第11話

文字数 2,440文字

 弥生がぐっと唇を噛み、遠くへ視線を投げた。熊野本宮大社の方だ。邪気は順調に減っているが、まだ完全に排除し切れていない。犬神へ視線を落とした。
「クロ、もう一度悪鬼を……」
 と、犬神へ出した指示を遮ったのは、突如膨れ上がった閃の神気だ。弥生と犬神が弾かれたように視線を投げ、健人が眉を寄せた。
「ああ、変化したみたいだね」
「その方が手っ取り早いからな」
「でも、閃が変化するなんて意外。時間短縮か、あるいは心配してくれたのかな。閃って口数が少ないから、未だに性格を掴み切れてないんだよねぇ」
「同感だ」
 よほど山の中か、あるいは伊勢神宮のような広大な敷地ならともかく、戦闘の音は遮断できず、すぐ近くに民家がある。だから変化はないだろうと踏んでいたのだが、あの規模の悪鬼だ。加えて犬神に呼ばれて一部が離脱している。どのみち音を遮断できないのならと、時間短縮と危惧から、やむを得ず変化したのだろう。
 変化する際の神気の膨れ具合は感じ慣れている。振り向きもせず、閃のピンチという可能性を微塵も想定していない二人ののんきな口ぶりに、弥生が舌打ちをかました。
「クロ、早く悪鬼を……!」
「駄目だ、撤退する」
 健人に強く指示を遮られ、弥生は目を剥いた。
「このまま逃げ出せって言うの?」
「式神もすぐに来る。クロを死なせる気か」
「でも、もう少ししたら……っ」
「弥生」
 横目で健人に睨まれ、弥生は悔しげに口をつぐんだ。
 二人のやり取りに、怜司は眉をひそめた。
「もしかして、援軍か?」
「みたいだね」
 もう少ししたら、と弥生は言った。となると、待機させていた悪鬼ではなく、新たに集めた悪鬼。戦いの最中であり、陰陽師と式神が各地に散らばっている状況。
「街か」
「集め放題だよねぇ。まあ、そう上手くいくとは思えないけど」
 呆れなのか感心なのか、樹は深い溜め息をついた。当主二人が対策済みだと踏んだらしい。同感だ。閃に聞いてもどうせ無駄だろうが、会合で分かる。それに。
「とりあえず、逃すわけにはいかないよね」
「だな」
 今は二人を捕まえる方に集中だ。とはいえ、飛べる犬神がいる以上、方法が限られる。逃げられる前に閃が加勢に入ってくれることを祈るのみだ。
「オン・バザラナラ・ソワカ」
「オン・ノウギャバザラ・ソワカ」
 樹と怜司は略式を発動させ、半身に構えた。
「オン・ノウギャバザラ・ソワカ」
 倣うように健人が略式を発動させ、弥生がゆっくりと独鈷杵をポケットにしまった。そして尻尾を三股に分かれさせた犬神が宙に浮き、二人の背後に移動すると、するりと伸ばした足を腰に巻き付けた。
 双方の間に、張り詰めた緊張感と沈黙が落ちる。
 不意に、熊野本宮大社の方の邪気が完全に消失した。
「クロ!」
青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)勾陳(こうちん)帝台(てんたい)――」
 全員の動きが同時だった。
 怜司、樹、弾かれたように指示を出した健人が霊刀を振り抜き、弥生が真言を唱え、犬神が触手を伸ばす。
文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)!」
 水と火の塊が双方の間で激突し、樹の放った火玉の一部が脇をすり抜けて弥生へ襲いかかった。ぎりぎり張られた結界に激突して盛大に火花が上がる。その後ろから、健人と弥生を絡め取った犬神が飛び出した。山の方、大斎原(おおゆのはら)の方角だ。
 怜司と樹が駆け出した時、熊野本宮大社の方から巨大な龍が姿を見せた。体をくねらせながら、ものすごい速度でこちらへ向かって来る。閃だ。
 と、感覚に邪気が触れた。南西の方角、怜司たちからは右斜め後ろになる。
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・アハンハタエイ・ソワカ! 帰命(きみょう)(たてまつ)る。鋼剛凝塊(こうごうぎょうかい)渾天雨飛(こんてんうひ)斥濁砕破(せきだくさいは)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
 健人の声に呼応して周囲に無数の水塊が顕現し、河川敷に入った閃へ向かって勢いよく放たれた。即座に閃が巨大な水塊を口の前に顕現させる。
 一方怜司と樹は、
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・アギャナウエイ・ソワカ!」
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・アハンハタエイ・ソワカ!」
 それぞれ上級の略式を行使した。荒々しい熱風と激流のような水音と共に大量の炎と水が顕現し、地面を滑りながら全力で空へ向かって振り抜く。
 放った炎と水の塊が、弥生の結界へ到達するほんの一瞬だった。
 激突というより、閃の水塊が健人の水塊を取り込んだと言った方が正しい。一つ残らず水塊を飲み込んだ巨大な水塊を撃ち返そうとした閃の動きが止まり、怜司と樹がぴくりと反応した。
「クロ、急げッ!」
 健人の切羽詰まった怒声が響き、次の瞬間、怜司と樹の放った略式が弥生の結界に激突した。大量の爆竹が暴発したような衝撃音が響き渡り、結界が砕け散った甲高い音が鳴った。
 感覚に触れたのは、邪気と強烈な神気。邪気の方が近い。援軍だ。だが――。
 樹、怜司、人が来るぞ。不意に閃の声が頭に届いた。
「タイミング悪い、空気読んでよ!」
「文句言ってる場合か。逃げるぞ」
「ムカつく――っ!」
 あれだけ音が響けばさすがに不審に思われる。脱兎のごとく逃げ出し、ちょろちょろと流れる水を飛び越えて山の方へ向かった直後、消防署の前の土手に人影が二つ現れた。おい何だあれ、と叫んだ男の驚愕の声を、ドオッと激流のような音が掻き消した。
 肩越しに振り向くと、迷路の辺りだけ豪雨のような雨が降り注いでいる。みるみるうちに沁み込み、あっという間にドッと轟音を立てて崩れ落ちた。悔しいかな、もともと強度が低いのだ。あれだけ水を吸い込めば、重さと不安定さで形を保てない。目撃者も、見間違えや異常現象としてそのうち忘れるだろう。
 なるほど、と一人ごちながらさらに奥へと走る途中で、人型に戻った閃が降ってきた。山がすぐ目の前だ。ここまで来れば、薄暗さで見えないだろう。速度を落とし、立ち止まってから消えていない邪気へ視線を投げる。
 土手の向こう側まで来ていた悪鬼が急に引き返した。だが、近付いてくる神気の方が速い。閃が証拠隠滅を優先したのはそのためだ。
 終わったか、と怜司が息をついたその時――光が、全てを赤く染め上げた。
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