第10話

文字数 3,096文字

「とにかく山を下りて、夜になってから市内に戻った。こっそり寝床に戻って、必要なものだけを持って、県外に出た。この六年、色んなところを転々とした」
 岡部は、事故の概要と指名手配されたことを知ったのは拾った新聞を読んだからだと言った。
 あのあと、岡部たちが乗っていた車は激しく炎上し、運転席から丸焦げの遺体が発見された。崖下に落ちた車も同様で、大破していたがナンバープレートから身元が判明した。
 また、岡部たちが乗っていた車の方もナンバープレートからすぐに持ち主が分かり、隠して設置されていた防犯カメラ映像が提出された。映っていた顔を前歴者リストと照合すると、岡部と判明。住所不定であることから聞き込みが行われ、同時に、バスの車載カメラ映像から藤本の顔も分かった。藤本の私物と遺体のDNAを照合し、本人だと断定された。
 その後、藤本の私物から睡眠薬が発見されたため自殺目的だった可能性が高く、しかし岡部は生き残り、怖くなって逃げたのだろうと報告された。岡部の捜索も行われたが足取りさえ掴めず、結局はっきりしたことは解明されないまま、送致された。
「まさか、カメラがあったなんて……、だから、やめろって言ったのに……」
 うなだれてそう呟いた岡部に、熊田は(まなじり)を吊り上げた。
「他人事みたいに言うんじゃねぇ、お前も同罪だろうが!」
 般若のように顔を怒らせた熊田を見上げ、岡部がひっと引き攣った悲鳴を上げた。
 岡部の話を聞いて確信した。妙子は嘘を言っていない。彼女は、そして明たちはこの六年間、ずっと岡部を探していたのだ。
 何となく想像はしていたけれど、いざ本人の口から聞くと、何度殴っても気が収まらないほどの怒りが湧いてくる。
 岡部と藤本は、自分の欲望のためだけに、三人の子の父親を殺害したのだ。
 まだ会ったこともない三兄弟を想像した。十四年前に母親を病気で亡くし、六年前に父親を亡くした三人の兄弟。末弟の(はる)は、母親の顔を写真でしか知らないだろう。その胸に抱かれたことも、自分の名を呼ぶ声も、覚えていない。
 ギリっと強く奥歯を噛み、怒りを押し殺す。
「どうして……」
 不意に、佐々木が呟いた。
「どうして、戻ってきたの……?」
 静かな声で問うた彼女の視線の先で、岡部が顔を歪め、肩で息をしながら答えた。
「……娘に……どうしても、会いたかった……」
「娘?」
 佐々木が問い返した。岡部に結婚歴はないはずだが。
「結婚は、してない。付き合ってた女から、子供が出来たって聞いたあとに、逮捕された。出所して、女の実家に行ったら追い返されて……、でも、どうしても子供に会いたくて、時々遠くから見てたんだ」
 呆れを通り越して、なんと言っていいのか分からなくなってきた。この男の思考回路が理解できない。
「会えたの?」
 佐々木の質問に、岡部は首を横に振った。
「どこかに、引っ越してて、いなかった……」
 岡部はどこか苦しそうに腹の辺りを掴み、ぽつりとこう言った。
「もう、ほとぼりも冷めてるかと思ったのに……」
 衝撃が強すぎて、息が止まった。こいつに人の心はないのか。ふざけんな、と怒声を上げかけた熊田より先に、佐々木が口を開いた。
「なによ、それ」
 岡部が顔を上げた。
 佐々木とは長い付き合いだが、初めて聞く、酷く冷たい声だった。驚いて視線を投げると、佐々木は険しい顔で岡部を睨みつけていた。白くなるほど拳が強く握られている。
「貴方、被害者がどんな人だったか一度も考えたことないの? 彼にはね、三人の子供がいるの。十四年前に奥さんを亡くして、三人の子供を育ててたのよ。六年前、一番下の子はまだ八つだった。分かる? その子は生まれた時に母親を亡くしてるの」
 佐々木はきつく唇を噛んでから、言い放った。
「貴方はそんな子から父親を奪ったのよ! ほとぼりなんか冷めるわけないでしょう! 娘さんがいるのに……どうして……っ」
