第29話

文字数 5,426文字

 先日の夜の会合といい今日の会合といい。情報量が多すぎて、どこから整理すればいいのか見当もつかない。心底自分の脳みその狭量さが恨めしい。
 弘貴や春平と一緒に風呂から上がり、水分補給をする間に樹と怜司がリビングに姿を見せた。晴と茂はまったり浴槽に浸かり、柴と紫苑は――というより、紫苑は柴の洗髪を堪能中らしい。
 体力はともかく精神的に疲れ気味で、示し合わせたように長居することなく二階へ向かう。樹と怜司の時間がずれているため普段は混み合わないのだが、この時ばかりは三つの洗面台の取り合いになった。
「ここは師匠に譲るのが常識でしょ?」
 と、ここぞとばかりに師弟関係を強調され、しぶしぶと身を引いたのは言わずもがな大河だ。弘貴と春平は仲良く譲り合っているというのに。
 くわえた歯ブラシをぐぬぬと噛み締め、恨めしい目で背後から睨み付ける大河の視線に気付いているのかいないのか、樹はしらっとした顔でさっさと歯を磨いて自室へ入った。一緒に怜司が消え、弘貴と春平もじゃあねと消えていき、大河は一人寂しく残された。
 誰よりも深い情を持っているのかも、などと思ったあの時の自分に、目を覚ませだまされるなと言ってやりたい。いや、そもそも洗面台一つでここまで熱くなる自分もどうなのか。相手は樹さんだぞ、俺が大人になればいいんだよ、と自分に言い聞かせ、大河は一人うんうんと頷く。
 口をゆすいで洗面所を出ると、立ち話でもしていたのだろうか、弘貴と春平の部屋のドアが閉まったところだった。
 無意識に眉根が寄った。
 風呂に入っている間、春平の様子がちょっとだけおかしかった。落ち込んでいるだけなら仕方ないと思うが、一度も目を合わせてくれなかったのだ。人数が多くて慌ただしかったし、気のせいかとも思ったのだけれど。
 大河はなるべく足音を立てずに廊下を進む。
 春平のことだ。宗一郎が、わざわざ説明の場を分けたその意味を察しているのかもしれない。疑われていたと知れば、誰でもいい気はしないだろう。仕方なかったと言えば、そうなのだろうが。
 大河は密かに溜め息をついた。内通者が誰か分からなかったというこちらの事情を、押し付けるわけにはいかない。けれど、春平なら理解してくれるはずだと思うのは、勝手だろうか。
 二階の扉は、洗面所を入れて十五枚。双子が一部屋、柴と紫苑が一部屋を使っているため、もう一つの客間が空いている。柴と紫苑の隣の部屋で、今は宗史がいる。
 大河は、自室の隣の部屋の前で足を止めた。下がっているプレートには、ひらがなで「すばる」と書かれており、あれ、と今さら気付く。他の皆は漢字やローマ字なのに。もしかして、双子が読めるように気を使ったのだろうか。
 ハンドルへ手を伸ばし、握る直前で躊躇した。
 あの時、昴ははっきり言った。誰も傷付けずに戻りたいだけだ、と。自分の戻るべき場所はここではない、向こう側だと決めているのだ。それでも、この扉を開けたら昴がいて、「どうしたの? 大河くん。眠れない?」なんて言いながら、あの柔和な笑顔で迎えてくれるのではないか。そんな期待が、頭から離れない。
 あれが現実だと、分かっているのに。
 大河は奥歯を噛み締めて手を引っ込めた。逃げるように離れて向かったのは、宗史がいる部屋。今度は躊躇いなくハンドルを下げて、できるだけ音をさせずに開けた。流れ出る冷えた空気に逆らって、するりと体を滑り込ませる。同じようにして双子の部屋に入った今朝のことが、ずいぶんと昔のように思えた。
 そういえば、皆で撮った集合写真。昴は今日の計画のことを知っていたはずだ。何を思って、どんな気持ちで写真に収まったのだろう。
 客間は二人部屋のため、大河たちの部屋よりも少し広い。縦長の部屋は入って正面に窓があり、その前に椅子とテーブルが備え付けてある。左手にクローゼットと、チェストを挟んだシングルベッドが二台並び、右手にはドレッサー。カーテンは閉められているが、チェストに置かれたルームライトは灯されている。
 テーブルの上に、きちんと畳まれた服が置かれている。多分宗史のものだ。迷子事件の時に置いて帰っていたから、それかな。大河は頭の隅でそんなことをちらりと考えながら静かに歩み寄り、奥のベッドの脇で足を止めた。
 エアコンの控え目な稼働音の中、目を覚ます気配のない宗史の顔を見下ろす。首元には、右近と律子が着せたのか、着物の襟が覗いている。香苗に聞いて、柴と紫苑の部屋から失敬したのだろう。規則正しい寝息を立てるその顔は、ライトに照らされてできた陰影のせいか、どこかやつれて見える。顔色も悪い。
