第9話

文字数 6,975文字

「結界だけで霊力を使い果たしたら他の術が使えなくなるから、加減を覚えて」
 そんな前置きをした後で、(いつき)はさっそく基本的な結界の訓練から入った。
「そう、集中して。余計な力を抜いて、全神経を手に集中するイメージで」
 樹の落ち着いた声に導かれる。
「結界の形を明確に想像して」
 結界の基本形は円の中に五芒星(ごぼうせい)。光り輝く星の形。公園で見た、あの形。
「ゆっくり、真言を唱えながら(いん)を結んで」
 集中するために目を伏せたまま、大河は胸の前で組んでいた両手で覚えたての印を結ぶ。間違えないように、まだゆっくりでいい。落ち着いて。
青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)
 たどたどしく結ぶ印と唱える真言に呼応し、眼前に光が現れる。目を閉じていても明るくなっているのが分かる。
勾陳(こうちん)帝台(ていたい)文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)
 最後の一文字を唱えて印を結ぶと、五芒星がはっきりと形を成した。
「目を開けて。気を抜かないで、集中したまま保って」
 ゆっくりと目を開けると、見事な五芒星が目の前で仄かな光を放って浮かんでいた。やっと成功した。何度失敗したか数え切れない。大河は内心小躍りしつつ、気を抜くとすぐに消えてしまう五芒星を保つためにさらに気を引き締めた。ここで消えたら今度こそ樹から飛び蹴りを食らう。
 樹は大河から数メートル離れた場所に立つと、側に置いていた箱の中からおもちゃのゴムボールを取り出し、ぽんと放った。ボールは真っ直ぐ五芒星にヒットし、小さな火花を散らして跳ね返り、地面に転がった。
「うん、オッケー。次行くよ」
 これまでなんとか結界を張ってもゴムボールを当てると瞬く間に消えていたが、今回はまだ鮮明に五芒星は残っている。これならなんとか。
 樹は、今度は野球の軟球を選んでぽんと放る。これも真っ直ぐ五芒星のど真ん中に当り、さっきのゴムボールと同じように跳ね返って地面に転がった。
「へぇ、いいね。じゃあ、思いっきりいってみよう」
 よっしゃ来い! 大河はさらに集中する。樹が目の前で軟球を持ってピッチャーさながらに振りかぶり、投げた。思った以上にスピードが速い。大河はげっと小さく呟いて印を組んだ両手に力を込める。が、
「うわっ!」
 五芒星がバリバリッ、と感電したような音を立て、軟球が甲高い破裂音を響かせて木っ端微塵に四散した。同時に、硝子が割れるような音を立てて五芒星も四散して消えた。
 大河は軟球がぶつかった衝撃で弾かれ、バランスを崩して後ろに尻もちをついた。五芒星と術者は連動していると聞いてはいたが、軟球がぶつかった衝撃がこれほどとは思わなかった。いや、これは樹の投球力が凄まじいのか。
「び……っくりしたぁ……」
 尻もちをついたまま呆然とぼやいた大河に、縁側で様子を眺めていた弘貴(ひろき)春平(しゅんぺい)が駆け寄ってきた。
「大丈夫? 大河くん」
「すげぇ衝撃だろ」
「うん。びっくりした」
 大河は目を真ん丸にして、差し出された弘貴の手を握り返した。よっ、と勢いをつけて引っ張り上げられる。
「樹、初日からちょっとハードじゃないのか? 大河くん死ぬぞ」
 縁側から進言したのは怜司(れいじ)だ。
「何言ってんの、さっきも話し聞いたでしょ。大河くん、略式の術使えるんだよ。問題ない。それに、できるだけ短期間でって宗一郎さんから言われてるんだ」
 あの人はいつの間にそんなことを! 大河はがっくりとうなだれた。樹にしごかれるのは決定したようなものだ。
「それに、初日で結界張れるなんて聞いたことない。相当見込み有りだね。楽しみ。報告しとく」
 砕け散った軟球の破片を拾って目の前に掲げながら告げられたお褒めの言葉に「ありがとうございます」と返し、大河ははたと気が付いた。
 楽しみって何が!?
