第2話

文字数 3,623文字

 生きて、動いている。
 分かっていたことなのに、心臓がぎゅっと収縮するほど嬉しくて、安心した。同じように真っ白な顔をした影正には、もう二度と会えなくなったから。
「……ごめん」
 何度目かのごめんは、彼らしくない少し弱々しい声だった。ざまあみろと思った。ちょっとは反省しろ、と。さすがにそんなことを言う勇気はないけれど、幾分か溜飲は下がった。でも今顔を上げると、ぎりぎり堪えている涙がこぼれそうで、大河は俯いたまま動かなかった。茂に話を聞いてもらった日から、涙腺が緩くなっている気がする。
 とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。嫌味ったらしく盛大に息を吐き出して、へこんだペットボトルの蓋をひねる。
 ごくごくと喉を鳴らして飲み、また息を吐く。ちょっと落ち着いた。ちらりと視線を上げると、宗史はじっとこちらを見つめ、晴はニヤついた顔で振り向いていた。
「……何」
 泣いているとでも思われたのだろうか。おあいにく様だ。絶対に泣いてたまるか。ぶっきらぼうに尋ねると、宗史は「いや、別に」と微笑んで曖昧に答え、晴は前を向いて肩を震わせた。
 相手は宗史と晴だ。こちらの行動や思考パターンは読まれている。やっぱり強がっていることがバレたのか。何だか居心地が悪くて、大河は唇を尖らせてそっぽを向いた。
と、リビングの扉が開いて、樹と怜司の声が飛び込んできた。
「おはよー」
「おはよう」
 振り向くと、後ろに(さい)紫苑(しおん)もいた。挨拶が飛び交う。
「宗史くん、起きて大丈夫なの?」
 冷蔵庫へ向かいながら、樹が尋ねた。
「はい。貧血はありますが、他には何も」
「そ。よかった。でも、僕も似たような経験したから分かるけど、辛いでしょ」
「ええ、まあ」
 遠回しな嫌味にも、心配や同情にも聞こえる。どちらだろう。宗史も判別しかねているようで、苦笑いだ。
 樹と怜司はスポーツドリンクを、柴と紫苑は麦茶を手に縁側へ来て腰を下ろす。樹は宗史の側に、怜司はさらにその側で立ったまま二人を見下ろし、柴と紫苑は大河の隣だ。
「ところでさ」
 樹がペットボトルを床に置き、改まった様子で宗史を見据えた。そして、こちらを向くようにちょいちょいと手招きをした。宗史は素直に体を回して樹と正対する。
 樹のことだ、今から一部の隙もなく理路整然と理屈を並べ立てて説教するのだろう。言ってやれ言ってやれ。今ばかりは樹の雄弁さに期待する。
 だがそんな大河の期待とは裏腹に、何を思ったのか、樹は宗史の襟に両手を伸ばした。一応病み上がりだし、この体勢で投げ飛ばしたりはしないだろう。何をするのかと見守っていると、樹は襟を掴むなり勢いよく左右に引ん剥いた。
 斜め上の行動に、一同目を丸くして言葉を失う。何やってんだこの人。
「うん、大丈夫みたいだね」
「何なんですか!」
 宗史は一人納得する樹の手を振り払うように身をよじり、両手で襟元を合わせた。樹を睨む顔は、恥ずかしいというより意味不明な行動に警戒しているといった感じだ。おそらく傷を確認したのだろうが、治癒したのは樹も知っているのだから、わざわざ確認しなくてもいいのに。
「お前、何やってるんだ……」
 さすがの怜司も困惑気味で、奇行も極まれりかと言いたげだ。冷ややかな声で尋ねられつつ、樹は平然とした顔でよいしょと腰を上げた。
「だって、おそろいの傷なんて嫌でしょ」
 さらりと告げながらその場から離れ、庭を見渡して清々しそうに伸びをする。
 そうか。三年前、樹は触手に腹を切り裂かれ、生死の狭間を彷徨った。その痛みがどれほどのものか、身をもって知っているのだ。それと迷子事件の時。少年につけられた大河の傷を見て、不愉快だと言った。いくら意図的だったとはいえ――いや、意図的だからこそ見たくない。こんな事件が起こらなければ、知らずにすんだ痛みと傷だから。そういう意味、だろうか。
 ――あれ?