 大河はゆらりと腕を持ち上げた。寝息は聞こえる。胸も上下している。生きている。そう分かっているけれど、整った顔立ちのせいで、白い頬が触れればひやりと冷たそうに見えて、確認せずにはいられなかった。
 まるで触れてはいけないものに触れるような、躊躇した動き。大丈夫、生きてる。そう言い聞かせても、心臓の鼓動はいつもより少し速く、指先は小さく震える。
 腰をかがめ、人差し指の表側で遠慮がちに頬に触れる。
 ――温かい。
 思わず、全身で安堵した。
 指を離し、体勢を戻す。あまり長居していると、晴に見つかってしまう。こっそり様子を見に来たことを宗史に知られるのはなんだが悔しい。晴のことだ、面白がって絶対話すに決まっている。
 あれは多分、宗一郎も知らなかった。あれが演技ならアカデミー賞ものだ。宗一郎にすら相談せず、あんな危険なことをして椿を敵側に潜入させた。心配なんかしてやらなくてもいい。本当は。
「心臓止まったんだからな。馬鹿」
 吐き捨てるように小さく呟き、大河は踵を返した。
 明日、もう日が変わったから今日だ。出血が多かったから、貧血で動けないだろう。とは思うが、宗史のことだから無理して動くかもしれない。最低でも今日一日は絶対安静。でも会合があるから、せめてその時間まではベッドに縛り付けてでも大人しくさせておかなければ。
 よし、と大河は妙な使命感を覚えて、部屋をあとにした。


 茂や柴と紫苑と共に風呂から上がり、入れ替わるように華と夏也が風呂へ入った。珍しいメンツだなと思いながら、晴は麦茶が入ったグラスと煙草一式を持って縁側に出る。双子がいる時は吸わないが、今はいい年をした大人ばかりだ。遠慮はいらない。
 どっこいしょと腰を下ろし、先に麦茶で喉を潤してから煙草をくわえる。肺の奥まで深く吸い込んで、溜め息と共に長く吐き出す。着慣れない着物を着せられ、お固い口調でべらべらと喋った。おかげでいつ舌を噛むかひやひやした。あんな大仕事を終えたあとの煙草は格別だ。
「晴くん、一本もらっていいかな」
 そんな要求をしてきたのは、まさかの茂だ。晴は驚いたように瞬きをして、グラス片手に隣に腰を下ろした茂を見つめた。
「意外。しげさん吸えるんすね」
「昔ちょっとだけね」
 煙草を差し出すと、茂はありがとうと言って一本引き抜いた。晴がライターで火をつけ、茂がくわえた煙草を近付ける。じりっと焼ける音をさせて、先端から臭いと煙が立った。
 茂は前を向いて細く紫煙を吐き出す。
「ほら、僕たちの世代って、煙草イコール格好良いって時代だったから。すぐにやめたけど」
「あー、三十年くらい前ってそんな感じか。羨ましい」
「今は厳しいもんねぇ」
 他人事のように笑った茂に、晴はまったくだと頷いた。一度やめてからもう何十年と経っているのに吸いたくなるのは、それほど心に何か溜まっている証拠なのだろう。気持ちは分かる。
「大丈夫?」
 さりげなく問われ、晴はくわえかけた煙草を口元で止めて、横目で一瞥した。昇り立つ煙の向こう側を見つめた茂の目には、憂いの色が浮かんでいる。
「あいつが決めたことなんで、心配する必要ないっす。それより、しげさんはどうなんすか」
 率直に尋ねて煙草をくわえた晴に、茂は煙を吐きながら短く笑った。
「複雑と言えば複雑だけど、十一年も前だから。むしろ、今一番の気がかりは春くんたちかな」
「あー、やっぱりか」
「気が付いた?」
「そりゃ、あんだけあからさまだと気付くでしょ。大河も気付いてたっぽいし」
 今度は茂が「あー」と低い感嘆を吐き出して、困り顔をした。
「やっぱり気付いてるよねぇ。いい方向に触発されればと思ってたんだけど、大河くんの成長が思った以上に早いから、プレッシャーがかかり過ぎてるのかも」
「春と美琴すか」
 うん、と茂は悩ましい声で答えて煙草をくわえた。
 香苗は元々自覚があり、弘貴は開けっ広げな性格のため、そこまで心配する必要はない。だが、春平と美琴に関しては、おそらくそうはいかない。
「春くんは内に溜め込みやすいタイプで、美琴ちゃんも、未だにこういうことは話してくれないし。心配なんだよね……」
 春平は四年の間、陰陽師として訓練を受けてきた。美琴はたった一年とはいえ、かなりの努力を積み重ねてきた。だからこそ、影綱の霊力を受け継いでいるとはいえ、たかが数週間の訓練でここまで成長を見せる大河に、複雑な感情を抱くだろう。
