第3話

文字数 3,785文字

 初めは、客としてアヴァロンに行っていた。
 智也(ともや)圭介(けいすけ)が当時勤務していたパチンコ屋の店長は、大人しい人間を選んでパワハラをしていた。そんな卑怯な店長に嫌気がさし、辞めようかと話し合っていた頃、憂さ晴らしに適当な店に入ったのがきっかけだった。
 ある日、そろそろ帰ろうかと店を出ようとした矢先、泥酔した男性客に絡まれた。適当に相槌を打ってかわそうとしたことが男の癇に障ったらしく、掴みかかられた。男の恫喝する姿と罵倒する店長の姿が重なり、動けなくなっていたところを仲裁に入ってくれたのが、偶然フロアに下りていた冬馬(とうま)だった。
 一切躊躇することなく(すか)(なだ)め、それでも男は言うことを聞かず、終いには自身にまで掴みかかった客を難なく制して引きずり出した。そのあと、戻ってきた彼は当然のように頭を下げた。彼のせいではないのに、怪我はなかったですか、迷惑をおかけしてすみません、と。
 店のスタッフとしての対応であり、セキュリティが一緒だったとはいえ、臆さず毅然とした態度、そして潔さは、目が覚めるほど恰好よく映った。
 パワハラを受けていたから、余計だったのだろう。自分もこうだったらと思う、切望と憧れ。
 しばらくして収まったけれど、その頃はまだ冬馬の物騒な噂が流れていた。まるで親衛隊のような取り巻きがいて、そのほとんどが噂を信じておこぼれに与ろうとする連中ばかりだった。冬馬はもちろん否定していたし、智也と圭介も信じていなかった。何よりあんな奴らと一緒にされたくない。のちに知り合った下平からはいっしょくたにされていたようだが、取り巻きとは距離を置いて、助けてもらったことを理由に少しずつ話をするようになった。
 そんなある日、アヴァロンがバイトを募集していると小耳に挟んだ。今しかないと思って応募すると、冬馬は少々複雑な顔をしたが、スタッフとも顔見知りであることや、また吐露した事情も理由の一つなのだろう、採用された。
 スタッフの教育の徹底ぶりには驚いた。基本的な仕事や接客、酒の知識はもちろんだが、それ以上に揉め事や泥酔した客への対応は、驚くくらい厳しく叩き込まれる。セキュリティがいるのにと思って、(のぼる)に理由を聞くとこう返ってきた。
「場が白けるから、できるだけ短時間で穏便にってのもあるけど、一番は客やスタッフに危害を及ぼさないためだな。もちろんすぐにセキュリティ呼ぶこと前提だぞ。酔っ払いや頭に血ぃのぼってる奴の対応はさすがに一人じゃできないからな。まあ、冬馬さんは一人でやっちゃうけど」
 危ないからやめろっつってんのに、と昇はぼやいた。
 冬馬と同じ年だが一年あとに入ったらしい昇は、本社から派遣されている名ばかりの副店長よりよほど店のことに詳しい。そんな彼が言うには、以前はちょくちょく客と客、あるいは客とスタッフの間で揉め、酷くはないが怪我人が出ることもあったそうだ。だから冬馬は店長に就任すると同時に、真っ先にスタッフの教育を徹底したらしい。
 それから三ヶ月後、研修期間が終了した。自分たちなりに必死にやったつもりだった。けれど冬馬が下した決断は、期待とは正反対のものだった。
「お前たちに、うちは向いてない」
 パワハラによるトラウマ。おそらく、それが一つの原因だろう。
 冬馬への憧れもあったけれど、居心地の良さやスタッフたちとの関係も良好で、今辞めたら二度とこんな場所は見つからないかもしれないと思った。ここで諦めたくなくて、必死に食い下がった。昇たちの口添えもあり、研修期間を二カ月延長してもらって、やっと正式に採用となった。
 だが、植えられたトラウマはそう簡単に克服できず、揉め事の対応だけはなかなか成長しなかった。一年以上経ってから何とか様にはなったけれど、声を荒げられるとどうしても体が竦む。いつも他のスタッフとセキュリティに助けられること情けなくて、仕方なかった。
 そんな中、冬馬の態度が突然厳しくなった。むやみやたらにというわけではないが、特に揉め事の対応に関しての指導や叱責は、これまで以上に厳しかった。
 不安がなかったと言えば嘘になる。アヴァロンを辞めたあと、次の仕事が決まってもパチンコ屋の店長のような奴がいたらと考えると、気が塞いだ。しかしこれ以上は、冬馬やスタッフの皆にも迷惑がかかる。
 圭介と話し合い、辞める覚悟をした矢先のことだった。
 スタッフ用の喫煙所は、アヴァロンが入るビルと隣のビルの間にある非常階段の下に設置されている。当時、冬馬はまだ店でも煙草を吸っていて、休憩中はそこにいることが多かった。
 先輩スタッフから、休憩に入るついでに空き瓶を外に出しておくように頼まれ、智也は圭介と一緒に非常階段から表に運び出した。そして再び戻ろうとした時、冬馬と昇が連れ立って階段を下りてきた。
