第17話

文字数 3,821文字

 桂木家の前でタクシーを降り、怜司は改めて見上げた。
 街灯は煌々と道を照らし、周囲の家々には明かりが灯り、時折どこからか笑い声が漏れ聞こえる。家そのものが生きているように熱を持ち、呼吸をし、笑っているようだ。だからこそ、余計に思うのだろうか。一切の明かりや人の気配が感じられないかつての桂木家は、魂を抜かれたように沈黙し、昼間以上に重くて深い闇に包まれていた。人がいるかいないかで、ここまで変わるものか。
 怜司は周囲を見渡し、人がいないことを確認して門扉に手を伸ばした。昼間に来た時はなかった、不動産会社の看板が取り付けられている。ミナモトエステート株式会社。
 取っ手を下ろして静かに押すと、キッと蝶番が軋んだ音を立てた。隙間から体を滑り込ませ、閉め直してから庭の方へと回り込む。庭木が目隠しになって、外からは見えないだろう。
 庭に面した縁側の掃き出し窓とは別に、道路側にも掃き出し窓がある。その前を通って角を曲がり、足を止めた。庭までは仄かに街灯の明かりが届いているけれど、さすがに薄暗い。奥へ行くほど闇が濃くなっている。
 怜司は庭を見渡して、目を閉じた。今は、何も見えない。ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 力を抜いて、リラックスして、否定するな。見えるものを見えるままに受け入れればいい。子供の頃のように。
 そんな気持ちとは裏腹に、いつもより大きく脈打つ心臓の鼓動を感じながら、怜司は瞼を上げた。少しずつ開く視界に比例して、縁側の前で佇むもういないはずの人の姿が、視界に映る。
 初めは、足。靴を履いていない。とろみのあるワイドパンツの裾からふくらはぎ、膝、太もも。前で組まれた両手。腰丈のゆったりしたニットは、あの日、彼女が着ていた服だ。胸、肩、首。そして――顔。
 声にならなかった。
 もう一生会えないと思っていた最愛の人が今、目の前に立っている。向こう側が透けて見える体が、彼女がこの世の者ではないことを物語っていたけれど、そんなことはどうでもいい。この先、これ以上の感動を味わうことはない。そう思ってしまうほど胸がいっぱいになって、しばらく動けなかった。
 見えているとは思っていないだろう。香穂はこちらを向いて前で両手を組み、今にも泣きそうな顔をして怜司をじっと見つめている。
 どれくらいそうしていたのか。不意に白い玉が視界を横切り、我に返った。
 怜司は震える唇を薄く開き、絞り出した声に彼女の名前を乗せた。
「――香穂」
 ぴくりと香穂の肩が震えた。地面を踏み締めるように、一歩一歩近付いてくる怜司を見つめた目に、驚きの色が滲む。
 目の前で足を止め、真っ直ぐ、一寸の狂いもなく香穂の目を見つめたまま、怜司はもう一度呼んだ。胸の奥から溢れる、愛しさと喜びを込めて。
「香穂」
 目をまん丸にして怜司を見上げた香穂が、手で口を覆い、信じられないと言ったふうに小さく首を横に振った。
「視えてる。ちゃんと、視えてる」
 念を押すように繰り返すと、香穂がくしゃりと顔を歪ませた。目から涙が溢れ、頬を伝って指を濡らす。
「ごめん。怖がらせたくなくて、言えなかった。人混みが嫌いなのも、これが理由だ」
 ずっと、煩わしく思っていた。何の役にも立たない、害にしかならないこんな力なんかいらないと、ずっと疎ましかった。けれど今、初めて感謝した。
 この力と、授けてくれた神に。
「会いたかった」
 自然とついて出た。自分が、こんな言葉を口にする日が来るなんて。
 怜司はおもむろに両腕を上げ、ゆっくりと噛み締めるように香穂の頬へ伸ばす。だが、触れる間際、香穂が体を竦めて逃げるように後ずさった。
「香穂……?」
 どうした。言外に尋ねると、香穂は胸の前で両手を握り締め、顔を歪めたまま首を横に振った。触れるな、と言っているのだろうか。
「香穂」
 怜司が一歩踏み出す。その分だけ、香穂がまた後ろへ下がった。
 混乱した。分からない。何故。上げた手が虚しく下ろされたのを見て、香穂の口が何か言葉を紡いだ。聞こえない。
 最初に名前を呼んだ時、香穂は反応を見せた。ということは、こちらの声は聞こえている。けれど香穂の声は、こちらには聞こえないのか。
 じっと見上げてくる香穂の目を見つめ返し、怜司は悲しげに目を細めた。
「声は、聞こえないみたいだ」
 香穂が肩を落とし、視線を逸らした。
「でも、こっちの声は聞こえてるんだよな」
 俯いたまま、一拍置いてこくりと小さく頷く。
「だったら話はできる。香穂――」
 怜司が足を一歩前へ踏み出すと、また香穂は一歩下がった。だからなんで、と問い詰めようとした時、塀の向こうから人の声がした。思わず息を止めて耳を澄ます。
「なあ、今、人の声聞こえなかったか?」
