第15話

文字数 6,561文字

 入った脇道から河原町通りへと抜け、そのまま北上した。駅近くの駐車場に車を停め、徒歩で西木屋町の方へと向かう。途中、声をかけようと近寄ってきた客引きが数人いたが、樹が放つ刺々しい空気を察し恐々と引き返した。
 足を進めるごとに機嫌の悪さが増す樹に、怜司は溜め息をついた。下平の明らかに何か含んだ質問は気になるが本音を言うと行きたくない、と思っているのが手に取るように分かる。いっそ素直に聞くか、下平もきちんと話してくれればいいのにと思う。
 樹は、店名を掲げるビルの前でたむろしている数名の若者たちの間を躊躇なく抜け、エレベーターのボタンを押した。ここまでの道のりで、一言も口を利かない。むっつりとした表情のままこちらを見ようともしない。当然、説明もない。
 おそらく過去に関係しているのだろうくらいの察しはつくが、詮索するつもりはない。けれど、先日初めて見せたあの怯えた顔が、脳裏をちらつく。
 店によって多少異なるそうだが、ナイトクラブは年齢制限があり、かなり厳重にIDチェックがされると聞いた。運転免許証やパスポートなどの写真付き公的証明書の提示はもちろん、手荷物検査をされ、危険物、薬物、飲食物の持ち込みは不可。ドレスコードがあり、ジャージや作業着、スウェット、ビーチサンダルも禁止。刺青やタトゥーを露出している場合も入場を断られるらしい。
 樹も怜司も免許所持者で、手荷物は携帯と鍵と財布くらいだ。服装も引っ掛からない。しかし、霊符と独鈷杵はどうなのだろう。お守りですと言って通用するだろうか。
 エレベーターで三階へ上がると、黒いスーツを着た男が二人、門番のごとく直立不動で立っていた。耳にはイヤホン、胸元には小型のマイクを装着しており、きちんとした身なりではあるがその大柄な体格と顔つきは格闘家かボディビルダーを思わせる。セキュリティだ。
 一人のセキュリティが笑みを浮かべ、
「いらっしゃいませ。お客様、身分証の提示を」
 お願いします、と言い終わる前に樹が扉に手をかけた。
「お客様」
 笑みを消し、あからさまに警戒心を放ったセキュリティが腕を掴んだ。樹は不快気に眉を寄せ、両側から見下ろしてくる二人を交互に見上げて、ああ、と納得した声を上げた。
「そうか」
 手を振りほどき、面倒臭そうに溜め息をついて再度二人を見上げた。
「冬馬さんに伝えて。樹、そう言えば分かる」
 不遜に言い放った樹に、二人が同時に目を見張った。すぐに顔を見合わせ、一人が小さく頷いた。
「少々お待ち下さい」
 腕を掴んだ方のセキュリティがマイクに手をかけ、その場から少し離れて背を向けた。その間、もう一人は来店した別の客の相手をする。二人組の女が、脇に避けた樹と怜司をちらりと見やり店内へ入って行った。
 了解しました、と声が聞こえ、樹が視線を投げる。
「お待たせ致しました。どうぞ、お入りください」
「どうも」
 先ほどの態度とは打って変わって恭しく頭を下げ、セキュリティ二人は両側から扉を開けた。二人に軽く返して慣れた足取りで店内へと入る樹に続いて、怜司も足を進める。
 入ってすぐ、右手に小さなカウンターがあった。どうやら通常ここで入場料の支払いや持ち込み禁止物を預けるようだ。カウンターに入っているインカムをつけた二人の男性スタッフが、樹と怜司に何者かと探るような視線を向けた。
 当然のように素通りした樹は、さらに奥の分厚い扉を開けた。扉が開く隙間と比例して、大音量の音楽が流れ出てくる。
 可動式の照明によって、赤や緑、青、紫色に染められた店内。正面のステージで、軽快に体を揺らしながらターンテーブルを回し、ミキサーを調整するDJ。そのDJが作り出す音楽に、まさに踊らされているのはホールを埋め尽くさんばかりの大勢の男女。左手に設置されたバーカウンターで、グラスを片手に会話を楽しむ者、何やら大勢で騒いでいる者、二人の世界に浸る男女。入口近くには、背の高い丸テーブルがランダムに設置されており、そこもまた満員だ。
