれど、全身から放たれる妖艶さは華にはない。男を狂わす、恐ろしいほど強烈な色香が漂っている。
 でも、あの体は皓のものではない。器として、生贄にされた女性のものだ。
「さあ?」
 笑顔でおどけるように肩を竦め、くるりと踵を返す。
 たった一言発したその声色すら、妖しい色気がある。低くもなく、高くもなく。落ち着いた声。短く受け流されて、紫苑が不満気に目を細めた。
 腹を地面につけて姿勢を低くした式神の背に、霊刀を突き付けられたまま、美琴が両手をついて飛び乗る。終始興味がなさそうな顔をしていた平良が、悪鬼が伸ばした触手に腕を絡め取られながら樹に目を止めた。
「じゃあな、樹。今度はもっとゆっくり遊ぼうぜ」
 ひらりと手を振った平良を、樹は冷ややかな目で一瞥した。冷たいねぇ、とぼやいた平良を悪鬼がゆっくりと引き上げる。
 片手で式神の背につき、ひょいと飛び乗った昴が「しっかりつかまっててね」と俯いた美琴に囁く。美琴は答えることも頷くこともせず、ただ素直に式神の毛をぎゅっと握った。そして昴は遠慮がちに美琴の腰に手を回し、顔を上げた。式神がゆっくり立ち上がる。
「その腐れ親子と秘書は、お好きなようにしてください。もういらないので。では、僕はこれで失礼、しま……」
 突然、昴が不自然に言葉を詰まらせた。笑みを浮かべていた顔が、じわじわと驚きの表情へ変わる。隣にいた皓が意外そうな顔で「あら」と口の中で呟き、平良が「マジか」と興奮した様子で口にし、式神も紫暗色の目を丸くした。また、異変を感じて顔を上げた美琴も目を瞠った。
 ――何だ?
 そう、誰もが訝しく思った。眉根を寄せて、昴たちを注視しつつ視線を辿る。
「う……っ、うわ……っ」
 辿る途中で聞こえたのは、結界内にいた龍之介の狼狽した悲鳴。
 一斉に振り向き、映ったその光景に誰もが凍りつき、絶句した。
 スローモーションを見ているようだった。
 力なく膝が折れ、前へ傾ぐ宗史の体。ふわりと宙に舞う黒髪。服を染めながら、腹から流れる鮮やかな赤。そしてその背後には、刀身を真っ赤に染めた刀を握り、酷く冷たい目をして主を見下ろす、椿。
 切っ先から、血が滴り落ちた。
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