第3話

文字数 2,423文字

「警戒心ねぇ……」
 女性陣の後ろに続きながら、弘貴がぽつりと言った。通路の脇には「史跡 旧林崎文庫」と彫られた石柱が建っている。森の中に、南北朝時代に設立された内宮の学舎跡があるらしい。神宮を参拝した者たちが講義をする講堂、書庫、塾舎などがあったらしく、今は柵がされていて見学はできないが、四月と九月の一定期間だけ公開される。
「四六時中一緒にいれば慣れるし、あいつら人間臭いとこあるから、警戒心薄いって言われてもなぁ」
 困り顔でうーんと唸る弘貴の気持ちはよく分かる。確かに人間臭い。もっと乱暴だったり粗雑だったり、いっそ人間を見下した態度だったら違ったのだろうが、彼らは正反対だ。むしろ好意的で、どことなく育ちの良ささえ感じられる。
 現金だと、自分でも思う。あんなに怖かったのに、気が付けばすっかり平気になっている。今なら聞けるだろうか。会合で聞けなかった、あの話を。
「分かる」
 自嘲気味に笑いながら同意した春平を、弘貴が横目で見て口角を緩ませた。
 バス専用駐車場を右手に参拝路を進むと、正面にコインロッカーが設置された建物と衛士見張所(えしみはりしょ)が隣接している。衛士見張所には、衛士と呼ばれる神宮の案内や警備をする警備員がおり、またペットの預かり、車椅子の貸し出し、おむつの交換ができる場所もある。要は、警備室兼総合案内所のような所だ。ちなみに、一見ホテルマンかと思うような制服に身を包んだ衛士は、警備会社からの派遣ではなく、神宮規則の管理下に置かれた立派な神職だ。
 そして、その向こう側に宇治橋鳥居が建っている。前は広場になっており、中央に枝を広げた松の木が植わっている。
 人気のない広場を横切り、全貌が見えた宇治橋鳥居の前には、真っ白な装束を身にまとった一人の男性が佇んでいた。大宮司だ。こちらに気付き、姿勢を正して一礼した彼に会釈を返しながら小走りに駆け寄る。
「お疲れ様でございます。寮の皆様と、土御門様の式神様ですね」
「はい。お待たせしてすみません」
「いいえ、とんでもない」
 大宮司は言葉を切って、春平たちを順に目を止めた。
「あの、六名と聞いておりますが……」
 ああ、と華が言いづらそうに口ごもる。鬼がいると聞いているのだろうか。視線を泳がせた意味を察したのか、大宮司は柔和な笑みを浮かべた。
「お話は伺っておりますよ」
 どうやら聞いているらしい。それならと華が答えた。
「少し居心地が悪いみたいで、先に周囲を見回っているんです」
 大宮司はああなるほどと言いたげに瞬きをして、眉尻を下げた。
「それは残念です。鬼であれ、この世を護ってくださる方です。ぜひお会いして、神にご紹介できればと思っていたのですが……」
 そうですか、と残念そうに息をついた宮司に、春平たちは目を丸くした。鬼だと知っているのに、好奇心ではなく感謝からそんなふうに思ってくれるなんて。
「あとで、紫苑に伝えておきます」
 嬉しそうに微笑んだ華に大宮司は照れ臭そうに笑い、宇治橋鳥居の方へ手を差し出した。
「どうぞ」
 鳥居の前には木製の柵が置かれ、夜間参拝禁止としたためられた立て看板が設置されている。
 宇治橋鳥居は高さが7.44メートル、内と外の二カ所に建っている。今、春平たちがくぐっているのが外だ。外の鳥居は、元々、棟持柱(たなもちはしら)と呼ばれる外宮の旧正殿の一部が、内の鳥居は内宮のものが再利用されているそうだ。もったいない精神なのか、それとも神聖な正殿の一部としてのお役目を終え、今度はゆっくり参拝者たちを見守って欲しいという願いが込められているのか。
 柵の一部を避けて鳥居をくぐった先には五十鈴川が横切り、反り橋と呼ばれる造りの宇治橋が架かっている。全長101.8メートル、幅8.4メートル。床板や欄干は木製、欄干の柱の上に取り付けられた大きな擬宝珠(ぎぼし)は緑がかっているので、青銅だろうか。右側通行を促すために、真ん中には添え木のような板が打ち付けられている。ちなみに、外宮は左側通行らしい。
 すでに半分ほど山の影に覆われた宇治橋の前で一礼するや否や、突如、弘貴が駆け出した。
「あっ、ちょっと!」
「おー、綺麗!」
 上流側の欄干から身を乗り出して、無邪気な顔で遠慮もなく歓声を上げる。春平と鈴からは溜め息が、華と夏也からはくすくすとした笑い声が漏れた。柵を元に戻した大宮司は、穏やかな笑みでこちらを見守っている。
「もう、弘貴は……」
 境内では騒がず静かにがマナーなのに。とは思うものの――。
「うわ……」
 ついさっきまで青空だけが広がっていたのに、西の空はいつの間にかうっすらオレンジがかっている。青とオレンジの境界線は、霞がかったように白く曖昧で、太陽に近付くほどオレンジ色が濃い。夕日を反射した五十鈴川は水面が眩しいほどの輝きを放ち、優しい水音を立てて流れてゆく。広大な鎮守の森は、鮮やかな緑が黒へと変わりつつある。もう少しすれば、影絵のようになって夕陽との対比で幻想的な光景が見られるのだろう。
 春平は、引き寄せられるように欄干に手をかけ、目を伏せて深く息を吸い込んだ。ここの空気は心なしか涼しくて、とても澄んでいる。夏の煩わしい暑さや、街の喧騒や息苦しさ。自分の弱さや醜悪ささえも――全てを優しく包み込んで洗い流してくれるような、そんな清らかな空気で満ちている。
 神社に行かないわけではないけれど、こうも明確に神域と俗世の差を感じたのは初めてだ。
「綺麗ね」
「はい」
 背後で、華と夏也が言葉少なに感想を漏らす。春平はゆっくりと瞼を持ち上げた。不意に、鈴が隣に並んだ。気持ちよさそうに遠くへ視線を投げる横顔は、とても清々しくもあり穏やかで、紫暗色の瞳には強い光が宿っている。
「鈴、居心地よさそうだね」
 声をかけると、鈴は春平を見下ろして自慢げに笑った。
「ああ。力がみなぎってくる」
 神である鈴にとって、やはり神域は居心地がいいらしい。ましてや天照大御神が鎮まっている場所ともなれば、なおさらだろう。
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