「ううん。って、こんな所でやめてよ。この家、最近誰か自殺したんだから」
「嘘っ、マジで?」
 そこで一旦声が途切れ、やだ早く行こう、と密かな悲鳴と共に足音が走り去った。
 あまり声を立てるとまずい。長居すると警察に通報されるかもしれない。確実に不法侵入だ。怜司はぐっと唇を噛み締め、尻ポケットから携帯を取り出した。十時。人通りは少なかったが、もう少し遅い時間の方がいいか。
「香穂」
 怜司は声をひそめた。
「明日、十一時にまた来る。ここにいるって約束してくれ」
 懇願するように告げると、香穂の瞳がゆらりと揺れた。そして戸惑った顔で俯き、しばらく経ってからやっと、ごく小さく頷いた。酷く躊躇っていたようだが、ひとまずほっと安堵の息が漏れる。
「じゃあ、また明日」
 そう告げると、胸の前で握られた手がぎゅっと握られた。
 後ろ髪を引かれる思いとは、こんな感じなのか。そんなことを考えながら、怜司は視線を香穂に向けたまま、ゆっくりと名残惜しそうに踵を返した。
 本音は、離れたくない。ここにいたい。そうだ、もういっそこの家を買ってしまおうか。そうすればずっと一緒にいられる。きっと輝彦と法子も賛成してくれる。
 怜司は、庭を出て角を曲がる際にもう一度振り向いた。
「え……」
 唖然とした声が漏れる。ほんの数秒目を離しただけなのに、香穂の姿はそこにはなかった。慌てて戻り視線を巡らせるが、やはり見えない。周囲を漂うたくさんの白い玉は見えるのに。ということは、どこかへ移動した?
 逃げるように距離を取る様子といい、後ろめたく思っているのかもしれない。でも、また会ってくれると約束した。
 怜司は諦めの息を吐き、再び踵を返して桂木家をあとにした。
 その夜は興奮してあまり寝付けず、翌日もずっと落ち着かなかった。仕事をしていても食事を摂っていても、時間が過ぎるのがやけに遅く感じられて、もどかしかった。
 午後十一時に訪れると、香穂は約束通りそこにいてくれた。けれどその顔は悲しげで、何か迷っているようだった。
 千鶴から例の封筒を預かったことを伝えると、香穂はあからさまに息をのんだ。やっぱり何か関係があるのだ。
 正直、今さら聞いて何になると思った。横領を告発しても香穂を自殺に追い込んだ証拠にはならないし、彼女が生き返るわけじゃない。何をしても、現状は変わらないのだ。ならば、このままこの家を買い取って、香穂と一緒に。
 けれど、香穂の不可解な態度は気になる。
「触れられないのは、分かってる」
 彼女に肉体はもうない。それは理解している。でも、それでも触れたい。そう何度伝えても、香穂は苦しげな顔をして首を横に振るだけだった。
 自殺した理由も分からない。触れられないと分かった上で触れたいと伝えても、頑なに許してくれない。じゃあ、どうしてここにいる。
 苛立ちが、少しずつ募ってゆく。
「どうして……、自殺なんかしたんだ」
 そう尋ねてみても、香穂はきつく唇を結んで俯くだけで、何も答えてはくれなかった。
 もどかしさや痛み、寂しさ。行き場のない、押し潰されそうなほどの悲しみは積もり積もって、やがて怒りへと変わる。
「俺たちに、何も知らないままお前の死を受け入れろっていうのか。いきなりお前を失ったのに、何も知らされないまま、一生何も知らずに生きろって?」
 例え知ったところで何も変わりはしないし、納得などしない。受け入れて、前向きに生きていける気もしない。でも、それでも知りたいと思う。彼女の身に何があったのか。何故、死を選んだのか。
 だって、愛しているから。愛してくれているから。
「我儘が過ぎるだろ」
 吐き出すように責めた怜司の言葉に、香穂の顔がくしゃりと歪んだ。ぼろぼろとこぼれる涙をそのままに、香穂の口が何か紡いだ。何度も何度も、必死な顔で何か訴えている。でも。
「だから……っ」
 怜司は顔を歪ませて、感情を押し殺すように俯いた。
 突然理由も分からず愛した人を失った。それでもこうしてやっと会えたのに、彼女は頑なに触れさせてくれず、何も話そうとしない。
 そんな香穂が、酷く憎らしかった。
「聞こえないって言ってるだろ……っ!」
 滲んだ涙と共にぶつけた言葉は、情けないほど掠れて、震えていた。
 耳が痛くなるほどの静寂が落ち、遠くの方でバイクのエンジン音が響いた。怜司ははっと我に返り、勢いよく顔を上げた。声が聞こえないことをもどかしく思っているのは、自分だけではないだろう。
「香穂……」
 酷く苦しげな顔をして俯く香穂へ一歩近寄り、踏みとどまった。どうせまた、逃げられる。怜司は強く拳を握った。
「……明日、また来る」
 言うや否や、逃げるように踵を返した。
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