 宗一郎容認のしごきか、それとも霊符無しで式神を召喚させることか。絶対的に後者だろう。樹が大河の指導係を引き受けるメリットはそこしかない。しごきまくった暁には牙を霊符無しで召喚させる気だ。
「僕ちょっと休憩」
 ああ疲れた、とぼやきながら軟球の破片を放り、樹は縁側に寝転がった。
「何か飲み物もらってきます」
「うん、お願い」
 寝転がったままひらひらと手を振る樹の傍からリビングへ入る。樹さん俺らにも指導してよ、ええ嫌だよ僕死んじゃうよ、と弘貴と樹の会話を聞きながら、大河はキッチンを覗いた。
香苗(かなえ)ちゃん、お茶もらうね」
「うん、どうぞ」
 (はな)の代わりに夕飯の下ごしらえをしている香苗に断ってから、冷蔵庫から麦茶が入ったポット、食器棚からグラスを五つ用意して注ぐ。ソファでは夏也(かや)と双子が本をめくっている。
 賀茂家を出て寮へ到着したのは、午後三時近い時間だった。明たちに連れられて寮の玄関をくぐると、対応に出てくれた弘貴が一瞬固まり、大声で名前を叫ばれた。その声で春平と香苗がリビングから飛び出してきて、二階からちょうど起きてきた樹と怜司が寝ぼけ顔で下りてきた。そして、夏也と一緒にリビングの扉から覗き見るようにして(あい)(れん)が顔を出した。(すばる)美琴(みこと)(しげる)と華は哨戒中で不在だった。公園の件をきっかけに、昼間の哨戒を強化するよう、当主二人から指示が出たらしい。
 出迎えたはいいが、あんなことの後だ。どこかよそよそしい空気が流れる中、大河は深々と頭を下げた。
「あの、皆がよかったら、またお世話になりたいと思ってます」
 大河が緊張気味に告げた時、緊張感のない声でさっさと話を切り上げたのは樹だった。
「玄関、開けっぱなしだと虫が入ってくるから。入りなよ」
 そう言って大あくびをしながらリビングに向かった。それをきっかけによそよそしい空気は払拭され、皆の顔に笑顔が浮かんだ。明たちを見送ってからリビングに入り、恐縮した様子で見ていた藍と蓮を抱きしめてやると、二人は力いっぱい抱きついてきた。これからよろしくな、と囁いた言葉に、双子は嬉しそうに頷いた。
 しばらくリビングで皆と談話していると、身支度を済ませた樹が突然、
「さっそくだけど、庭に出ようか。大河くん」
 何故か嬉しそうに口角を上げて庭を指差した。
 宗史が、指導は樹か茂か自分がつくことになると言っていたが、まさかこんなに早く指導を受けるとは思っていなかった。だが、早いに越したことはない。大河は気合を入れて庭に出た。それが午後三時半過ぎ頃。
 そして現在、午後六時半。間に十五分ほどの休憩を一度入れたきり、三時間の訓練を受けた。
 大河はグラスを乗せたお盆を持って縁側に戻った。怜司が弘貴と春平二人と手合わせをしている。
「樹さん、どうぞ」
「あ、ありがとー」
 体を起こした樹にグラスを手渡し、弘貴たちを眺めながら自分の分を持ってお盆を床に置いた。
「すごい……二人相手にあんな簡単に……」
 弘貴と春平の息も合っているが、それをものともしない怜司の防御力は素人目でもかなりレベルが高い。感心しながら隣に腰を下ろす大河とは対照的に、樹はもどかしげにああもうとぼやいた。
「何度も注意してるのに、全然直ってない」
 え? と大河が樹を見やった瞬間、
「弘貴、足元がお留守だ」
 怜司が冷静に指摘しながらしゃがみ込み、弘貴の足を払った。うわっ、と声を上げながらバランスを崩した弘貴が地面に倒れ込み、それに気を取られた春平の腹目掛けて立ち上がった怜司が拳を繰り出した。
「……けほっ」
 打ち込まれると思った拳はとんと軽く当った程度で止められ、春平が軽く咳き込んだ。
「もう……弘貴くんはやけになると周りが見えなくなるし、春くんはすぐに人を心配して気を取られる。何度か注意したのに一向に直らない。あの二人、コンビ解消した方がいいんじゃないのかなぁ。危なっかしい」
 樹はグラスを煽りながら厳しい意見を吐くと、再びごろんと仰向けに転がった。
 大丈夫か弘貴、ああもうまた見えなくなってた、ごめん僕も気を取られた、練習あるのみだ、と反省会を始めた三人を眺めながら、大河は素朴な疑問をぶつけた。
「樹さん、哨戒の時のコンビって、決まってるんですか?」
