第8話

文字数 3,005文字

 晴は言った。宗史の八つ当たりは甘えているのだと。だとしたら、美琴のあれも甘えているのだ、照れ隠しだ。たった五分、されど五分。全力で的確に急所を狙われたけれどそう思いたい。ぜひ。
「……昨日の仕返しかも……」
 大河は部屋に持ち込んだパソコンに向かってぼそりと一人ごちた。閃にお姫様抱っこをされた時に、顔を見た仕返しという線もある。可愛いんだから照れることないのに、と大河は理不尽を感じつつキーボードを叩く。
 と、携帯がメッセージの着信を知らせた。宗史か晴だろうかと思いながら確認すると、意外にも下平だった。この前にも紺野と北原から届いて登録したばかりだ。三人の間で何かやり取りがあったのだろう。すぐにおはようございますと添えて会釈をするスタンプを送り、パソコンに向き直る。
 あの後、朝食を摂りながら皆とこれからのことを話し合った。
 独鈷杵と剣術の訓練が加わったことで、さらなる時間の確保が必要になってくる。問題は夏休みの宿題だ。初めは、昼間の時間全てを訓練に使い、宿題は夜に回すという案が出た。だが、午前中は各々掃除の持ち場があり、藍と蓮の散歩や買い出しなど、どうしても欠かせない用事がある。結局、やはりこれまで通り、しかし訓練以外の用事は午前中に済ませる、ということで落ち着いた。そもそも具現化は早朝訓練でも室内でもできる。また午後は哨戒があるため、個々の担当はあえて決めなかった。
 となると、必然的に剣術指導は早朝か午後からになるので、現在、柴と紫苑は敵の潜伏先を探りに出ていて留守だ。また美琴は、朝食後すぐに華と夏也に連れられて病院へ行った。何ともなければ帰りにスーパーに寄ると行っていたので、少し遅くなるだろう。華たちが出払い、各々掃除の担当があり、柴と紫苑もいないため今日の散歩は中止となり、藍と蓮が寂しそうだった。
 そして大河はというと、今日に限っては予定を変更することにした。普段の訓練に加え、真言の暗記に報告書の作成。宗史と晴が来るまでには終わらせておきたい課題があるので、先の話し合いで却下された、宿題を夜に回すという提案を採用した。しかも仕事が入っているため、それまでには終わらせなければならず、悠長にしている暇はない。
 今日はなんか忙しいな、と頭の隅でぼんやりと考えながら報告書を書き上げたのが、三十分後。香苗が口頭で説明してくれたからだろうか、ピアノの仕事の時よりも書きやすかった。
 大河は食い入るように画面を覗き込み、文章を読み返す。自分的には上出来だと思うが、前例がある。ひとまず保存して、あとで茂に確認してもらわなければ。
 以前春平に貰ったUSBに保存し、一息つく暇もなく真言の暗記に入る。
 こうして何かに集中している時は、余計なことを考えなくてすむ。これは、逃げだろうか。


