第5話

文字数 2,962文字

「ったく、冗談じゃねぇ」
 紺野は肩を怒らせ、どすどすと足音を鳴らしながら転がっているロープのところへ行き、はたと止まった。そうだ、悪鬼はどうした。
 慌てて周囲に視線を巡らせると、相変わらずふわふわと浮いていた。だが、さっきまでより男との距離が近くなっている。近藤ではなく、男?
 何なんだ、一体。
 悪鬼を注視したままひったくるようにロープを拾い上げ、ゆっくりと男のところへ戻る。やはり動かない。近藤を襲うなら、男を相手にしている間に襲っているはずだ。にもかかわらず襲わなかった。ということは、あれは奴が生んだ悪鬼ではないのか。動きを見る限り、男を狙っているように思える。どこかの誰かが奴を恨んでいて、それに取り憑かれている、とか。しかし、だとしたら男はとっくに食われているはずだ。特殊な悪鬼なのか。どちらにせよ、近藤を襲う様子も男を食うつもりもないようだし、護符もある。警戒する必要はないだろう。
 気がかりが一つ消え、紺野はほっと息をついて悶絶する男を見下ろした。邪気もすっかりなりを潜めている。動機を問い質したいところだが、どうせ分かるからあとだ。
「おら、起きろ。現行犯だ、言い訳は通用しねぇからな」
 胸倉を掴んで引っ張り上げる。
「痛い痛い!」
「うるせぇ!」
 間髪置かずにぴしゃりと一蹴し、背後にしゃがみこむ。男の両腕を背中に回し、ロープの両端を残して手早く両手首を拘束した。
「立て」
 腰を上げながら言い放つ。だが、男はうなだれて「いてぇよぉ」と小さく泣き言を漏らすだけで、立ち上がろうとしない。紺野は舌打ちをかまし、残していたロープの両端を自分の手に巻きつけ、さらに男の手首を鷲掴みにして棚までずるずると引きずった。ロープを棚の足にしっかりとくくりつけ、よしと一人ごちて腰を上げる。
 身を翻して近藤のもとへ駆け寄ると、今だと言わんばかりに悪鬼が宙を滑って再び男の周りを囲んだ。
 何が何だかさっぱり分からない。
 少々混乱した頭を抱えながら、ふと目に入ったスタンドライトの横のトレーの中身に、思わず溜め息が漏れた。手術用のメスが数本、ライトの明かりに照らされて静かに光を放っている。
「こんなもんまで用意しやがって。解剖でもするつもりだったのか?」
「そうみたいだよ」
 他人事のようにさらりと肯定した近藤に、もう一つ溜め息をつく。ったく、とぼやいて、改めて近藤を見下ろす。荷物を固定するときに使用する、バックル式の長いベルトで両手足と胸を固定され、シャツが切り裂かれている。どうやら、解剖される寸前だったようだ。
「なんて恰好だよ」
「襲わないでね?」
「アホか」
 軽口を叩き、紺野は手首のベルトのバックルに手をかけた。台の下からベルトを回し、手首にそれぞれ二重に巻いてからバックルで止めてあるようだ。無理に引っ張ると擦り切れるだろう。面倒だが、片手ずつ解かないとならない。そしてよく見ると、髪やシャツ、スチール台が濡れている。水をかけられたようだ。
 ややこしい鬼代事件の最中に、よりにもよって近藤を拉致するなんて。鬼代事件関連なのか別件なのか、余計な心配と頭を使う羽目になった。その上、廃ホテルでも散々埃まみれになり、またこれだ。夏用のスーツは、自宅でも洗濯できるアイロン不要のものを愛用しているが、他人の悪意によって洗濯させられるのは非常に不愉快だ。
 洗濯物増やしがって、としかめ面でぶつぶつ呟く紺野を眺めていた近藤が、長い息を吐いて天井を見上げた。口元には、微かな笑みが浮かんでいる。
「あー、安心したらまた頭痛くなってきちゃった」
「殴られたのか?」
「ううん、脱水症。催涙スプレーかけられて、トランクに入れられたから」
