第20話

文字数 3,310文字

 明が気を取り直すようにゆっくりと一度瞬きをして、美琴に向き直った。
「改めて聞く。君は、どうしたい?」
 そうだ。話しが中途半端だったのだ。美琴は視線を落として深く息を吸い込むと、真っ直ぐ明を見上げた。
「行きます」
 これ以外の選択肢はない。自分は母から逃げたかった。母は自分を殺そうとした。ならばもう、これ以上一緒にいてもお互いのためにならない。最悪の事態になる前に、離れるしか道はない。
 はっきりと告げた答えに、明は小さく頷いた。
「荷物をまとめなさい。最小限でいい。あとはあちらで揃える」
「はい」
 頷いて、美琴は明の横をすり抜けた。母には一瞥もくれず部屋へ入る。
 自分でも驚くほど、頭がクリアだ。鞄は、小学校の修学旅行で使ったボストンバッグがある。服などは大して量がないので入るだろう。ちょうど年度末で学校に私物は残していないし、三年生からの転校だから教科書は変わる。だが念のためにノートと制服、文房具に服や靴。持って行くべき荷物を頭の中でリストにしながら、美琴は投げ散らかした教科書類を拾い集めた。
 キッチンの方から、明たちの話し声が届いた。
「ちょっと、荷物って何の話? 美琴、あんた何してるの!」
「お話は私の方から致します。その前に一つ訂正を。私たちと彼女は、関係など持っていません。三宮で声をかけられたことは事実ですが、そのあと話をして食事をしただけです。私たちも彼女も、犯罪者ではありません」
「何言ってんの? そんなわけないでしょ」
「何故?」
「あの子を気に入ったからまた会いに……いえ、いいわ。分かった。そういうことにしておくわ」
 美琴はふと手を止めた。関係を持ったと言質を取ればお金のことも追求できたのに、意外とあっさり引き下がった。不自然だ。訝しげに眉を潜めつつ、聞き耳を立てて手を動かす。
「ねぇ、そろそろ放してくれない? 男二人相手に暴れもしないし逃げもしないわよ」
 諦めたような、開き直ったような口調。明も違和感を覚えたのか、数秒ほどの沈黙が落ちた。明が閃へ目で指示し、解放したのだろう。母が「いたた」と溜め息交じりの声を漏らし、急くように「で?」と先を促した。
「荷物って何のこと?」
「失礼、申し遅れました。私、土御門明と申します。率直に言いましょう。彼女を、我々に預けていただけませんか。養育費や学費、生活費、その他諸々の費用はこちらが全て負担致します。そちらには一切請求しません」
 さすがに不審に思ったのか、今度は母が一拍開けた。
「あの子の何がそんなに気に入ったの?」
「おや、お分かりになりませんか? 彼女は優秀ですよ。真面目で理解も早く、頭の回転もいい。さらに勇敢です。何より、人を気遣うことができる優しい子です」
 聞きながら、顔が熱くなった。そんなふうに思ってくれていたのか。
「ふぅん……」
 この口調。何か企んでいる。何をするつもりだ。
「そ、分かった。ところであんたたち、どうせあたしの話を電話で聞いてたんでしょ?」
「ええ」
「だったら今さら良い母親ぶるつもりはないわ。でもね、あの子はあたしの子よ。あたしがお腹を痛めて産んで、十四年間育ててきたの。言いたいこと、分かるわよね?」
 試すような問いかけに、美琴は目を丸くした。ボストンバッグに服を詰めていた手を止め、勢いよく立ち上がる。
「お金ですか?」
「当然でしょ?」
「お母さん、やめて!」
 可能性として考えてはいたけれど、まさか本当に金を要求するとは。さっきまで、生きていてもしょうがないだの誰にも愛されないだのと悲壮感を漂わせて人を殺そうとしたのに、金になると分かったとたんこれか。もう金の亡者だ。
 部屋から飛び出すと、護衛のようにキッチンと居間の間に閃が立っており、三人が同時に振り向いた。
「あんたは黙ってなさい。今まで何の役にも立ってこなかったんだから、最後くらい親孝行しなさいよ。こいつがどこの誰か知らないけど、費用を全額負担するって言うくらいだもの。お金持ちなんでしょ」
「だからって……っ」
「美琴」
 制したのは閃だ。小走りに駆け寄った美琴の腕を掴み、顔を覗き込む。