 鼓膜を圧迫する音に、怜司は顔をしかめた。音楽は嫌いではないが、ライブやコンサートに行くほど好きなアーティストがいるわけではない。人の熱気に煙草の匂い、加えて慣れない音の洪水は不快だ。
「怜司くん、こっち」
 一緒にいることを忘れているのではないかと思うくらい言葉を交わさなかった樹が、振り向いて小さく手招きをした。覚えてくれていて何よりだ。
 いっそ蹴散らしてやろうかと思うほどの人ごみの隙間を、まるで猫か忍者のようにするすると抜けた樹が向かった先には、上へと続く階段があった。
 階段下には、入り口と同じ厳ついセキュリティの男二人が立ち塞がり、上からは四人の女が何やら不満顔で下りてくる。
 階段下へ着くと、セキュリティの一人が促す視線を向けた。ぶつぶつと文句を漏らす女たちと入れ替わりに、先行するセキュリティに続いて樹と怜司は階段を上る。すれ違いざま、不躾なほどの視線を向けられた。
 二階はVIPルームになっているようで、ホールとは雰囲気ががらりと変わった。暖色系の照明は程よく落とされ、調度品も落ち着いた色でまとめられておりシックな雰囲気だ。豪奢なシャンデリアや革張りのソファ、専用のバーカウンター。三つあるボックス席は全て埋まっている。広さの割に少ない席数のため、ずいぶんと通路が広い。さらに奥には、黒い扉が一つ。
 セキュリティは迷うことなくそこへ向かった。ノックをし、扉を開ける。
「よぉ」
 すぐに、正面のソファに座ってグラスを傾けていた一人の男が声を上げた。左右のソファには、短髪と茶髪の男がそれぞれ座っている。
 目を刺激する照明のホールと、薄暗いVIPルームを通ってきたせいでずいぶんと明るく感じるのは、個室のVIPルームのようだ。こちらは品の良いアンティークな調度品でまとめられている。正面には、三人掛けのソファがコの字型に置かれ、中央のガラスのローテーブルには、使われたグラスがいくつか並んでいる。階段ですれ違った女たちは、どうやらここにいて追い出されたようだ。小さなバーカウンターの奥の棚には、見るからに高そうなシャンパンやワイン、ウイスキー、磨き上げられたグラスなどが整然と並んでいる。
 中へ入ると、セキュリティが扉を閉めた。
「久しぶりだな、樹」
 にっこりと笑みを浮かべたこの男が「冬馬」だろう。彼の名を出し名乗った樹を入場料も取らずに通したセキュリティといい、VIPルームの個室、男二人を従えるようにした配置。絵に描いたようなボスっぷりだ。
「とりあえず、何か飲むか?」
「いらない」
 樹は、茶髪男に視線を投げながら問うた冬馬の質問を、間髪入れずに拒否した。すると、冬馬はふっと笑い声をこぼした。
「お前、まだ飲めないのか?」
「余計なお世話」
 無表情のまま反発する樹に、冬馬が苦笑した。
 寮での飲酒は禁止されていない。華も茂も怜司も嗜みはするが、量は多くないし毎日ではない。未成年がいることもあって酒類のストックはなく、正月を例外とし、飲みたければその都度買ってくるのが暗黙の了解になっている。だが、樹は飲まない。理由は苦いからだと聞いていたが、どうやら昔から変わっていないようだ。
「そっちのお兄さんは?」
「いえ、結構です」
 いくら樹の知り合いであろうと、正体が分からない相手の酒を飲むほど無防備ではない。即答した怜司に、冬馬は「あ、そ」と白けたように呟いた。
「それで? 突然来た目的は?」
 冬馬は背もたれに背を預け、足を組んだ。
「別に。何となく」
「へぇ……」
 樹を見据えるその目には、何かを探ろうとしている意思が窺える。男二人は、ずっと警戒心を露わにして視線を外さない。昔の知り合いをここまで警戒するということは、何か事情があるのだろう。樹が何かしたのか、それともされた方なのか知らないが、何やら面倒臭そうだ。
「お前、今何してんの?」
「答える必要ある?」
 質問に質問を返した樹に、冬馬がにっこりと笑った。この男のこれは、癖なのだろうか。