「大体ね。僕と怜司くん、弘貴くんと春くんは固定されてるけど、他の人は状況で色々。ああでも、昴くんと美琴ちゃん、しげさんと華さんになりつつあるかな」
「夏也さんと香苗ちゃんは?」
「あの二人はあまり霊力が強くないから後方支援中心。でもとても優秀だよ。仕事の話は聞いた?」
「はい」
「内容によっては同行してもらうんだ。あの二人、真面目で指示をちゃんと聞いてくれるから助かるんだよね」
 確かに、見た目からしてどちらも真面目そうだ。
「大河くんの初陣は、宗史くんと晴くんが一緒だろうね。僕たちより一緒にいる時間が長いみたいだし」
「え? 初陣?」
「そ。日々の訓練も大切だけど、一番手っ取り早いのはやっぱり実戦だから。それなりに術が行使できるようになったら、仕事入れられると思うよ。宗一郎さんたちのことだから容赦ないだろうなぁ」
 そう言えば島を出た時、船で宗史が言っていた。人使いが荒くなると。もしやこのことか。
「そうだ。大河くんはさ、何か武道やってる?」
「はい。じいちゃんから剣道習ってました」
「それでか。こんな時の集中力がすごいのは」
 普段は落ち着きがないとか集中力が続かないなどと言われがちだが、影正の稽古のお陰か、何かに打ち込んだ時の集中力は凄いと褒められることがある。影正には最後の最後まで叱られっぱなしだったが。
 うーん、と樹は逡巡すると言った。
「実戦の時、て言うかこれからのこと考えて、体術もできた方がいいよね。手はどうしても術を行使する時に使うから、夏也さんからテコンドーの足技習うといいよ。彼女、有段者でジュニア大会優勝の実力者だから」
「えっ!?」
 思わず背後のソファを振り向いた。すらりとして、どちらかと言うと体力も腕力もなさそうな彼女が、まさかのテコンドー有段者だとは。
「人は見かけによらないって言うけど。後で頼んでみます」
「うん、そうして」
 さて、と樹は勢いをつけて起き上がった。
「今日の総復習といこうか」
「はい」
 と、玄関の方から数人の足音がこちらへ向かってきた。
「大河くん!?」
 駆け寄ってきたのは華だ。玄関から直接庭へ回り込んだらしい。後ろには昴と茂が続いている。
「弘貴からメッセージもらってびっくりして、もっと早く戻りたかったんだけど哨戒中だったしお買い物もあったし……っ」
 三人に囲まれ、興奮気味に何やら説明する華に押されてああはいと返す。
「宗史さんたちと一緒だったんだよね。来る前に連絡くれればよかったのに。びっくりした」
「そうだよ。僕が迎えに行ったのに。駅からタクシーで来たのかい?」
「え……」
 昴と茂にそう言われ、大河は少し言い淀んだ。実は山口を出る前、寮へ連絡を入れた方がいいのかと尋ねると、宗史と晴に必要ないと一蹴されたのだ。何故かまったく分からなかったけれど、話を聞いた今はその理由が分かる。
「あー、うん。実は皆を驚かそうと思って。迎えは明さんが来てくれて」
 実際は駅からタクシーで賀茂家へ、それから晴の運転で寮へ来たのだが、そうしておかないと辻褄が合わない。
「あれ? でも来た時宗史くんいなかったよね」
 樹に指摘され、大河はさらにうろたえた。嫌なところに気付く人だ。
「そ、宗一郎さんから急ぎの用事頼まれたらしくて先に帰ったんです」
「へぇ、そうなんだ」
 どこか疑っているような口調で一応納得した様子を見せた樹に、大河は曖昧に笑った。
「そんなことより」
 華が満面の笑みを浮かべ、両手で大河の手を握った。
「おかえりなさい」
 思いもよらない言葉をかけられ、大河は大きく目を見開いた。
 大河にとって、寮は家ではない。ここに留まるのも事件が解決するまでの間だけで、しかもあんなことがあったのに。それなのに、おかえりなさいと言って迎えてくれる。
「ただいま」
 お世話になりますでも、よろしくお願いしますでもなく、ただいまと言える。期間限定だが、ここが今の自分が帰る場所だ。
 大河は満面の笑みを返した。と、突然華が手を放し一拍した。
「いけない、アイスが溶けちゃう。今日特売だったのよー。いっぱい買ってきたから後で皆で食べよ」
 そう言って華は昴と茂を連れて玄関の方へ慌ただしく戻って行った。
「ちょっと」
 突然リビングから声をかけられ、思わず体を震わせる。振り向くと、美琴がむっつりとした表情でこちらを見下ろしていた。