 二人の性格を考慮した上で忌憚なくいえば、春平は卑屈になり、美琴は屈辱を覚える可能性が高い。そこからどう抜け出すかが問題になってくる。感情がねじれれば、関係にひびが入る。ひいては、戦力を落とすことになりかねない。その前に外部から何かしらの手を打つか、それとも、リスクを負ってでも成長を期待して本人に任せるか。難しいところだ。
 ただ、二人のことを気にしてやりたいのはやまやまだが、他にも色々と問題が山積みなのだ。
 晴は渋い顔で紫煙を吐いた。心なしか苦みが増している気がする。
「茂、晴」
 渋い顔と心配顔で煙草をふかす二人に声をかけたのは、柴だ。振り向くと、佇んでグラスを握ったまま、真っ直ぐな眼差しで言った。
「疲れている時は、悪い方へばかり考えてしまうものだ。良い案も浮かばぬ」
 晴と茂は目をしばたいた。それはつまり、さっさと寝ろ、ということか。二人は顔を見合わせてふと笑い、小さく肩を震わせた。
「確かにな。おっしゃる通りだ」
「そうだね。今日はとりあえずしっかり寝て、明日様子を見ながら考えようか」
「そっすね」
 正確な年齢は知らないが、はるかに年上なのは間違いない。冷静な分析は年の功か。彼らの目には、自分たちはどう映っているのだろう。
 二人は最後の一口を吸って、吸殻を携帯灰皿に押し込んだ。麦茶を飲み干してから腰を上げる。
 リビングを出て階段へ向かう。そういえば、美琴と香苗も同じタイミングで風呂に入ったけれど、まだ上がっていないのか。女って長風呂だよなぁ、と思いつつ階段を先行して上る。
 上り切って廊下の角を曲がったとたん、晴が急に足を止めて身を引っ込めた。晴の背中にぶつかった茂が「ぶっ」とくぐもった声を漏らす。反動で一歩後ろに下がった茂を柴が受け止めた。
「晴くん? どう……」
 顔を押さえた茂に、晴は唇に人差し指を当てて「しっ」と小さく制した。
 張り込みの刑事よろしく、晴は壁に張り付いて角から廊下の先を覗き込む。茂たちは首を傾げつつ、倣うようにこっそりと顔を出した。四人の視線の先には、大河だ。一番奥の部屋、宗史がいるはずの部屋の扉を静かに閉め、身を翻して忍び足で自室へと戻った。
 ぱたんと扉が閉まったところを見計らい、四人は顔を見合わせた。
「あやつは、何故盗人のような真似をしておるのだ?」
 解せぬ、とでも言いたげに眉を寄せた紫苑に、晴と茂が思わず噴き出した。
「宗史くんを起こさないように気を使ったんだよ」
「あれじゃ簡単に起きねぇって分かんのに」
「そこはほら、大河くんだからねぇ」
 あー、と三人から長い肯定の声が上がった。まさか一日に二度も「大河くんだからねぇ」などと言われているとは、本人も思わないだろう。からかわれているのか呆れられているのか、微妙なところだ。
 笑い声を噛み殺しながら誰からともなく洗面所へ入り、歯磨きを終えて部屋へ向かう。
「じゃあ皆、お疲れ様。おやすみ」
 小声で挨拶を交わし、茂が部屋へ引っ込んだ。さらに進んだ先、隣り合う部屋の扉の前で晴たちは足を止めた。
「じゃあな。おやすみ」
「……晴」
 柴に呼び止められ、ドアハンドルにかけた手を止めて振り向く。
「よく、休め」
 まるで念を押すようにひと言告げると、柴はふいと顔を逸らし、紫苑が開けた扉をくぐった。柴に続いた紫苑がちらりと晴を一瞥し、しかし何を言うでもなく部屋に入り扉を閉めた。
 ぽつんと一人残された晴は、きょとんとして数秒間立ち尽くした。先程の助言といい、本当に鬼らしくない鬼たちだ。
「ったく」
 晴は乱暴に頭を掻きながら扉を開け、部屋に入った。
 ルームランプが仄かに灯る部屋は、適度に冷えていて快適だ。晴は二台並んだベッドの間を通り、手前のベッドの端に腰を下ろした。目の前には、規則正しく寝息を立てる幼なじみがいる。
以前この部屋に泊まったのは、影正が殺された日。隣の部屋には大河がいた。明の術で深い眠りについた大河の様子を覗きに行った宗史は、すぐに戻ってこなかった。しばらくして戻った彼の目は、わずかに充血していた。
 あの時と、逆だ。
 晴は長い溜め息をつきながら、背を丸めて膝に両肘をついた。組んだ両手を額に当て、ぼそりと呟く。
「勘弁しろよ……」
 絞り出した声を掻き消すように、エアコンが低く唸った。
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