「じゃあ、当ててみようか」
 やけに自信ありげな申し出に、怜司の眉根が寄った。対して樹は無表情を貫いている。
「除霊師、ってのはどう?」
 思わず、は? と聞き返すところだった。
 間違ってはいない。間違ってはいないが胡散臭い言い方はやめて欲しい。だが、もし樹が陰陽師と知っているのならそう言うだろうから、知っているわけではなさそうだ。ならば、どこから出てきた。当てずっぽうか。
「違う」
 顔色一つ変えず一言で否定した樹に、冬馬が目を丸くした。同じように、男二人もまさかと言わんばかりに目を見開いた。三人とも、本気で驚いている。
「なんだ、違うのか?」
 否定されて驚くほど自信があったのだろうが、どこから出た自信か分からない。冬馬が困ったように頭を掻いた。
「じゃあ、誰なんだ……」
「何が?」
 苛立ちを吐き出すような冬馬の呟きに、樹が食い付いた。
「誰って、何が?」
 もう一度問うた樹に、冬馬が観念したように溜め息をついた。
「いつからかはっきりしないけど、この辺一帯に変な噂が流れてるんだよ」
「どんな?」
 冬馬は足を解いて体勢を前のめりにし、膝の腕に腕を乗せて両手を組んだ。真っ直ぐ、樹を見据える。
「うちに、高額の依頼料を取って除霊してる除霊師がいるっていう噂だ。しかも、名前がイツキ」
 樹と怜司がわずかに怪訝そうに目を細めた。
「知らない。僕じゃない」
 互いの真意を探るように見つめ合う二人の間に、緊迫した空気が流れる。先に冬馬が屈した。溜め息を漏らしながら体を起こす。
「みたいだな。お前は嘘をつかないから。しょうがない、もう面倒だから放っておくか。今のところ客に実害も出てないしな」
 言いながらグラスに手を伸ばし持ち上げたところで、樹が用は済んだとばかりに踵を返した。
「待て樹。お前が噂と関係ないのなら、手伝わないか。いい仕事があるんだよ」
「やだ」
「報酬は五百。ここにいる五人で山分けってのはどうだ?」
「嫌だって言ってるでしょ」
 言いながら怜司の腕を引っ張り、乱暴に扉を開けて部屋を出た。
 樹に腕を引っ張られるがまま足早にVIPルームを突っ切り、階段を下りてホールの人ごみを抜ける。二重の扉を立て続けに開け、不機嫌を露わにして店から出てきた樹に、IDチェック中の客がぎょっと目を剥いた。叩き割るつもりかと思うほど乱暴にエレベーターのボタンを押す。下降中のエレベーターに、盛大に舌打ちをかました。
 何となく、分かった。
 噂、除霊師、イツキ、アヴァロン、仕事。おそらく全て樹の過去と関係していて、噂を流した奴は樹のことを知っている。あの時の冬馬の自信はそこからきていたのだろう。先日の怯えた顔も、冬馬に関係しているのかもしれない。
 そして当然、下平もこの噂を知っている。冬馬と違い確信を持っていた様子ではなかったから、陰陽師であることは知らないだろう。樹と同じ名前の噂を聞いて、もしやと思ったのかもしれない。たかが名前くらいでと思わないこともないが、先日と先ほどの様子では、ずいぶんと樹のことを気にかけているようだし、不自然ではない。
 加えて、あの女刑事が調書に二時間もかけた理由が分かった。下平と違い樹のことは知らなかったようだし、名前だけで結び付けるのは実に安直で単純だ。だからこそ、下平の意見を聞くために帰りを待っていたのだろう。慎重と言えば聞こえはいいが、こちらの連絡先は分かっているのだし、再確認する必要があると分かっていただろう。融通が利かず、臨機応変さが欠けている。
 到着したエレベーターに客と入れ替わりに乗り込み、荒っぽくボタンを押す。扉が閉まったところで、怜司は視線を落とした。
「樹」
「……何」
「腕、いつまで掴んでる気だ?」
 機嫌が悪いせいで無駄に力が籠っていて、いい加減痛くなってきた。あ、と小さく呟き、樹は手を離した。
「ごめん。痛かった?」
 いや、と答えると樹は俯いて壁に背を預け、ごめん、と疲れた声でもう一度小さく呟いた。