「冬馬さん、あいつらに厳しすぎじゃないですか?」
 咄嗟に、自分たちのことを話していると察し、智也と圭介は思わず身を隠した。塀にへばりついて、角からこっそり覗く。
「妥当だ」
 縦型の灰皿を挟んで、向こうが昇、手前が冬馬。一蹴した冬馬に、昇がライターを擦りながら溜め息をついた。
「ていうか、自分で分かってます? 矛盾してるの。辞めさせたきゃ店長権限でクビにすればいいでしょ」
 忌憚のない問いかけに、冬馬は無言のまま紫煙を吐いた。昇がもう一度息をつく。
「確かに、あいつら要領が良いとは言えませんよ。未だに肝っ玉小さいし。でも真面目で向上心はあるし、素直で皆とも上手くやってる。ただ――」
 長い煙を吐き出して、昇は言った。
「だからこそ、心配なんでしょ」
 心配? 智也と圭介は顔を見合わせた。
「パワハラ受けてた上にここクビになったら、あいつら余計に縮こまるか自暴自棄になりそうですもんね。だからっつって、ここにいてもいつか怪我をするかもしれない。でもあいつらの頑張りを無駄にしたくない。で、迷ってる。違います?」
 え、と声が漏れかけた口を手の平で塞ぐ。てっきり、冬馬は辞めさせたいのだとばかり思っていた。いつまでたってもトラウマを克服できない自分たちは、店にとってお荷物でしかないから。でも確かに、もう来なくていいと言われたことがない。
 何度か紫煙を吐く息がして、不意に冬馬が口を開いた。
「……昇」
「はい?」
「お前、今月のゲストノルマ三百な」
「さん……っ、無理、っていうかうちノルマないでしょ!」
「うるさい、店長権限だ」
「職権乱用の間違い!」
「気のせいだ」
「ちょっ、ま……っ」
 二人の声に階段を上るカンカンとした足音が混じり、やがて非常口扉が閉まる鉄の音が響いた。
 しばらくして、階段を見上げていた昇が長い溜め息をついた。
「ったく、あの人は……」
 呆れた声でぼやき、昇は吸殻を灰皿に放り込むと、またスラックスのポケットから煙草を取り出してライターを擦った。そして一口吸ったあと、煙草とライターをしまいながら言った。
「そこの二人、立ち聞きは悪趣味だぞ」
 智也と圭介は大仰に肩を震わせて、素早く顔を引っ込めた。気付かれていた。二人がバツの悪そうな顔をしておずおず姿を現すと、昇はははっと笑った。
「なんて顔してんだよ」
 まるで叱られる前の子供のように俯いて足を止めた二人を見て、昇は紫煙を吐き出し壁に背をもたれた。
「さっきの、間違ってないと思うぞ」
「え……?」
 智也と圭介が顔を上げると、昇はゆらゆらと立ち昇る煙を目で追いながら言った。
「お前ら、研修期間が終わった時、うちの系列店紹介するって言われたんだよな」
 はい、と頷く。
「もしお前らが今辞めたとしても、紹介するつもりだと思うぞ。うちはカフェも経営してるし、どうしても夜がいいならバーも何店舗かあるしな。接客経験があって酒の知識があるお前らなら、重宝されるだろ。それに、うちの系列店ならお前らのこと事前に報告できる。こういう奴らなんでお願いしますってな」
 智也と圭介は目を丸くした。特に深い意味のない、単なる提案だとばかり思っていたのに。ということは、あの時からずっと。
「何で、そこまで……」
「何でって」
 圭介が眉尻を下げた情けない顔で尋ねると、昇は煙草を口元にあてがったまま苦笑した。
「そういう人だからな、あの人」
 答えになっていない。けれど何となく、ああそうかと納得できる。
 自ら揉め事の仲裁に入り、躊躇なく頭を下げ、客やスタッフの身の安全を考えて、いい加減だったスタッフの教育を徹底した。きっと、他にもまだある。自分たちが知らない彼を、客やスタッフたちは見てきたのだ。顔が良いとか喧嘩が強いとか仕事ができるとか、そんな上っ面だけじゃない。
 だからこそ、物騒な噂が流れても笑い飛ばす。彼は、そんなことしないと。
「ま、よく考えて答え出せよ」
 最後の一口を吸って灰皿に吸殻を放り込むと、昇はそう言い残して階段を上った。
 表の方で客の歓声が上がり、周囲に響く。残る煙草の臭いを嗅ぎながら、不意に智也は口を開いた。
「……俺、辞めるのやめる」
 圭介がちらりと視線を投げて、こくりと強く頷いた。
「俺も」
 お互いが何故そう思ったのか、わざわざ確認し合う必要はなかった。冬馬はもちろん、研修期間の延長で口添えをしてくれた昇や、仕事を覚えるまで根気よく待ってくれた他のスタッフ。彼らが自分たちに割いてくれた時間や気持ちを、無駄にしたくない。
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