 ふと、頭に一つ疑問が浮かんだ。
「すみませんでした」
 襟を握ったまま謝罪した宗史に、樹が背を向けたまま「ん」と素っ気なく答えた。
「あっ、そういえば北原さんもだ。今からでも式神に頼めないかな」
「いきなり傷が消えたら、確実に研究対象だな」
「駄目?」
「駄目だろ」
 怜司と話しながら、えー、と薄情にも不満な声を漏らす樹の背中を見上げ、大河は首を傾げた。
 生死の狭間を彷徨うほどの傷を負ったのに今ここにいるということは、間違いなく発見された時は式神がいた。それなのに何故、樹の腹には傷跡が残っているのだろう。
「それにしても、明るいと余計に悲惨だね」
「片付けが先だな。離れもそのままだろ」
「でもさぁ……」
 不意に樹が言葉を切った。どうした? と怜司が首を傾げる。と、勢いよくリビングの扉が開き、弘貴の元気な声が飛び込んできた。
「おはようございまーす」
 後ろから春平(しゅんぺい)(しげる)、美琴、香苗(かなえ)が続く。足元を縫うようにしてすり抜けた双子が、柴と紫苑目がけて小走りに駆け寄った。勢いのまま二人に飛び付き、首にぎゅっとしがみつく。
 そんな二人を、誰もが沈痛な面持ちで眺めた。
 (あい)(れん)は今にも泣きそうな顔をしていて、一歩遅れて入ってきた(はな)夏也(かや)は少し疲れた顔だ。昴のことを話したのだろう。
「……ほんと?」
 不意に、藍がぽつりと言った。それに答えたのは、柴だ。
「ああ。本当だ」
 戸惑いや躊躇いのない答えに、藍と蓮がぐずっと鼻をすすった。
 まだ幼いとはいえ、子供向けのアニメやヒーロー戦隊ものを見て理解できる年だ。敵、味方の意味くらい分かる。華と夏也は、オブラートに包むことなく話したようだ。藍と蓮は昴にかなり懐いていたし、昴も双子に優しかった。そんな「優しい昴お兄ちゃん」は敵だったと知らされ、幼い心はどれほど傷付いただろう。
 慰めるように柴と紫苑が双子の背中を優しく撫で、息を吐いて気を取り直した弘貴(ひろき)が冷蔵庫へ向かい、春平たちが続く。
 大河はぐるりと皆を見渡した。陽射しが差し込む明るいリビングに、蝉の声、住宅街の喧騒。周りはいつもと変わらないのに、この空間だけが取り残されたような心細さを覚える。さらに、一人足りない顔ぶれが喪失感を連れてきて、酷く物悲しく思えた。
 省吾(しょうご)が悪鬼に食われた直後や影正が死んだ時も、こんな感覚だった。あって当たり前だと思っていたものを突然失った、喪失感と空虚感。よく、胸に穴が開いたようだと言うけれど、多分こんな感じなのだろう。
 バケツリレーよろしくペットボトルが回され、受け取った茂がこちらへ向かいながら心配顔で尋ねた。少しぎこちない。
「宗史くん、起きて大丈夫?」
「ええ。すみません、ご心配をおかけして」
 宗史は今日一日で何度同じ台詞を言うのだろう。
「ほんとっすよ。俺、幻覚かと思いましたもん。マジで心臓に悪いからやめてください」
 努めて明るく言いながら冷蔵庫の扉を閉めた弘貴が振り返り、口を閉じた。視線の先には、ペットボトルを抱えた美琴だ。緊張した面持ちで大河たちの前に歩み寄り、足を止める。
「あの……」
 一緒に下りてきた弘貴たちにはもう伝えたのだろう。ああ昨日のことかなと察して、大河は体を回して胡坐を組んだ。庭を向いていた晴、樹、怜司が体勢を変え、柴と紫苑も黙って美琴を見上げる。
 美琴は俯き、ゆっくりと深く頭を下げた。
「すみませんでした」
 潔い謝罪。こういう時の役目は宗史だが、今ばかりは人にとやかく言える立場ではない。沈黙を守る宗史の代わりに、樹が口を開いた。
「それは、どっちに対しての謝罪なの? 自分から傷をつけたこと? それとも、昴くんを抑え切れなかったこと?」
「両方です」
 前者はともかく、後者は違うだろう。どうして美琴が謝る必要があるのか。即答した美琴に大河は目を丸くし、樹は息をついた。
「昴くんの実力は、今でもまだ測りかねてる。誰が任されていても同じ結果になってたかもしれない。そのくらい不明確なのに、誰も君を責めたりしない。むしろ反省して欲しいのは前者だよ。敵の出方も分からないのに、あの行動は間違いなく早計。もっと様子を見るべきだった。いい? よく聞いて。あの時、もし美琴ちゃんが重傷を負ってたら、全員が全力であいつらを殺しにかかってた。周りにどんな被害が出たとしてもね。僕たちにとって、君はそのくらい大切な仲間なんだよ。ちゃんと自覚して。いいね」
 淡々と、けれどとても力強い声。樹は嘘をつかない。考えるまでもなく、全て彼の本心だ。美琴は頭を下げたまま、はい、とごく小さく答えた。深いお辞儀と顔を隠すように垂れ下がった髪で表情は見えなかったけれど、美琴はすぐに頭を上げようとしなかった。代わりに、ペットボトルを握る手に力がこもるのを、大河は見逃さなかった。
「さてと、これで説教終わり」
 さっさと頭を切り替えていつもの声に戻った樹は、でさ、と続けた。
「僕から一つ提案があるんだけど」
 いたずらっ子のようににんまりと笑顔を浮かべた樹に、一同嫌な予感を覚えつつ首を傾げた。
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