 声を詰まらせ、顔を歪めて俯いた佐々木を見上げていた岡部が、肩を落としてうなだれた。
「どこまでも、自分勝手な……っ」
 掠れた声で呟いた佐々木の声は、震えていた。熊田が少し遠慮がちに佐々木の背中に手を添えると、岡部がゆっくりと地面に額を擦りつけた。
「すみません……、ごめんなさい……すみませんでした……」
 囁くような小さな声で、何度も何度も謝罪の言葉を口にする。しかしこの男は、三度の前科がありながら殺人まで犯しているのだ。謝罪の言葉が、軽く聞こえてしまう。
 熊田は気持ちを切り替えるように息をついた。
「謝るのは俺たちじゃねぇだろ。被害者の遺族だ。応援呼ぶから、もう一回話して自分が何したか嫌ってくらい自覚しろ」
 そう言って、熊田は写真を確認させようと内ポケットに突っ込んだ手を止めた。岡部の様子がおかしい。土下座をした恰好のまま、体を小刻みに震わせている。佐々木も滲んだ涙を拭いて怪訝な顔をした。
「おい、どうし……」
 最後まで言い終わる前に、岡部の体が横に傾いだ。どさりと倒れ、まるで腹痛に耐えるように腹のシャツを強く握り、体を丸めて苦悶の表情を浮かべている。
「岡部!」
 咄嗟に駆け寄り顔を覗き込む。額に脂汗が滲んでいる。
「佐々木、救急車!」
 振り向いて飛ばした指示とほぼ同時に、佐々木が携帯を耳に当てた。
「おい岡部、しっかりしろ! 岡部!」
 救急車をお願いします場所は、と早口で要請する佐々木の声を背中で聞き、熊田は小さく舌打ちを打った。やけにやせ細っているのも、気力がなさそうなのも、息が荒いのも、何かの病気だったからか。だとすると、このまま入院になる。それにあの事故を扱ったのは下鴨署だ。身柄を引き渡すことになる。聞き出すのは今しかない。
 熊田は内ポケットから写真を取り出し、岡部の顔の前に差し出した。
「岡部、これを見ろ。お前たちが会った男はこいつか? 岡部!」
 叱咤するように名を呼ぶと、岡部はうっすらと目を開いた。定まらない視点。分かるだろうか。焦りと苛立ちが募る。
 やがて、岡部が金魚のように口をぱくぱくさせた。
「何だ?」
 口元に耳を寄せると、微かにこう言った。
「……てる……にて、る……」
 サングラスをかけていたから定かではないか。しかし、十分だ。
「分かった、ありがとな。すぐに救急車来るからしっかりしろ!」
 例え聴取を受けて自供しても、物的証拠がない。ただ岡部は、救助はおろか助けを呼ぼうともせずに現場から逃げている。殺人ではなく、保護責任者遺棄致死罪の方で裁かれるかもしれない。どちらにせよ、このまま死なせるわけにはいかない。明たちに、謝罪だけはさせなければ。
 続けて応援の要請の電話をする佐々木を置いて、熊田は素早く腰を上げ、妙子の元へ走った。影から心配そうな顔でこちらをこっそり覗き込んでいる。
 妙子を引っ込ませ、熊田は写真を返しながら言った。
「こいつに似ているそうです」
 妙子は写真を受け取り、勢いよく顔を上げた。
「本当ですか」
「ええ。とにかく、今はここを離れてください。応援を呼んでいます、見られるとややこしくなります」
「分かりました。ではこれを」
 妙子は慌ただしくバッグから一枚のメモを取り出して、熊田に手渡した。
「私の携帯の番号です。終わったら、一度ご連絡をお願いします」
「え? ああ、はい。分かりました」
 困惑気味にメモを受け取ると、妙子は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
 そう言い残し、妙子は少々危なっかしい足取りで斜面を登った。早足で参道を戻る妙子の背中を見送り、熊田はメモに目を落とす。これも、明からの指示だろうか。
 やがて、遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてきた。
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