第1話

文字数 1,957文字

 鑑識課を出て少年課に戻った下平(しもひら)は、さっそく捜査員を集めて捜査会議を始めた。
 まず、昨日科捜研に依頼した鑑定結果が届いていると報告を受けた。菊池雅臣(きくちまさおみ)の顔写真と防犯カメラ映像の照合結果は、やはり合致した。これで、雅臣は被疑者として警察から追われることになる。携帯電話会社への協力依頼は、了承の返事は来ているがデータはまだ届いていなかった。
 次に下平は、つい先ほど榎本(えのもと)から聞いた話と、現在鑑識で似顔絵を作成していることを伝えた。
 捜査員たちは、河合尊(かわいたける)の一年前の出来事の証言と似通った部分が多いことは認めたが、屋根の上に女がいたことも含め、終始怪訝な表情を浮かべたままだった。
 黒い煙に加害者が食われ、突如として消えた。どう考えても現実的ではない。けれど二人から同じ証言が出た。何よりも、消えた瞬間を榎本が目の前で見ている。そう言った下平に、捜査員たちはどこか覚悟を決めた面持ちで指示を仰いだ。
 下平は、雅臣が通っていた塾への聞き込みと、両親へ報告すると共に、何か思い出したことはないか再度聞き取りをし、連絡があったらすぐ教えるように伝えておけと指示を出した。さらに捜査員たちは、襲撃事件現場周辺の防犯カメラの再確認と、もう一度現場へ行って聞き込みし、手掛かりが残されていないか確認してくると言った。
 便利な世の中になったとはいえ、現場百回は刑事の基本だ。自分たちの目で見て気付くことも多い。普通なら笑い飛ばすような証言を信じたことといい、良い部下を持った、と下平は満足して頷いた。
「さて」
 慌ただしく課を飛び出した捜査員たちを見送り、下平はひとまずパソコンを立ち上げた。調べるのは、草薙龍之介(くさなぎりゅうのすけ)の犯歴と、被害届の有無。
 紺野(こんの)から聞いた話では、龍之介は洒落にならないこともしているらしい。草薙家と繋がりがある宗史(そうし)らが言うのなら間違いない。となると、被害届の一つや二つ出ていてもおかしくない。もし示談をしていたとしても警察のデータには残る。だが。
「……出ねぇな……」
 下平は眉を寄せてぼやき、背をもたれて腕を組んだ。
 犯歴どころか被害届さえ引っかからない。
 寮の女性陣全員に手を出し、キャバクラを出入り禁止になるくらいだ。間違いなく相当女癖が悪い上に質も悪い。だが、相手は草薙製薬の身内だ。被害者がどれくらいいるかは分からないが、全員が泣き寝入りした、あるいは被害届を出される前に、内々に収めたか。
 下平は苛立ったように頭を掻いた。同じ男として恥ずかしいし腹立たしい。今夜グランツに乗り込んで一発二発殴り飛ばしてこようか。
 下平は長く息を吐き出してパソコンを閉じ、携帯を手に取った。ナナに結果を送ってから、少年課を出る。
 駐車場でいつもの車の扉を開けて、下平は動きを止めた。
「……まあ、そうだろうな」
 冷静に一人ごち、座席の砂を適当に払って乗り込む。助手席と後部座席を確認すると、同じように砂まみれだった。助手席に冬馬(とうま)の血痕が付いていないのは幸いだ。榎本に見られたら、確実に何があったのか根掘り葉掘り聞いてくる。
「帰ってから掃除機かけるか」
 面倒だが、と付け加え下平は下京署を出発した。目的地は、榎本の自宅、正しくは自宅周辺だ。
 ふと、そういえば昨日のことを何も突っ込んでこなかったなと気付いたが、よほど例の件で頭がいっぱいだったのだろう。自ら首を絞めるようなことはしたくない。ここは黙っておくのが正解だ。
 榎本の話を聞いて、疑問に思ったことがある。
 一つ目は、屋根の上にいた女は、あんな時間に一体何をしていたのか。まさか悪鬼を連れて夜の散歩ではあるまい。何か目的があったはずだ。
 二つ目は悪鬼の動き。男を食らったあと、何故榎本たちを放置したのか。もしあの悪鬼も千代の力によって制御されていたのなら、食らわなかったのは意図的ということになる。その証拠に、昨日、(いつき)を大窓から放り出した。人を食らうはずの悪鬼が食らわずに放棄したということは、そう指示されていたのだ。
 何か目的があってあの場所、あるいは近辺にいて、榎本の叫び声に気付いて介入してきた。
 この推理が正しかったとしたら、一つの仮説が浮かんでくる。
 女性に乱暴を働いていた男を悪鬼に食わせ、被害者と助けに入った榎本は見逃した。つまり、狙いは犯罪者。もし女も雅臣と同じく何かしらの犯罪被害者、あるいは遺族だったとしたら。
「複雑だな……」
 下平はぽつりと一人ごちた。
 犬神事件もそうだ。被害者の復讐に手を貸して犯人を殺害し、今回は悪鬼に食わせた。この世を混沌に陥れようとしているはずの者が、人を助ける。矛盾しているが、そうだと分かっていても消し去りたいほど、犯罪者を憎んでいるように思える。やはり、女も犯罪の被害者なのだろうか。
 下平は嘆息し、榎本の自宅へと車を走らせた。
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