第2話

文字数 2,934文字

 何か目的があって近辺にいた、と推理したはいいが、その目的が何なのかさっぱり見当はつかないし心当たりもない。ただ頭で考えるよりは、現場に言って初めて見えるものもあるし、気が付くことも多い。
 と、思って足を運んだのだが。
 下平は榎本の自宅近くのパーキングに停めた車の中で、一人低い唸り声を上げた。
「何もねぇかぁ……」
 徒歩で例の事件の現場を確認し、敷地にも入ってみたがこれといって気になるような場所ではなかった。ただ、周囲を戸建てと塀に囲まれていて、外からは完全に死角になっているため危険な場所ではある。それを分かっていてこの場所を選んだのなら、加害者は近所の住民だったのだろう。おそらく、もう生きてはいまい。
 そのままゆっくりと周囲を回ってみたが、これといって何もない。ごく普通の住宅街。そもそも、紺野や陰陽師たちのように人ならざるものが見えるわけではない。昨日は何故か見えたが。もし今、頭上に悪鬼がうろついていても気付けないのだ。
 下平は苛立ちを発散するように、組んだ腕をとんとんとリズム良く指で叩く。
 考え過ぎだったのだろうかとも思うけれど、どうしてもあの場所にいた理由が気にかかる。夜十一時近くの住宅街。悪鬼を連れて屋根の上。暗闇に紛れて、何をしていた。
 下平は長い唸り声を上げ、上着のポケットから煙草を取り出した。ケースを弾いて一本咥えたところで我に返る。車内で吸えないのだ。
「ったく、面倒だな」
 ぼやいてから外に出た。いちいち外に出なければ煙草一本吸えない。しかし外の喫煙所で吸っても嫌な顔をされる。ポイ捨ても歩き煙草もしないし、もちろん子供がいる場所では吸わない。マナーを守っているのに文句を言われるのは理不尽だと思う。実に面倒な世の中になったものだ。
 下平は溜め息をついて、周囲に人がいないことを確認してから煙草に火を点けた。
 紙煙草は、確かに臭いもきついし灰も出る。加熱式煙草に変えた時もあったけれど、どうしても味に慣れなかった。充電が必要で持ち運びも不便だし、電子機器なだけに壊れると買い替えになる。だが、独特な臭いはあるが服や髪に沁み付かず、その点は良いなと思ったが、何せ味が合わなかったのだからどうしようもない。ただ、たまに会う孫のことを考えるとかなり迷う。おじいちゃん臭い、と言って逃げられた時はこの世の終わりかと思った。同じ喫煙者で加熱式に変えた同僚は、慣れるまでの辛抱だよ、と言っていたが。
「いや、今それどころじゃねぇから」
 はたと我に返り、下平は自分に言い聞かせる。苛立ちに任せてつい思考が逸れてしまった。
 と、内ポケットの携帯が震えた。煙草を咥えて取り出し確認すると、紺野からだ。何かあったか。
 メールには、宗一郎(そういちろう)(あきら)の携帯番号とメールアドレス、雅臣の顔写真を送っておいて欲しい旨が書かれてある。昨日の件で関わっていることが伝わったらしい。雅臣の顔写真は、捜索願で使われた物を携帯に転送してある。
 煙草をふかしながら、まずは件名に自分の名前を入れた。本文に携帯番号と「一昨日、捜査員が犯人の一人と思われる女に遭遇し、現在似顔絵を作成中。何か分かり次第ご連絡します」と簡単な状況説明を書いて写真を添付し、二人に一斉送信した。ついでに紺野にも同じ内容のメールを送っておく。
 送信完了の表示を見て画面をオフにし、長く紫煙を吐き出す。さて、これからどうするか。榎本からはまだ連絡が来ない。時間は十一時過ぎ。冬馬は起きているか分からない。起こしても申し訳ないし、せめて昼まで待つか。となると、やはり女の足取りだ。
 しかし、屋根を伝って移動していたとしたら、どの防犯カメラにも映っていない可能性が高い。生身の人間がどうやって移動したのかという疑問は残るが、悪鬼を連れていたのならどうとでもなるのだろうと考えるしかない。何せ、千代の能力は解明されていないらしいのだから。
「悪鬼か……」
 下平はぽつりと呟いて手帳を取り出した。以前、紺野たちから聞いた陰陽師用語なるものが書かれたページを開く。
 悪鬼とは、俗に言う悪霊と、人の負の感情から生まれ個体として行動するものを指す。生んだ人間の恨みを晴らし、それが終わったら邪気の強い者を取り込むか、あるいは取り憑き、邪気を吸ってさらに肥大化する。時には生んだ本人をも取り込むことがある。
「取り憑いて、肥大化……」
 悪鬼が肥大化すると、取り憑かれている人間はどうなるのだろう。負の感情の塊である悪鬼に取り憑かれた時点で、他人のそれも抱えることになる。自分と他人の負の感情が合わされば、それだけ負の感情が増すことになるのではないのか。
 あの女は悪鬼を連れていた。もし、もしもだ。あの時、誰かに悪鬼を取り憑かせようとしていたとしたら、あるいは取り憑かせた後だったとしたら。
「いや……有り得ねぇか……」
 女が犯罪被害者、あるいは遺族だったとしたら可能性はゼロだ。人の負の感情を増幅すれば、最悪の場合被害者を増やすことになる。一昨日の行動と完全に矛盾する。それともあの行動は気まぐれで、榎本たちは運が良かったのか。
「まあ、それはそれで良かったけどな」
 大事な部下を失いたくはない。下平は手帳を閉じ、最後の一口を吸って長く紫煙を吐き出した。
 とりあえず、全ては憶測に過ぎない。女が犯罪の被害者かどうかも分からないのだ。思い付く可能性を一つずつ潰していくしかない。
 下平は短くなった吸い殻を携帯灰皿に突っ込んで清算を済ませ、ついでに隣に設置されてある自動販売機でお茶を購入してから、パーキングを出た。
 気の向くまま、当てもなく車を走らせる。住宅街なので、徐行でゆっくり回れるのは助かった。きょろきょろと視線を動かしながら何か異変がないか注意深く回る。
 いっそ見たのが被害者女性ではなく榎本なら、一緒に連れて回ったのだが。
「俺が見てもなぁ……」
 つい弱気な言葉が漏れる。
 やっぱり無理かと諦めかけた約三十分後、目の前に見える光景に眉を寄せた。
「なんか事件か?」
 制服を着た警官が一軒家の門扉の前で立ちはだかり、マスコミや野次馬らしき者たちが数人たむろっている。中継中らしい、マイクを手に女子アナウンサーが神妙な面持ちでカメラに向かって何か喋っている。
 下平が徐行で近付くと、警官が「避けて避けて」と彼らに注意を促した。横目で様子を窺いながら通り過ぎる。警察車両が停まっていないところを見ると、鑑識や捜査が終わって現場保持か。
 下平は住宅街を抜け、烏丸通に出てから路肩に車を寄せた。
 今日は起きてからニュースをチェックしていない。携帯で検索をかけるとすぐにヒットした。昨日、上京区で妻が夫を刺殺したとあるが、動機が書かれていない。まだ判明していないか、何か理由があって非公開にしたか。
 うーん、と下平は記事を読みながら唸り声を漏らす。これだけでは何とも言えないが、もしあの女が関わっているとしたら、娘――。
「あ、いくつくらいなのか聞いてねぇな」
 寮には茂がいるのだ、敵側も全員若いとは限らない。この事件が女と関係あるかどうかは分からないが、府警本部に出頭しているし、殺人事件なら捜査一課も関わっている。紺野たちに探ってもらうか。
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