「明に任せておけ。お前は早く支度をしろ」
 紫暗の瞳に見据えられ、美琴は息をのんだ。ぐっと拳を握って足元に視線を落とす。
 今、ここで引き下がったらどうなる。母は、金を払わなければ娘は渡さないと言う。絶対だ。いくら? 百万、二百万? いや、ここぞとばかりにもっと高額な金額を吹っ掛けるに決まっている。明も以前、何もしなくていいと言ったけれど、これ以上迷惑をかけられない。それにこれは、本来自分と母の問題だ。
 美琴は唇をきつく結んで顔を上げ、真っ直ぐ母を見据えた。
「お母さん」
 ここで母を説き伏せなければ、何も変わらない。変えられない。自分も、母も。
「これ以上おかしなことを言うなら、警察に通報する」
「は?」
 母が眉をひそめ、明と閃が目を丸くした。
「この前の刑事さんに、今までのことを全部話す。お母さんがおばあちゃんとあたしに何をしてきたのか。今日あたしを殺そうとしたことも、全部。あんなに騒げば、近所の人たちにも聞こえてる。それでも警察が来ないのは、皆知ってるからだよ。またいつものだって。だから、あたしが通報する」
 通報すれば、当然大騒ぎになる。母の暴力を察していた人もいるだろう。それがただの憶測ではなく、事実だったと近所中に知れ渡るのだ。自身が大切な母にとって、逮捕されることも含め、屈辱だろう。
 明たちのことは、素直に話しても問題ない。むしろ補導の記録が残っているから、むやみにごまかさない方がいいだろう。事実お金なんかもらっていないし、ましてや体の関係もない。あの日どこにいたのかは言えないけれど、場所なんかどこでもいい。そして今日は、以前知り合ってから相談に乗ってもらっていて、助けを求めて連絡したら偶然仕事で近くに来ていたことにすればいい。
「あんた……ッ」
 一歩こちらへ踏み出した母を、閃が鋭く睨みつけて制した。ぐっと息を詰めて足を止め、忌々しげに美琴を見据える。
「お母さんは、一生懸命働いてくれてる。お母さんが家賃や光熱費を払ってくれてるからここで暮らせてるし、ご飯も食べられるし学校にも行けてる。お金の大切さは分かるし、捨てないで育ててくれたことは、本当に感謝してる」
 朝は食パン一枚、夜はスーパーの総菜や値引きされた弁当、修学旅行は諦めろと言われ、下着一枚買って欲しいとすら言えなくても、冷静に考えると、母が働いているから屋根の下で暮らせているのは事実だ。そして何より、祖母がいたこともあるのだろうが、殺さずに、捨てないで育ててくれた。
「でも、お母さんとの思い出は一つもない。一緒に出掛けたことも、抱きしめてくれたことも、頭を撫でてくれたことも、本を読んでくれたことも、一緒に寝てくれたことも、褒めてくれたことも、笑いかけてくれたこともない。あたしは、いつも何かに苛立ってるお母さんの顔と、怒鳴られたことと殴られたことしか覚えてない。あたしが親孝行したいのはお母さんじゃない。おばあちゃんだよ。おばあちゃんが死んで、お母さんがいなかったらあたしは生きていけない。そう思った。だから、見捨てられないように自分でできることをしようとした。でも間違ってた。だって、お母さんにとってあたしは、初めから……っ」
 いらない子供だったんでしょ。そのひと言が、出なかった。
 強く拳を握って顔を歪め、必死に唇を噛んで涙を堪える。泣くなと自分に言い聞かせ、長く息を吐き出して再び視線を上げた。
「あたしたち、これ以上一緒にいない方がいい。お母さんにもあたしにも、いいことなんか一つもない。それに、あたしがいなくなればお母さんはお金も時間も自由に使えるし、人殺しをしなくて済む。幸せになれるでしょ? そしたら、死ななくていいよね」
 皮肉っぽいなと、自分でも思った。でも母は、娘は父を繋ぎとめられなかった役立たずで、お金がないのも、幸せになれないのも、全部娘のせいだと思っている。そして自分もまた、母に失望し、落胆し――きっと、少なからず恨んでいる。だから、こんな言い方しかできない。
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