 ノルマの真言は五つ。初級より長い真言五つはさすがにきつい。二つほど覚えたところで、気分転換に飲み物を取りに行こうとした時、扉が鳴った。開けると、アイスコーヒーを手にした茂が立っていた。
「そろそろ終わった頃かなと思って、様子を見に来たんだよ。一応確認を任されてるから」
 はいどうぞ、と差し出されたトレーごとアイスコーヒーを受け取り、大河は苦笑いを浮かべた。
「ありがとうございます。一応終わってます」
 体で扉を押さえて茂を招き入れる。
「USBに保存してるのかな」
「はい。この前、春から貰ったんで」
「了解」
 パソコンを抱えてベッドの端に腰を下ろした茂の横で、大河は椅子に座ってストローに口を付ける。程よい甘さに、やっと一息ついた。
 そろそろ誰か学生組が宿題を終えて訓練に入っている時間。今、言わずもがな怜司は就寝中。華は美琴に付き添っていて、茂はここにいる。ということは、昴は双子を見ているのか。
 いいなぁ、俺も訓練したい。大河がストローを口に含んだまま遠い目をしていると、茂が顔を上げてにっこりと笑った。うん、駄目だったんだな。いくら大河でも、思考を読まれてばかりではないのだ。察して無言で頷いた大河に茂も頷いた。
 言われるがまま書き直しを終え、宗史たちに一斉送信してから、大河はふと聞いてみた。
「しげさん、誰か具現化できました?」
 振り向いて見上げた大河に、茂が苦笑いをして首を横に振った。
「いやいや、さすがにね。そう簡単にはできないよ。樹くんもかなり早かったけど、それでも一週間はかかったんだよ?」
「え、そうなんですか?」
「そうだよ。君は例外。さすがだよねぇ」
 悪気はないと分かっているが、久しぶりに影綱と比べられた気がして、大河は曖昧に笑って聞き流した。
「弘貴は? 早朝訓練で色々試してたみたいですけど」
「ああ……」
 話題を変えたとたん、茂は視線を床に落として顔を曇らせた。聞いてはいけなかっただろうか。
「あの……」
 おもむろにベッドの端に腰を下ろした茂を目で追いかける。一つ溜め息をつくと、茂は膝の上に肘を乗せ、組み合わせた両手で口を覆うような格好をして言った。
「弘貴くんはね、今、離れで瞑想中なんだ」
「……は?」
 深刻な雰囲気を漂わせる茂に大河は目をしばたいた。何がどうなってそんな事態になっているんだ。弘貴は何をした。
「まず具現化に必要なものは、集中力だ。その点では、香苗ちゃんは問題ない。春くんも少しずつ集中力が上がってる。でも弘貴くんはね、ど――っしても他の人が気になるらしくてね。だから、離れで結界を張って隔離したんだ。ああ、大丈夫。エアコンもつけたしスポーツドリンクも二本ほど置いてきたから」
 しげさんそれは監禁です。大河は心の中で突っ込み、憂いを帯びた溜め息をつく茂を憐みの目で眺めた。よほど手を焼いているらしい。早朝訓練の時に春平から貰ったアドバイスは通用しなかったのだろうか。
「まったく集中力がないってわけじゃないし、自分なりに試行錯誤してるみたいだから、コツを掴めばすぐに慣れると思うんだけどねぇ……」
 そのコツを掴むまでの道のりが遠いようだ。気を取り直すようにもう一度息をつき、茂はところでと体を起こした。
「大河くんの方はどうだい? 真言の暗記」
「今までのやつより長いんで、ちょっと時間かかってます」
 苦笑いで肩を竦めると、茂はそうかと笑みを浮かべた。
「大河くん」
「はい?」
 真剣な面持ちでじっと見据えてくる目を見返して、大河は首を傾げた。
「大丈夫かい?」
 直球で投げられた言葉に、体が硬直した。心配そうな、見透かそうとするような目。やっぱりだ。大河は引き攣ったような顔で笑った。ぎこちない笑顔になっているのが自分でも分かる。
「別になんともないですよ。俺、なんか変ですかね?」
 下手なごまかし方。視線を泳がせた大河に、茂は静かに目を伏せた。しばらく沈黙が流れ、やがて瞼を上げた。
「こんなことを言うと、おこがましいかもしれないけど」
 大河が視線を投げると、茂は静かに言った。
「大河くんの気持ちは、僕には痛いくらいよく分かる」
「……それ、どういう……」
 目をしばたいた大河に、茂はもう一度目を伏せた。
「僕はね、妻と娘を、殺されたんだ」
「――え?」
 一言ずつ区切られた言葉に、ガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。心臓が委縮し、一瞬頭が真っ白になる。
 殺された――。
「もう、三年ほど前になる――」
 茂は静かに、まるで眠っていた記憶を掘り起こすかのようにゆっくりと、過去を語った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み