 気持ちは分かる。あんな意味深に「最近行ったか」などと聞かれれば、樹でなくても気になる。しかも蓋を開けてみれば、現在陰陽師として働く自分と同じ名前や仕事を語る何者かがいた。気味が悪い。さらに、このタイミングだ。
 事件と関係があるのか、それとも樹個人の問題なのか分からない。ここは突っ込まない方が無難だ。何かあるのなら樹本人が解くだろう。
 ただ、癪に障るのはあの冬馬という男だ。何の仕事か知らないが、報酬が五百万など、どう考えても真っ当でないことくらい分かる。そんな面倒なことに勝手に頭数に入れて巻き込もうとした。何様だあの男は。
 一階に到着し扉が開く。カップルが前を通っただけで、エレベーター前に人はいなかった。
 無言のまま、来た方へと引き返す。四条河原町の交差点に着いたところで、樹が不意に口を開いた。
「怜司くん」
「何だ」
「アイス食べたい」
 そう来たか。
 昨日のことがあってから、一見普段と変わりないように見えるが、少々情緒が不安定になっていることは気付いていた。下平の忠告は間違っていなかった。甘い物を欲しがるのは、精神安定剤の代わりか。
 だからと言って腫れ物に触るような態度は性に合わないし、樹もそれは望まない。
「駐車場の前にコンビニあったな。俺もコーヒー買いたいから寄るか」
 樹が俯いていた顔を上げた。
「あと、ロールケーキと久々にどら焼き」
「自分で買え」
「奢ってよ」
「むしろお前が奢れ」
 行き慣れない場所はストレスが溜まる。樹が溜め息をついた。何でお前に溜め息をつかれなきゃならん。
「しょうがないなぁ、シロップとミルク入れていいよね」
「ブラックだ。何で自分も飲もうとしてるんだ。別で買え」
「我儘」
「どっちがだよ。頭湧いてんのかお前」
「夏だからねぇ」
「関係ないだろ」
 ははっ、と樹がやっと笑い声を上げた。
「怜司くん、聞かないんだね」
 唐突に話題を変えた樹を、怜司は横目で見やった。こっちに尋ねるつもりがなくても、自分から話題を振るのなら仕方ない。それに、表情が少し柔らかくなっているところを見ると、覚悟を決めたか吹っ切れたかしたようだ。
「お前の過去に興味はない」
「僕に興味ないんだ。寂しいなぁ」
「気持ち悪い言い回しをするな。大体、いちいち探られたくないだろ。探る方も面倒だ」
 まあね、と樹は呟いた。
「ただ、このタイミングだ。事件と関係があるのなら、遠慮なく探るし聞くからな」
「うん、いいよ。やっぱり、怜司くんもそこが気になった?」
「ああ、妙にタイミングがいい。不自然だ」
「だよねぇ、やっぱりおかしいよね」
 おそらく、そう言いつつもすでに推理の一つや二つしている。だが、安易には喋らない。自分の中で迷いなり謎なりが残っているのだろう。それが解けた時か、何かきっかけがないと聞いても無駄だ。
「慣れない場所に付き合ったんだ、しっかり謎を解けよ。あと奢れ」
「分かってるよ」
 しつこいなぁ、とぼやきながら、樹は笑みをこぼした。
 数分後、ブラックで買ったはずのアイスコーヒーが激甘になっていた。眼鏡の奥の糸目をさらに細め、これまでにないほど渋面を浮かべてコーヒーを見つめる怜司に、樹はアイスにかぶり付きながら平然とのたまった。
「疲れてる時は甘い物がいいんだよ?」
「甘すぎるんだよ。お前、シロップいくつ入れた?」
「四つ」
「もはや嫌がらせだろ。人でストレス発散するなぶっ飛ばすぞ」
「そんなつもりないのに。美味しいでしょ?」
「こんなのただの甘くて黒い液体だろうが。コーヒーに謝れ」
 樹は、えー、と不満な声を漏らした。機嫌を損ねると面倒だが、ストレスの発散方法も面倒臭かった。
 この件をきっかけに、俺はなんでこんな奴とコンビ組んでるんだろうな、と怜司が時折自問自答するようになったことは、誰も知らない。
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