「ああ、やっぱり催涙スプレーだったか」
 ひとまず右手首の拘束を解き、胸のバックルに手をかける。
 催涙スプレーの携帯は、軽犯罪法に該当する。特に、化学成分であるCNガスが使われている物は「人体に重大な害を加える器具」として定められている。購入し、自宅で保管しておくぶんには問題ないが「持ち歩く」ことは違法なのだ。とはいえ、小型で手軽、かつ確実に犯人にダメージを与えられるため、護身用として持ち歩く者もいる。
 例えば、経営者や経理担当者が大金を持って銀行などに運ぶ場合や、深夜の帰宅が頻繁な女性など「正当な理由」があれば警察官によっては見逃すこともある。ただし、携帯していた場所や普段の取り扱い方、催涙スプレーの性能、あるいは何をもって「正当」とするかが難しいところであり、検挙される場合もある。女性や力の弱い者からしてみれば納得できないだろうが、今回のように犯罪に使用されないためには必要な法律なのだ。
「つーか、脱水症で済んだのが奇跡だな」
「紺野さん、何か飲み物持ってきてない? 干からびそう」
「悪いけどねぇな。応援呼んでるから、あとで聞いてみるか」
「うん」
 ひとまず右手首と胸のベルトを解くと、近藤は右腕を上げて邪魔臭そうに顔に張り付いた髪をかき上げた。頭の痛みを堪えるように寄った眉間のしわと、額の傷があらわになる。
 紺野はその傷を見つめながら、頭の方からぐるりと反対側へ回り込んだ。
 十七年前、近藤は一度死にかけている。脱水症を引き起こすくらいだ。トランクの中で意識が朦朧として、死を覚悟したかもしれない。あの時の記憶が蘇っても、おかしくない。
「よく頑張ったな」
 ぽんと頭に手を置くと、近藤は驚いたように目を丸くした。そして、すぐにふっと息を吐くように苦笑いを浮かべた。
「うん。助けてくれて、ありがと」
 おや、素直だ。子供じゃないよなどと返ってくるかと思っていたが。さすがの近藤も少し弱っているか。紺野は、頬を緩ませて左手首に絡んだベルトに手をかけた。こちらにも擦り傷ができている。
「ところで、さっきから何を見てたの?」
 尋ねられ、紺野は小声で答えた。
「悪鬼がいるんだよ。お前を狙ってるわけじゃないみたいだから、気にするな」
 近藤は首だけ回して男を見やった。
「やっぱり僕には見えないなぁ」
「見えなくていい、あんなもん」
 この事件に関わっているなら見えた方が便利ではあるが。ふぅん、と近藤は曖昧に相槌を打って、再び天井を見上げた。長く息を吐き、おもむろに口を開く。
「あのさ、紺野さん。聞きたいことがあるんだけど」
「うん?」
「あの時さ、僕に人工呼吸したのって、誰?」
「は?」
 こんな時になんだ。思いもよらない質問に、紺野は手を止めて顔を上げた。
「あの時って、鴨川のか?」
「そう」
 思い出して疑問に思ったのだろうが、もしやおかしな想像でもしているのだろうか。
「安心しろ。俺じゃねぇよ」
「違うの? じゃあ誰?」
「花見客の中に、確か横浜だったか。観光に来てた医者がいたんだよ」
「どんな人?」
「四十代くらいの男性だ」
「……そう……」
 一拍開けた複雑そうな返事に、紺野は近藤を見やって嘆息した。遠い目をしている。
「変な顔すんな。命の恩人だろうが」
「分かってるけど……、僕のファーストキス……」
「医療行為を数に入れんな。そもそも覚えてねぇんだろ」
「そうだけどさぁ……」
 なんか複雑。と呟いた近藤に、何度目かの溜め息が漏れる。十七年も前のことを、何故今さら気にするのか。大体、法医学を学び、仕事にしている奴のセリフとは思えない。
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