「玄関の荷物、あんたの?」
「あっ、ごめん。どうしたらいいか分かんなくて置きっ放しに」
「いいから早くどけて。邪魔」
「……す、すみません……」
 食い気味に言うだけ言って踵を返した美琴を、呆然と見送る。
 彼女は自己紹介の時も顔を上げようとしなかった。食事の時も黙々と食べて、その後も一応その場にいたものの一切口を開かず、晴たちが帰るとすぐに風呂に入って部屋に下がった。樹と怜司に尋問を受けていた大河とは、一言も口をきく暇がなく、さらにその後はあの事件だ。機嫌が悪かったのか、あれが通常運転なのか分からない。
「きっついだろ、あいつ」
 弘貴が背後から少々不機嫌な声で肩に手を回してきた。視線は美琴の背中だ。
「ほんっと可愛くねぇ。せめてあの言い方どうにかしろっつーの」
「美琴ちゃんだっけ。前からあんな感じ?」
「そ。無愛想だし協調性ねぇし、いっつも人を見下した目で見やがるし。可愛気ってもんがねぇ」
 相当不満が溜まっているようだ。ぶつぶつぼやく弘貴に、大河は首を傾げた。
 まあ無愛想は否定しないが、協調性がないはどうだろう。なかったら寮生活は無理だろうし、ましてやコンビを組んだ哨戒などできなさそうだが。
「弘貴、駄目だよそんな風に言っちゃ。美琴ちゃんだって、色々あるんだろうし」
 咎めたのは春平だ。言いながら大河にのしかかっている弘貴をひっぺがす。
「色々って、そんなの皆同じだろ。あいつだけが特別じゃねぇんだ。それに、あいつ俺にだけやたらときついんだよ! それがムカつく!」
 ただの私怨じゃねぇか。大河は先ほどの弘貴の見解を忘れることにした。いや待て。これはもしかして。
「それは弘貴が変に美琴ちゃんに絡むからだよ」
「ちっげぇよっ! あいつがムカつく言い方するからだ! もっと言い方ってもんがだなぁ!」
「大河くーん、部屋開けるから荷物入れちゃってー」
 何やら力説しようとした弘貴を華の暢気な声が遮り、弘貴は脱力した。
「あっはい! すぐ行きます!」
 返事をし、大河は樹を振り向いた。
「ちょっと行ってきます」
「うん」
 ひらひらと手を振る樹に会釈をし、大河は毒気が抜かれた弘貴の背中を叩いて、耳元に唇を寄せた。
「好きならもっと優しくしてあげれば?」
「……は?」
 にやりと笑って言ってやると、弘貴は虚をつかれた顔で大河を見返した。固まった弘貴を放置して縁側に上がると、意外とすぐに正気に戻ったらしい、背後から大声で抗議の声が届いた。
「ふざけんな何で俺があんな奴……っ! 大体俺がす……っ」
 はたと口をつぐんだ弘貴を大河が立ち止まって振り向き、樹と怜司が一斉に視線を向けた。春平は呆れ顔で「馬鹿」と呟いている。へぇ、と言いながら三人が興味津津といった顔でぞろぞろと集まる。
「弘貴、好きな女性がいるのか?」
 怜司が眼鏡を押し上げながら尋ねる。太陽の光を反射したレンズがきらりと光った。
「誰々?」
 興奮気味に大河が迫る。
「ここで言えないってことは、寮にいる誰かってことだよね?」
 冷静な分析をしながら樹が畳みかける。
「と言うことは、美琴を除いた三人か。藍を入れれば四人だが」
「俺ロリじゃねぇし! って言うかいくら二人に尋問されても言わないですから!」
 あ、馬鹿。と思ったのは大河だけではない。春平が盛大に溜め息をついている。案の定、何かのスイッチが入ったのか、樹と怜司がにやりと口角を歪めた。
「ほぅ?」
「へぇ? じゃあ、受けてもらおうか。その尋問」
「あ、やば……っ」
 今さら気付いても遅い。弘貴はすっかり尋問モードに入った二人に引き摺られ、庭の端に拉致された。縁側を避けたのはせめてもの気遣いか。
 その様子をしばし眺め、大河はくるりと春平を振り向いた。この様子だと「今日の総復習」はおあずけだ。それと、以前樹と怜司の生贄にされた恨みを思い出した。あの時の恐怖を思い知れ。
「俺、荷物片してくるわ」
「手伝うよ。そうだ、あとで細々した日用品とかリストにして、明日買い出しに行かない? コンビニの場所とか知っておいた方がいいだろうし」
「あーそれ助かる」
 コンビニは知っとかないと不便だよな、でしょ、と和やかな会話をしながら、二人は庭から消えた。

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