第11話

文字数 2,588文字

 紫苑は顔を上げた。
「あの、玄慶様……」
「何だ」
「何故、私に……?」
 玄慶は、ほとんど、と言った。知らない者もいるのだ。だとしたら、何故わざわざ自分に話したのか。困惑した面持ちで見上げる紫苑に、玄慶が改まった声で言った。
「紫苑。一つ聞きたい」
 真っ直ぐ見据えてくる強い眼差しがまるで何かを試そうとしているようで、紫苑は姿勢を正した。
「この話を聞いてなお、お前は柴主に忠誠を誓えるか」
 想像だにしない問いかけだった。
 もしかすると、かつて柴の「秘密」を知って配下から抜けた者がいるのかもしれない。三鬼神の配下に入るということは、自らの命を預けるも同意。それだけ、鬼にとって三鬼神の存在は重要なのだ。しかし、だからといって彼らと同じように見られるのは、非常に心外だ。
 紫苑は不服を押し込めるようにきゅっと唇を結び、いっそ睨むように玄慶を見つめ返した。
「お言葉ですが、玄慶様。その問い、愚問でございます」
 自分で言って気が付いた。これまでこの話が耳に入ってこなかったのは、もちろん混乱を避けるためもあったのだろう。けれどきっと、知っている者たちにとって瑣末なことだったのだ。それだけ、柴には三鬼神としての強さと器がある。
 強い語気で断言した紫苑に、玄慶は一瞬目を丸くした。と思ったら、弾かれたように豪快な笑い声を上げた。
「そうだな、すまん。念のために聞いただけだ、気を悪くするな」
 言いながらも笑いを噛み殺す玄慶に、紫苑はむっと唇を尖らせた。
「気を悪くはしておりませんが、しかし、何故今さらそのようなことをお聞きになるのですか」
 何がそんなに面白いのかも分からないが、一番謎なのはそこだ。
 少々不機嫌をあらわにした紫苑に玄慶はもうひと笑いし、父と母の墓へ視線を投げた。そして一つ息を吐くと再びこちらへ向き直り、口元に笑みを浮かべた。
「俺は、次の腹心にはお前をと、考えている」
「……は?」
 間の抜けた声が出た。この方は何を言っているのだ。呆然と見上げてくる紫苑に、玄慶が低く喉を鳴らした。
「もちろん、お前だけではないぞ。暁覚や氏玉、他にも数名いる。野鬼の間で餓虎を復活させようとする動きがあるのは、お前も知っているな?」
「はい」
「何より、他の三鬼神との関係だ。皓はともかく、隗は元来好戦的な性格だからな。いつ戦を仕掛けてくるか、さっぱり予測がつかん」
 今や三鬼神同士の争いは配下の者たちによる小競り合い程度だが、確かにその関係がいつ崩れるか分からない。加えて野鬼との争いは相変わらずだ。餓虎との一件で多少大人しくはなっているものの、不穏な動きをしているという噂は絶えず、思い出したように縄張りに手を出してくる。
「そうなると、いつ何時俺に何があるか分からん。何せ、これだからな」
 玄慶がひょいと左腕を上げて見せた。絞ったような傷口は見るからに痛々しく、以前は二振りの刀を自在に扱っていたが、今はひと振りだけになってしまった。
「何をおっしゃいますか。玄慶様の強さは以前と変わりありません」
 心持ち身を乗り出して訴えても、玄慶は朗らかに笑うだけだ。
「そう言ってくれるのは有り難いが、先のことを考え、手を打っておくのも腹心の役目だ。先程も言ったが、何が起こるか分からんからな。考えておいて損はない」
 そう言われると返す言葉がない。確かに、こんな状況ではいつ何があるか分からない。先のことを考えておくのは大切なことだ。とはいえ、玄慶が死んだあとのことを考えるのは、いい気分ではない。
 拗ねたような顔で視線を泳がせる紫苑に、玄慶は困り顔で笑った。
「そう重苦しく考えるな。俺とて、そう簡単に腹心の座を譲るつもりはない。だが」
 ぽん、と頭に大きな手が乗った。
「お前は、そのつもりで鍛錬に励め。柴主のために。よいな」
『いつかあの方の役に立てるよう、強くなりなさい』
 よく父が言っていた。柴のために、強くなれと。あの頃は、自分たちの集落を守るために強くなれと、それが柴のためになるからと、そんな意味だと思っていた。もちろん、今でもそう思っている。集落や里や根城、仲間を守ることが柴を守ることでもある。でもそれに加えて今は、柴の側で、主自身を守れる位置にいる。
「はい」
 はつらつとした顔で答えた紫苑に、玄慶は満足そうに頷いた。
「そろそろ帰らねばな」
「はい」
 新たな気分で踵を返した、その時。
「父上!」
 行毅が飛び込んできた。
「行毅。どうした」
 行毅は少し離れた場所に着地すると、慌てた様子で駆け寄った。
「それが……っ、柴主が……っ」
 相当急いで来たらしい。両手を膝について息を整える合間から出た名に、玄慶のこめかみがぴくりと動いた。
「もしや、いなくなったのか」
 腹の底から絞り出したような低い声に玄慶を見上げ、紫苑と行毅は同時に仰け反った。頬を引き攣らせてまなじりを吊り上げた顔が怖い。これぞ鬼、と言った形相だ。
「は、はい。今、皆で探しておりますが……」
「あの馬鹿主が……ッ!」
 悪態で言葉を遮り、玄慶は慄く紫苑と行毅を見下ろした。
「お前たちは戻りがてら探せ。単独で行動するな。よいな」
「御意っ!」
 射抜くような鋭い眼差しにぴしっと姿勢を正して答えると、玄慶はその場でとんと地面を蹴って大きく跳ね、
「どこに行った、馬鹿主ぃ――――ッ!」
 今度は大声で悪態をつきながら、あっという間に姿を消した。
 はらはらと舞い散る山桜の花弁を眺めて、行毅が呟いた。
「また、父上の雷が落ちるぞ……」
 紫苑は顔を覆って大きな溜め息をついた。ここ最近は大人しくしていたのに、何故今――いや、玄慶がいない今だからか。
「さて、俺たちも行くか」
「ああ」
 紫苑は一度集落をぐるりと見渡した。
「では、また」
 もし腹心の座に就いたとしたら自分に務まるだろうか。そんな一抹の不安を抱えて、紫苑と行毅は同時に大きく飛び跳ねた。
 今日はどこにいらっしゃるのだろうな、川の方は探したか。そんなことを話しながら集落をあとにする二人を見送るように、春の暖かな風が緩やかに吹き抜けた。

 のちに、人の世では都が移され、蝦夷との戦に終止符が打たれ、朝廷の支配は次第に拡大していった。一方で鬼はといえば、野鬼との戦は相変わらずだったが、三鬼神同士の関係は変わらず、鬼の歴史上最も平和な時代を築いてゆく。
 やがて時は流れ、都をも巻き込んだあの戦が引き起こされる。
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